五話―海で散るのは花にあらず
はあーと深いため息を吐くと、紅玉は言った。
「日本の乗りかかった船いう言葉、とても貴いね」
幾之助が相変わらず真意を読めない笑顔で返す。
「まあ、私としても妹が墓の下に逝くのはお断りしたいです」
「それじゃ質問に答えるよろし」
「おいおい、ガチでKGBと戦り合う気かよ!?」
エミリーに依子が代わってこたえる。
「ご命令とあらば仕方がないと思います。気が進まないのは分かりますが……」
「怖いんなら家帰ってベッドで震えてるよろし」
「んだとこの貧乳! あー分かったよ! 分かるますたよ!」
わざとの中国訛りに、紅玉は不快そうに
「じゃあ話し続けるある」
と言う。
「敵の獲物は何あるか? やはりトカレフか?」
ソ連軍で一般的な銃を口にすると、幾之助はやや渋い顔になった。
「私が戴いたのはトカレフですが、彼にはもっと重要な武器があります」
ず、と茶を啜る。
「CQCです」
「聞いた事ねえなあ」
「ソビエト白兵戦プログラムですよ。すでによる戦闘技術の中でも、暗殺や戦闘における殺人を目的とした、極めつけの技を集成した極秘のプログラムです」
依子は怪訝そうな顔をする。
「そんな方には見えませんが・・・」
「貴方は人の事言えませんよ」
紅玉はCQC、CQC、と呟いた後、ニャっと笑みを浮かべた。
「その盗聴器、直せるあるか?」
「さほど壊してませんので、可能です」
「好、好」
「おい、紅玉……」
急に機嫌が良くなった紅玉は、エミリーの言葉を切って、告げる。
「もう一度、船を出すね」
夕刻に近くなった海に、三人娘の船が浮かぶ。
舵を切るエミリーが、少し上ずった声を上げた。
「来たぜ、小型船だ。無線なしで近づいてきやがる」
「好、食いついてきたね。こちらからも確認できたよ」
くすんだ小型船が波間を切って、ゆっくりと近づいてくる。沈んだあの船のすぐ傍まで。冷たい海をかき分けて。
「依子! 『狼を引きずり出せ!』」
号令に即座に応じる、行動は迅速に、遅ければ死だ。
「はい!」
船の正面、操縦室に向かって、依子がBARを発射する!
凄まじい弾丸音と共に、操縦室の窓がぶち割られる。操縦士はあえなく崩れ落ちた!
ガラス片がぱらぱらと海へ落下する。
「今よ! エミリー、船を追突させるね!」
「OK、振り落とされんなよ!」
先ほどまであんなに乗り気でなかったのに、今は待ってましたと言わんばかりだ。彼女の切り替えの早さは素晴らしい。
急角度で舵を切ると、衝撃が船を包む。
船内で伏せていた三人は伏せて耐える。
衝撃が収まると、紅玉は叫ぶ。
「聞こえるよ! 軍靴の音ある!」
紅玉が自慢の聴覚で聞き分ける。波の音に交えて、確かにコツコツという音がする
船室から飛び出す紅玉と依子、依子がBARを発射する!
予測していたように、スチールブルーの軍服は船室に張り付いて逃れる。
盗聴器を逆手に取り、先日沈んだ船の場所までもう一度行くと伝えれば、そんな船は来ていないと主張する立場上、ソ連は秘密裡に駆けつけざるを得ない。そして、秘密裡に動けて、単騎で戦える者と言えば、例の大尉が出てくるのは予想がつく。
船室に張り付いた影に、依子は容赦なく銃弾を撃ち込む、波飛沫と日暮れで視界が霞む。真っ赤な、落陽。
「……弾切れですッ!」
悔しげなその言葉と同時に、視界が僅かに明ける。BARの弱点はその弾切れの早さだ。
大尉は、船室のドアの陰に潜んでいた。銃撃の激しさを物語るのは、ぼこぼこに凹んだ鉄だ。
ドアの陰と言っても、船室に入ったのではない。
蝶番に捩じられた痕。
彼はドアを引き千切って盾にしたのだ!
