八十三話―幾之助、覚醒
消毒液の中、飯塚幾乃助は眼を覚ました。
そこは病室ではなく、洒落た客室だった。
壁に、模写のモナリザが微笑みを浮かべている。
「まあ、死んだ感じはしませんでしたけどね」
アントンに胃を潰され、左腕を折られた男は、それでもそんな内容を一人ごちた。
ふいに、葉巻の香りが部屋に流れてきた。
この香りはハバナだ、と検討をつける。
「アンドレアさん」
右目に黒い眼帯をあて、真っ赤なコートを羽織った女が、姿を現した。
赤いルージュは皮肉気に歪んでいる。
「よう。何をトチ狂ってドイツくんだりで死に掛けてやがった」
幾乃助は微笑んだ儘答えない。アンドレアは深く葉巻を吸った。
「まあ良い。友達のよしみで、貸し一つって事にしてやるぜ」
「私を友達にして下さるんですか?」
アンドレアは更に皮肉さを深くする。
「おう、男同士の信頼カンケーってヤツさ」
「アンドレア(イタリアの男性の名前である)さんは、大変女性らしいと思いますよ」
「例えば何処が?」
「タフな所が」
軽くベッドが蹴られる。
「日本人ってのはこれだからいけねえ。イタリア男なら、ここで百は「美女」を並べ立てるぜ」
「はあ、生憎と無粋なもので」
クカカカカ、とアンドレアは笑い声を上げて、ベッドの端に座った。豊満な尻は眼の毒だ。
「半死人、テメエには言っとくぜ。俺はテメエを助けてやった。だが、そいつあ、俺が出そうとしている船とは丸きり無関係だ」
「船? 何をなさるんです?」
アンドレアはイタリアンマフィア、ロッソファミリーの女ボスである。
ドイツ沿岸までなんとか逃げ延びたものの、そこで意識を失った幾乃助を、自前の船に拾ったのだろう。
と、すると此処はおそらくシチリア――。
「言っただろう、無関係だとな。だが、まあ、今夜俺も船出だ。教えといてやるよ。俺達が、スペイン王国と繋がりがあるのは知ってるな?」
「ええ、一応は」
「その国王陛下直々の命令だ。南米はインカ帝国より、国王アタワルパの娘、ダルシアを連れて来いってな」
現世ではペルーに位置するインカ帝国は、既に滅んだ現世とは違い、未だスペイン領下のインカ帝国として、存在を許されていた。
しかし、完全なる植民地で、国民は太陽神を崇める事も無く、キリスト教に改宗させられている。
インカ国民はスペイン人に、略奪の限りを尽くされ、現在は他の地域のインディオと同様、スペイン人より格下の国民とされていた。
スペイン王国は、北米こそイギリスに譲ったものの、南米全域を支配する太陽の沈まない国を現在形としている。
「今、インカ帝国の王女をとは……まさか、水質汚染」
「おうよ」
ヴァルハラの水源ユグドラシルが、張国軒によって毒に侵された件を、幾乃助も承知していた。スイスに生えているユグドラシルを中心に、水質汚染はヨーロッパに広がっている事も。
「国王陛下はビビッて小便も漏らさんばかりだ。そこで、だスペイン国民をインカ帝国を始めとした、南米に全員移住させる気らしい」
「ヨーロッパを捨てると」
「もちろん、極秘だぜ。まあ、俺がべらべら喋っちゃ説得力ねえだろうがな」
幾乃助は考え込む仕草を見せた。
「貴女は、どうなさるんです」
アンドレアは大きく手を振った。
「俺たちはお零れに預かれればそれで良い。その為の、姫の輸送だ」
「公にはできない」
「できるもんなら俺達みたいな、ロクデナシとアンポンタンのごった煮に頼むもんかよ」
「はは……」
ロッソ・ファミリーはイタリアという国家の最大戦力である。軍隊を押さえ込み、警察をひれ伏させる、海賊女王、それがアンドレアだ。
裏社会という点では、対抗できる規模といえば、北米はアンダーグラウンドのカラーギャングぐらいだろう。しかし、カラーギャングの者は皆若輩だ。海と地下、ぶつかり合う事が無いのが御の字である。
「それにしても、その傷、ウラジーミルか?」
ぴくり、と幾乃助の眉が動く。
その様子を見て。
「違ぇな。それなら、テメエがそんなに不機嫌そうなはずがねえ。しかし、ウラジーミル以外に、テメエをそこまでボロボロに出来るヤツがいるとは思えねえ。何処のどいつだ?」
「アンドレアさん」
「幾乃助、俺は慈善事業はやりたくねえんだ。そんなものは、バチカンのニコニコ笑顔の皆さんにでも任せておけって話だぜ」
しん
静かになった拍子に、ぼたりと、花瓶の薔薇が落ちた。
花びらではなく、花ごと落ちたのである。
モナリザは笑っている。
「安心しろ、俺達はテメエをこれ以上助けてやる義理はねえ」
ようやく、幾乃助は口を開いた。
「……ベルリンの壁が崩壊したのはご存知で?」
「ああ、あんな何もねえ野っ原開通させて、何考えてんのかと思ったぜ」
「そのテロリストにやられました」
「ははあ、読めたぞ」
アンドレアは葉巻を灰皿に押し込んだ。
「女にやられたな」
「アンドレアさん」
「怒るなよ、からかってる訳じゃねえ。だが、幾乃助よ、そんなに強いヤツを求め続けて、テメエに何が残るんだ」
幾乃助は、うっすらと、笑った。
「何も残らなくて構いませんよ」
「あ?」
「私は、強きものと真の勝負が出来れば、それさえ出来れば、何も残らなくて良いんです」
アンドレアは肩を竦める。
「それが侍か?」
「いえ」
幾乃助は笑う。
「狂人、ですよ」
今、アントンに受けた傷より、現世で受けた背中の傷が痛んだ。
「へえ、分かってるなら重畳だ。それに、相手も俺達とは関係が無いらしい」
「何処へ」
「出航だよ。もう何時になってるか、時計を見ろ。あん? 止まってやがる」
アンドレアは席を立ち、かちとも動かない金色の置時計を倒した。
「貴女は、分かるのですか」
「手段も目的も違えど、分かるもんはあるね。じゃあな、幾乃助。針路は遥か南米だ」
「ボンボヤージュ、アンドレアさん」
「お前にしちゃ気が利いてるが、発音がまるでなっちゃいねえ。せいぜい、イタリア料理を満喫しな。チャオ」
木製のドアが、閉まった。




