七十五話―バス
「はは、やっぱりいましたよ」
翌日、ベルリンの喫茶店で、小さな歓声が上がった。
体を分厚いコートで覆っていて、体型がまるで見えない。それは平均的に二度程度の12月には相応しいが、室内でも分厚い手袋をしているのは少し不自然だ。
少しと云うのは、東ドイツの暖房事情によるもので、冷え性が癖になってしまうものはざらにいるのである。
ゲルマン人は基本的にいかつい骨組みをしているものだが、アントンの顔の形はどうにも細く見えた。
成程、ゲーテは「木っ端」と形容していたな。とラースローは納得する。
モデルに作られた時代の人間ではないはずだが、アントンの通り名こそ、ここ何十年も「善良なる共産党員」を震え上がらせている――。
「東ドイツのメフィストフェレス」
「どうしました、ラースロー。アルコール飲料が必要なんですか」
名高い悪魔の名を冠されたテロリストは、やけに優雅な仕草で珈琲を啜る。ラースローも苦い顔で啜る。細菌感染しない泥水の味がする。
「ああ、走り回らなくて済むんなら、ワインを派手にやりてえな。いいかアントン、やり過ぎって言葉があるんだよ。何も一人引っ張り出すのに、ステーションに百人下敷きにする事ぁあるめえ」
「それは実に不可解な事を仰りますね。古典にでも書いてあるんですか、その言葉は? 極めて不勉強ですので、出展があればお教え願いたい。私が知っているのはですね、ラースロー、マリア・テレジアがハンガリー議会で喪服で演説した程度ですよ。無血の政変など、この世にあってはならない」
オーストリア継承戦争、ラースローがハンガリー軍騎馬兵として参戦した最期である。よく舌が回る男だ。
「それにしてもあの人、隠す気が無いとしか思えませんね。シベリアの氷河に、笑顔を凍り付かせてきてしまったんでしょう」
雑踏に紛れる男は、灰色のコートを着込んでむっつりと黙り込んでいる。ウラジーミルだ。
「おや、隣の少年は連れなのか。ああ、そうですね、あの子もスラブ人だ。顔の動きが目まぐるしいですね、ソ連人っぽくない。ああ、そうか、はは、あの少年の方がKGBらしいんですよラースロー。見るからに、ではねえ、とてもとても。見込みがある少年ですね、大尉も追い越されるかもしれませんよ」
「おい」
咎められて、軽く肩を竦める。
「ええ、長居は無用ですとも」
「大尉、こっちです。見物人がたくさんですね! ベルリンは随分人が居るんですね! モスクワよりは少ないですが……。あ! なんだあの屋台……。カリーブルスト……?」
美味そうな匂いを即座に嗅ぎつける。
何せ、大尉はKGBでも「燃費が悪い」と評判だ。三食人の倍は食べる。ましてや、今日は日本領との国境線からベルリンまで、いくらヴァルハラが狭いと言っても、列車で二日かかったのだ。現世のシベリア鉄道ではアイスクリームが三つほどついた食事が摂れるらしい。羨ましい、こちらはずっとボロジンスキー(黒パン)のみをを齧っていた。
ドミトリー軍曹の戦死以降、ニコライはウラジーミル大尉に犬のように着いて行き、そして犬のように大尉の食料を探し当てていた。
普段が普段(ボロジンスキー、薄いスープ、靴底のようなステーキあるいはトマトソースのイワシ。食費は遠慮なく軍備に回され、稀に出るナポレオンケーキが最もテンションが上がる)なので、不味かろうと文句を言う事は無いが、現世で母親製温かいブリヌイを食べてきたニコライには、とにかく美味なものを大尉に捧げる義務があると思えた。
無言で渡された硬貨に、「二つでありますね」と回答。
屋台に走っていく。
「おじさん、二つ!」
渡された紙包みには、油がさっきまで跳ねていたソーセージの上にケチャップのようなものがかっている。ケチャップに何か調味料が混ざっているのは分かるが、何かは分からなかった。美味そうな事は確信した。
ケチャップを零さないように戻る。大型バスに、軽く身を隠している。深い意味があるというより、癖なのだろう。
ウラジーミルは一皿受け取った。
もう一皿を持ったままいると、じろりとこちらを睨みつける。そして、手で軽く追い払うような仕草をした。
「え、ですが……」
明らかに苛立った顔をされる。
「大尉、一つで足りますか?」
こめかみに青筋が浮かんだのを見て、ニコライは慌てて叫んだ。
「いただきます!」
その瞬間。
無人のはずの大型バスが、こちらに突っ込んできた。
とっさに身をかわす。カリーブルストが轢潰される。
有り得ない事が起こった。
バスが空中で回転し、その超重量を向けてまた突進してきたのだ!
確実に轢き潰す構えに対し、ウラジーミルは対抗した。
百キロの速度で突っ込んでくるバスを、そのまま受け止めたのである!
「大尉!」
ニコライの声に反応は無い。
運転席にやはり人はいない。
前進しようとするバスと、それを両腕で押し留めると云う人間。
バス対人間の勝負。メキメキと鉄がひしゃげる音がした。
ウラジーミルの革靴が後ずさる。轍のような靴跡がつく。
額に汗が伝う、大型バスと人間一人の大きさの差など比べるべくもない。
見る目には、バスの前面にウラジーミルがめり込んで行っているように見えた。
ぶるぶるとウラジーミルは震えた。
恐怖ではない。筋肉の戦慄きである。
「ガアッ」
獣のような一声を上げた後は、スローモーションのように見えた。
ウラジーミルは両腕で、バスを持ち上げ――
身悶えするバスを、投げ飛ばし――。
バスは広場に叩き付けられて、豪炎を上げた。
「大尉!」
流石のウラジーミルも息が上がっている。
「大尉!」
ニコライが体を支えると、どっと力が抜けたように倒れ込んでくる。
その軽さに、ニコライは肝を冷やした。明らかに人間一人分の重量しかないのだ。
「大尉、肩……を!」
言い切る前にニコライは転がった。
自分を突き飛ばしたウラジーミルは、まだ確実に呼吸が整っていない。
灰色の双眸は汗で瞬きを繰り返していた。
だが、それでも周囲を睥睨していた。
群衆は、その目を見て、恐怖に駆られた。逃げる者も、歩けない者もいた。
「帰還する」
周囲を索敵しろとも、肩を貸せとも言われず、ただ、ニコライは着いて行った。
飯塚幾之助は、慣れない洋装を忘れた。
バスの傍に潜んでいたアントンを発見したのだ。
「いけませんね。これはいけませんね」
口許に手を当ててブツブツと呟いた。
日本人が紛れ込んでいる程度の事に、誰も注目していない。
バスは再度爆発した。ガソリンに引火したようだ。
細身のコートは、軽い足取りで遁走した。




