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ヘヴンズ・ドアー  作者: 浮草堂美奈
第十章 インカの目覚め編
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九十話―アンドレアの取引

 ぐっと急に力の入った体を感じ、パブロは反射的に飛びのいた。

 それは、スペイン特殊部隊司令官コマンダンテ、猟犬としての本能であった。

 何だ!

 何だ!

 何だ!?

 何か来る!

 アンドレアから、運命のようなものを感じる!

 それは決まりきったもので、死神が鎌を振り下ろすようなものだ!

 ぐったり倒れていたアンドレアは起き上がった。

 そう、起き上がったのだ!

 最早腕は砕かれ、片足は折られ、肋骨は粉砕され、内臓は潰された体で起き上がったのである。

 そして、

 ニィ……と笑った。

 笑った口の端から血が垂れた。

 パブロは恐怖という感情を思い出した。

 とっくに忘れ去っていたはずのそれは、パブロの全身を覆い尽くした。

「サマンサァ!」

 アンドレアは絶叫した。

 同時に激しく血を吐いた。

 サマンサ?

 ヘヴンズ・ドアーの店主にして、オーディンに仕えるヴァルキリー。

 そんな者が何故呼ばれる?

 否、何故此処に居る!?

 サマンサはいつもの、コットンシャツにシンプルなエプロンというスタイルで、平然とその舳先に立っていた。

 潮風が彼女の髪を靡かせた。

 時が、動いた。

「サマンサァ……わかってんだろ? わかってんだろなあ、おい」

 アンドレアはサマンサの方を振り向かずに言う。

「ええ、分かっているわ。でも、貴女の口から言うのよ、アンドレア」

 アンドレアは血を吐きながら口の中で

「わかってる、わかってんだそんな事ぁ……」

 と呟いた後で、猛然と叫んだ。

「サマンサァ!」

 血を吐きながら叫んだ。

「取引だ! 国をくれてやる! 国の思いをくれてやる!」

 取引? まさか。

「だから、俺に力を寄越せえ!」

 国を守るというのは、ヴァルハラに来た者の本能だ。

 護国報恩。

 国の為に戦う。

 しかし、それは。

 オーディンのゲームが楽しくなる為の本能だ。

 サマンサは、笑った。きっと、”彼”も同時に笑った。

「ええ、取引成立よ。アンドレア。貴女の望み通り、スペインは滅ぼさせてあげる」

 パブロはスペインの唯一の戦士だ。彼が死ねば、スペインは滅ぶ。

「だから、頂くわ」

 吊り上った二つの口角。

「イタリア中の思いを」

 イタリア全国民の”思い”がサマンサの元に渡る。

 つまり――イタリアも滅ぶ!

「アンドレア……アンタ……」

 本能を超越したアンドレアは、高らかに笑う。

 絶望を遥かに越えた絶望。

 全ての人民に、仲間に対する裏切り。

 背信の毒婦は高らかに笑う。

 どっと冷や汗がパブロから噴き出る。

 筋肉を濡らすその汗を、感じる余裕も彼には無い。

 アンドレアは笑い止んだ。

「くたばりやがれ」

 次の瞬間、降ってきたのは水だった。

 水の塊が、空から降ってきた。

 潮のにおい。

 海水だ。

 パブロがそう認識するのと、彼の死は同時だった。

 降ってきた海水の塊は、100tは軽く超える数量。

 それが、何億何千と。

 空から南米中に降り注ぐ。

 こんな凶暴な雨があるだろうか。

 一瞬にして人は水に押し潰され、肉片と化し、木々は薙ぎ倒され、煉瓦の建物は破壊される。

 南米が、沈む。

 全能全善の天主、主は洗礼によりて新たに生まれたる幼児には、この世を去りたる後、ただちに終りなき命を与え給う。

 われらは主が今日この幼児にかく恵み給えるを信じ奉る。

 願わくはわれらもまた終生童貞なる聖マリア、および諸聖人の御取次によりて、この世においては清き心をもつて主に仕え、天国においては幸いなる幼児らと共に、終りなく喜ぶことを得しめ給え。われらの主キリストによりて。アーメン。

 清浄潔白をよみし給う全能永遠の天主、主はこの幼児をあわれみて、かれの霊魂を天国に招き給いたれば、願わくはわれらの上にも御あわれみを垂れ給え。

 主のいと尊き御受難の功徳と終生童貞なる聖マリア、および諸聖人の御取次によりて、われら一同、諸聖人およびすべて主に選ばれたる者と共に、天国の永福を得るにいたらんことを、聖父と聖霊と共に、永遠にしろしめし給う主イエズス・キリストによりてこいねがい奉る。アーメン。

 アンドレアは笑っていた。

 海の一部とならんとするペルーで、哄笑していた。

 それが彼女の最期だった。

 アンドレアは、否、彼女は最期は”アイーダ”だったのかもしれない。

 

「さっさと陸を離れやがりませ!」

 イギリス船の中、ダルシアは見つめた。

 空から、愛する国に海水が落下していくのを。

「沈む……」

 ペルーが、南米が、父が、母が、臣下が、民が。

 ふいに、砂浜に人影が見えた。

 誰かは知らない。

 ただ、インディオである事は分かった。

「やめて……」

 そのインディオの青年は、必死に手を伸ばし、助けを求める音声を発しているように見えた。

 音は、爆撃のような水音で何も聞こえなかった。

 しかし、確実に助けを求めていた。

「やめてええええええええ!」

 ダルシアは絶叫した。

 同時に青年の上に、海水の塊が降ってきた。

 船は陸を離れていく。

 ダルシアは初めて抱いた感情に混乱した。

 それが何であるか、ようやく理解できた頃には、船からペルーは見えなくなっていた。

 嗚呼、これが。

 憎しみと云うものだ――。

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