九十一話―アナ、強襲
「お市様!」
はっと幾之助は目を覚ました。
それが自分の叫び声から来たものではないという事は、本能的に察しがついていた。
外は煌々と月が光っていた。
熟睡から覚めるのに時間がかかったようだ。
ゆっくり、ゆっくり、爆音が響いてくる。
今は一都市ばかり離れているだろうか。
それが近づいてきた時、幾之助は誰の仕業か理解した。
家やビルが自ら浮き上がり、そして倒壊していく。
悲鳴や轟音が響き渡る。
「重力使い……東ドイツの彼女ですね」
即座に着物を整え、刀を帯びる。
傷の治りは7割といったところだろう。
外に飛び出すと同時に、目の前のアパートが浮き上がった。
とっさに前を向いた儘飛びずさり、倒壊に備える。
すぐにアパートは轟音と共に落下し、地響きを起こした。
もうもうとする土煙の中、幾之助は僅かな時間に、イタリアがほぼ廃墟と化したと知った。
アンドレアが帰って来ない間に――。
広がるのは、倒壊した建物の瓦礫の山。
あちこちから聞こえる泣き声は住人のものだろう。
しかし、幾之助は瓦礫から人を掘り返そうとはしなかった。
した事は、抜刀である。
無銘ながら、最も信頼できる相棒を抜いたのだ。
「飯塚幾之助えええええ! 居たなあああああ!」
上空から、東ドイツのテロリストが急降下してくる。
その姿を見て、幾之助は皮肉げな笑みを浮かべた。
「可愛らしくなられたものですね、アントンさん」
先日死闘を繰り広げ、幾之助に重傷を負わせながらも殺せず、逆にレイプされた東ドイツのテロリストは、男装をやめ、ピンク色のキュロットに白いブラウス姿であった。だいぶ剥げていたが、化粧までしている。爪には青いマニュキアが塗られていた。
「アナ・リーデルです」
アントンと云う偽名は捨てたのか、と幾之助は頷く。
「アナさん、ですね、よろしくお願い致します」
ふ、と息を詰める。
上空から襲い掛かってきた瓦礫を、幾之助は斬り捨てた。
鉄骨の入ったコンクリートの塊を、斬ったのである。
竜神殺し。
その二つ名の剣客は、次々に襲い来る瓦礫を斬っていく。
一
ニ
三
四
五
六
七
八
九
十
そこまで来た刹那、幾之助はまたも飛びずさった。
懐にアナが飛び込んで来たのだ。
即座に、アナに突きを繰り出す。
刺した。
しかし、腹を貫かれがらも、アナは笑った。
「貴方を殺すまでは死なない」
即座に刀を引き抜き、アナが血を吐きながらも、瓦礫の巨大な礫(三メートルはある)を飛ばしてきたのを斬る。
拙い。
幾之助は、確実に後退を繰り返していた。
元より、進む戦いではない。
だが、ひたすら後ろに、というのは悪い兆候だ。
背後に下げられるのは、相手にペースを握られている意味なのだから。
決断。
逆に、大きく退く。
瓦礫の山ではアナの独壇場だ。
自らが触れたものの重力を操る能力を持つ、アナに無数の武器がある事になる。
幾之助は、二メートルの瓦礫を斬った刹那、回転した。
宙返りする顔に、コンクリートの破片がぴしぴしと当たる。
そして、地に降りた瞬間、走り出した。
アナに背を向け、走る。
背後から瓦礫が襲い来る。
それを、振り返っては、斬っていく。
さっきまで居た建物に瓦礫が当たった。三階建のコンクリート製の建物は、ぐしゃっとひしゃげて崩れた。
刀が欠けたら、終わりだ。
瓦礫に追われながら、考える。
だが、私の刀は、欠けない。
信用ではない、信頼でもない、執念から幾之助はそう考える。
瓦礫で足場が悪い。
あちこちから呻き声や泣き声がする。
「!?」
急に足を掴まれた。
瓦礫の隙間から、手が出ていた。
その手が、幾之助の足首を掴んだのだ。
手だけしか見えないその人間は、助けてと泣いていた。
女だ。
幾之助は、その手をもう片足で踏みつけた。
手は痛みに竦みながらも、放すまいとますます力を強めた。それを何度も踏んだ。
背後から、瓦礫が飛んできた。
潰される。
瓦礫を斬ったと同時に、幾之助は決意した。
その手首を、刀で斬りおとしたのだ。
絶叫が響く中、幾之助は走った。
ふいに、瓦礫が途切れた。
そこは砂浜だった。
ふいに胸に浮かんだ言葉があった。
「幾之助、長政様と海に行きたいのう」
ぐっと先ほどの斬りおとした手首の主が、女であった事が胸に迫った。
「お市様……」
だが、幾之助は死にたくなかった。
アナ・リーデルに殺されたくなかった。
ウラジーミル・グリゴーリビッチ・グリーシャと決着をつけたかった。
幾之助か、ウラジーミルか。
どちらかが死んで終わりたい。
どちらかの手によって、死んで終わるのだ。
飯塚幾之助は狂っている。
日ノ本侍の狂気の凝縮。
それが飯塚幾之助だ。
「アナ・リーデル!」
追ってきたアナの腹部からは、大量の血が流れていた。
その彼女に、とどめを刺さんと、幾之助は刀を向けた。
「私の望みのため、死んで下さい」




