七話―淘汰されるべき存在は淘汰されよ
西暦1888年、イギリスを震撼させた連続娼婦殺人事件。
ヴィクトリア朝のロンドンの夜をナイフで赤く染め上げた恐怖。
犯人、未だもって不明!
通称、ジャック・ザ・リッパー!
切り裂きジャックとして名高いこの犯人が、ヘヴンズ・ドアーに訪れていたという話に、全員怪訝な顔を返した。
「ジャック・ザ・リッパーは百年以上前の事件だ。何故今頃になって貴女の店に現れる?」
英国紳士がマナー通り、生ハムの皿にフォークを置き、尋ねる。全員の疑問も同じだ。
「このヴァルハラは一度の死の後、戦士が選ばれ送られる場所……。彼も死んだからとしか答えようがないわね」
「干し肉のような老人がやって来たとでも?」
サマンサはアメリカンを口に運ぶ。ルージュがカップにキスをする。
「詳しく教えてあげたいのだけれど……」
その言葉は、はっきりと発せられた。
「彼の正体を明かさない、というのは、オーディンの命令なのよ。淘汰されるべき存在は淘汰されよ、って事ね」
オーディンとはヴァルハラの主神。
ラグナロクに向けての戦場の管理者、ヴァルハラの戦士達は、彼と共に終末を戦い、新たな世界の主権を握るために、日々争い合う。
何故、オーディンの言葉をサマンサが伝えるのか? という謎を抱えた依子だが、サマンサは教えるつもりはないらしい。
そして彼らは全員、淘汰されるつもりはない。
「しかし、ジャック・ザ・リッパーが現れたのと、今回の事件は関係性を考えづらい」
ドイツ人が目の前のビールの泡が抜けるのも気にせず、手を組む。話は0に戻る。
「その今回の事件とやらも全容は定かでない。説明を求める、ラインバッハ騎士団副長」
ウラジーミルの言葉に、ラインバッハと呼ばれたドイツ人は眉を寄せた。
「協力を仰げるか不明な状態で、話せる訳が無いだろう」
「じゃあ帰ってアスパラでも掘ってろよ」
ワインを呷るアンドレアに、ラインバッハは苦虫を噛み潰したように黙り込む。
「全てのカードを見せる必要はありませんよ。話せる範囲で話して頂ければ、こちらも協力できるか否か分かります」
幾之助の言葉にラインバッハは表情を相変わらずで、返した。
「飯塚幾之助、お前が持っている情報があるはずだ。それを先に提示してもらおう」
幾之助は和服の袖で口元を隠した。
「残念ながら、私の情報のどれをお渡しすれば良いのか……。失礼ながら、どういった情報がお望みなのかお教え下さい」
どん、とラインバッハはテーブルを叩く。
「最近死亡した日本武士についてだ! 尋常では無い死に方をした者がいるはずだ! 答えろ!」
揺れたテーブルを片手で抑え、幾之助は袖の下で笑みを浮かべたようだ。
「はい……そうですね……。最近、日本人の失踪者が増加しております」
「失踪?」
「ええ。共通しているのは、失踪する理由が全くないという事。ある者は、夜中に、ある者は白昼に、誰にも行方を告げずにふらりと消えています。まるで神隠しですね」
「カミカクシ?」
「千と~は関係なく」
「セント?」
「いえ、そこは無視して戴いて結構です。とにかく、こつ然と姿を消すのです。身の回りの品を持つ様子もなく。失踪ではなく誘拐かもしれませんね」
ちろり、とラインバッハに目を向ける。
「しかしながら、誘拐の線は薄いというのは、ラインバッハさんの情報で分かるはずです。とにかく、そちらの騎士団に一人向かっていったのは、失踪者の一人ですよ」
「名と素性を」
「あまり必要ないかも知れませんが……島岡庄次、昭和十九年没です。死後、ヴァルハラに来た後は武士の中では凡庸な存在でした。西暦では……ええと……」
「後で調べる。問題ない。その島岡という男の死に様について、持っている情報を述べる」
「青いねえ、鉄血のラインバッハ」
にやつくアンドレアに、如何いう意味だと聞き返すが、ウラジーミルが頷くのを見ると、「気にせず続けてくれ」とモッツアレラチーズを口に運んだ。トマトが引き立って美味い。
「三日前、我がドイツ軍の宿舎に、単独で侵入した者があった。昼間の事故、団員はほぼ出払っており、非番の三十人ほどの兵士がいるのみだった。しかし、武器銃器は豊富にあり、兵士は全員健康で戦闘経験も申し分なかった。しかし」
その惨状を思い出したのだろう、表情に影が差す。
「その日本人の武器はナイフ一本。彼は十人以上をそのナイフで刺殺し―」
弾丸を全身に受けて、右半分の腹部を失いながら―。
「ナイフが折れた後は、残りの我が団員を素手で引き裂いた!」
幾之助が引き取った死体は、腹が抉れているうえ、左腕と頭蓋骨を骨折して骨が見えていた。
「日本武士達の回答は、そのような攻撃は予定に無いという事だった。詳しく調査をするとも言っていただろう。その情報を教えろ」
ウラジーミルがウォッカのコップを置く。
「同様の事件が、ソ連軍でも起きている。陸軍演習中に、一隊がやられた。犯人は二人、時代遅れのガトリング・ガンで一隊は粉みじんにされた。犯人はやはり日本人、一人は銃撃で死亡、もう一人は、緊急要請での援軍の到着前に割腹自殺した」
「俺のファミリーでは、犯人は不明だが、船が一つ爆破された。犯人が不明な理由は犯人ごと船が木端微塵になったからだ。ただし、爆破された破片に、黒髪のついた頭皮が残っていた」
「な……」! 卑怯だぞお前達!」
抗議するラインバッハだが、二人に、「何が?」と白々しく返される。老獪さはある程度は得ておくものだ。
「成程……英国では如何ですか?」
紳士はふう、と一息吐く。
「我が国では、そこまで悲惨ではないが、やはり、兵士五人が日本人らしき者に殺害されている。他国と違うのは、それが軍内に居た時では無かった事だ。槍一つで向かってきた日本人は、その場にいたイギリス人を殺害後、反撃された銃創によって失血死している」
幾之助はもう笑みは浮かべなかった。
「左様ですか。ですが、日本武士を代表して述べますと、我々はそのような命令は下しておりません。天地神明に誓って」
連続する日本人の暴走。
依子は席を立つと、がたりと音が鳴った。
「如何したの?」
「少し……外の空気が吸いたくて……」
「ああ、お酒のにおいに酔ったのね」
顔色から察してくれたサマンサに、こくりと頷く。
「すみません……少しだけ……」
袴姿が扉の向こうに消える。
夜の闇の匂いが酒場を中和する。
そして、依子はそのまま帰って来なかった。