表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヘヴンズ・ドアー  作者: 浮草堂美奈
第九章 ベルリンの壁編
79/112

七十八話―コーヒー

 アンドレアは豪奢な船室に降り立った。

「パブロ!」

 真紅の皮張りのソファの男に声をかける。

 全身を固めた筋肉をタンクトップから披露し、刈り上げられた頭は水色に染められていた。顔立ちは明らかなヒスパニック系で、黒い瞳が鋭さを持って笑顔のアンドレアを捉える。

 右手はつまみに置いておいた胡桃をカリカリと、引っ掻いていた。

「随分と嬉しそうじゃないの」

 男は女言葉で言うと、胡桃を握りしめた。パキンと音を立てた殻は、木端微塵に粉砕した。

「おう。嬉しいったらねえぜ」

「まあ座りなさいよ、あたしの船じゃないけど。まあ飲みなさいよ、あたしのワインじゃないけど」

 アンドレアのワインをグラスに注ぐと、軽く差し出す。

 赤い液体を一気に干すと、アンドレアは独特のクカカカカという笑い声を上げた。

「え? 聞いてくれよパブロ姐さん。え? 俺がメッセンジャー・ボーイをしてやった結果をよ」

「勿論聞くわよ。あたしからアンタにした話を聞かないで如何するの? 成功したの? してないの?」

 アンドレアはもう一杯注いだ。

 そして、グラスとカンと鳴らして、ガラス製のテーブルに置いた。

「「金輪際そのツラを見せんじゃねえ」って言いやがったんだよ、エミリー・カーターは」

 そして盛大に哄笑した。

 パブロははあ、と艶っぽい溜息を吐いた。

「え? 不満かよ? 不満なのかよ、司令官コマンダンテ

 まだ笑っているアンドレアの顔をちらりと見た、スペイン軍特殊部隊隊長は両手を広げる。

「不満に決まってるでしょ、海賊女王レジーナ・ピラータ。なんだってねえ、アンタ、スペインが、いえ、南北アメリカの君主国たちがよ、アンタにスーツケース一杯のお金を貢いだのよ」

「何も不満に思う事ぁねえさ」

 アンドレアは大きく足を組んだ。

「見込みのあるやつは初めは断るんだ。そうさ、初めからOKなんて言う奴はまず見込みがねえんだよパブロ。知ってってだろ」

「あら」

 パブロの顔が綻んだ。

「あたしったら、結果が気になって、男として恥ずべき事をしてしまったわ。アンドレア、そのジーンズとTシャツも似合ってるわよ」

 洒落た服装から着替えていたのだ。誰がコーヒーをぶっかけたかなど、わざわざ聞くまでも無い。

 アンドレアとパブロのグラスが、チンとキスをした。


 三日後の東ベルリン。

 ラースローはいつにない緊張の中にあった。

 正確にはいつにない訳ではなく、戦場の馬上で常にある緊張である。

「いましたよ、ラースロー」

 楽しげにコートを引っ張るアントンの、いつもの手袋を払いのける。

「みりゃあ分かる」

 細面のアントンの顔に、不意に湧きあがった言葉を押さえかねた。

「なあ? アントン、お前……」

「ラースロー、今はウラジーミル大尉です。そして壁ですよ。東西ドイツを生きながらに引裂いたあのベルリンの壁です」

 ソ連の番犬、ウラジーミル大尉と、ベルリンの壁を同時に崩す。

 それがアントンの計画であった。

 何も同時でなくたっていい。一つ一つ潰していけ。

 ラースローのその言葉に、アントンは答えた。

「我々が壊すのはソビエトです。唐突に崩れ去った壁を見た瞬間、東西ドイツの民衆は蜂起します。するに違いない。長年別たれた同胞を見た時に、真っ先に考えるのは喜びであり、次に考えるのは同胞を二度と失いたくないという思いです。そこで、ソビエトの最も強い男が死ぬ。ソビエトを崩すのに、ドイツ国民の誰が迷いなど抱くでしょう? 恐ろしい相手の中の、最も恐ろしい男が、目の前でいなくなるのです。他の場所で死んだのなら、ソビエトは必ずウラジーミル大尉の死を隠す。徹底的に隠蔽するでしょう。しかし、私があの男と、ウラジーミル大尉と戦っていれば? あの人間離れした戦い方を見て、それが誰か別人であると思う人間がいるでしょうか? 崩すのです、あの北の暴君を崩すのですよラースロー」

 冷え切った十二月に、アントンの頬は赤くなっていた。

 随分と西ドイツの人民を信じた作戦だ。

 だが、西ドイツの彼らが、壁の崩壊を願っているのは明らかである。

 現世でベルリンの壁があった時代以降にヴァルハラに来た者達は、必ず悲嘆にくれるのだ。

「あの壁がまだあるなんて! 嫌だ! 信じられない! あの壁は現世ではとっくに壊れたんだ! あるはずがないんだ! 神様!」

 東ドイツに渦巻くのは、壁が壊れた後のドイツを知る者の、現世のEUの中心たるドイツであり。第三次世界大戦下では、NATO軍の”鉄の騎士”と呼ばれやはり中心の一つであるドイツであった。

 西ドイツでも、そうであるならば。再統一後の栄光を知るならば。

 再統一を願わないはずがない。

 一時的なパニックから、彼らはすぐさま銃を取るだろう。

 西と東が手を取り合って、ソビエトを進軍していくだろう。

「ラースロー、あの少年兵がいませんね?」

 双眼鏡で覗いた先、コートを固く着込んだ男は独りだけだった。それがウラジーミル大尉である事は、詮議の余地が無い。しかし、彼の周りに三日前まで、それこそ本物の犬のように付いていた、少年が居なかった。

 首を傾げる彼らだが、それもそのはず、ニコライは現在モスクワに居たのだ。

 モスクワ駅の洗面所で、拳を震わせて涙を流していたのである。

 それはウラジーミル大尉が再び、東ベルリンに戻る命令が下りた時の事であった。

 駅の電話で、確かにウラジーミルはこう言った。

「あれはもう使い物になりません」

 電話をする声がニコライに聞こえていたなど、ウラジーミルは知るはずがない。

 だが、戻って来たウラジーミルは、表情一つ変えずに、いつもの凍り付いたような灰眸で、ニコライに告げたのである。

「貴様にはモスクワへの帰還命令が下った。俺は東ベルリン行の列車に乗る。貴様はモスクワ行に乗れ」

 声が出なかった。

 ただ、目を見開いて、ウラジーミル大尉のコートを掴んだ。

 その掴んだ右手を見て、大尉は僅かに笑った。

「何だ? 欲しいのか?」

 その微笑に近いものを見た瞬間、ウラジーミル大尉は列車に飛び乗った。

 閉まったドアの背に向って、ニコライはなんだか分からない事を喚き続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