怪力? しかし依子は違う印象を受けたらしい。
「あいや、仕方ない。少し傍に寄るよッ」
匕首と言う名称の中国の短刀に布の紐をぶら下げた物を取り出し、紅玉が走り寄る。
速い。身軽な体を最大限に生かしている。
三十センチの短剣が、スチールブルーに迫る。後少しで、背中に回り込める。
短剣がギリギリまで近づいた瞬間、紅玉はドアの一撃を食らって吹っ飛んだ。
盾にしていたドアを、ウラジーミル大尉が投げたのだ。
「紅玉!」
依子の声に、紅玉がドアの下から呻く。
「痛てて……あばらやられたある」
本当に痛そうな声に、依子は眉を寄せる。しかし、躊躇う暇はない。
ドアの陰に居たのは、スチールブルーの軍服に身を包んだ男。
「確かにCQCの使い手には見えないある」
灰の髪に灰色の目、しかし、その体は細身で、顔もハイスクールの少年かと見まがうほどの童顔だ。多分、目が大きいせいだろう。身長もスラブ民族にしては低い。しかし、堂々としている。限りなく、誇り高いKGBの局員として。
「貴様らだけか?」
低い声が問いを投げかける。
「陸でお待ちの人が居るよ、気にする事ない」
紅玉の口が健在である辺り、少し依子は安心した。
「口の減らない奴だ」
忌々しげに呟くと、ウラジーミルはドアの下の紅玉のもとに走り込み、ドアを蹴り上げた。
重量数十キロのドアが吹き飛ぶ。
そのまま下に振り下ろされようとした足と、藤色の袴に包まれた足が蹴りの交差をした。
「依子!」
「貴様か……!」
そのまま相手の懐に飛び込むと依子は顎への掌底内を、下から繰り出す。
腕で顔面をブロックしつつ、自由な足で、依子への回し蹴りが決まった。小さな体は軽く吹っ飛ぶ。
相手に与えたダメージを確認する間はない。
ようやくドアの下から動けた紅玉が匕首を投擲する、屈んでかわされたため、布で元の位置にヒ首は戻っていった。
「ガキみたいな顔でよくやるね」
軽口を叩き、あばらの痛みで膝をつきながら、匕首を二本、両手に構える。
最早、撤退は不可能なのだ。
その眉間を狙って、ウラジーミルのトカレフが抜かれる。
「させません!」
その手を突進してきた依子が、蹴り弾く。
息が上がっている依子に対して、ウラジーミルに疲労は見えない。
「小娘が、驕るな」
「そうでしょうか」
その何か含みのある言葉に合わせたように、エミリーの声が放送で響く。
「じゃじゃ馬が走るぜ!」
刹那、船が急角度で舵を切り、甲板が振り回される。
「なッ……!」
予想外の動きで、ウラジーミルが甲板を転がる、依子と紅玉は、気付かれぬようロープを掴んでいた。
びしゃびしゃと海面が揺れる音が激しい。
動きが止まると、敵は甲板から即座に起き上がった。船の激しい動きは、甲板の物全てを投げ飛ばす勢いだったというのに。船の船尾にしがみ付き、堪えたのである。
「振り落とす気だったか? 残念だったな」
転がり落ちれば御の字だったろうと云う嘲笑に、紅玉は笑い返す。
そう、計算通りなのだ。
紅玉は叫ぶ。
「エミリー、今よ!」
弾んだ答えが返る。
「OK! 吹っ飛びなあ!」
船尾で爆発が起きた。
炎上音と共に、背中からの衝撃でウラジーミルは吹き飛び、甲板に落ちて、気絶した。
はあ、はあと息を吐きながら、依子は紅玉の方の肩を抱いて船室に戻った。
「エミリー、あいつ、拘束しとくよろし」
「大丈夫か?」
心配げなエミリーに手を振る。
「当分動けないある。店の掃除ヨロシク頼むよ」
エミリーはやれやれ、と云った顔で「了解」と告げる。
「紅玉、横になりましょう」
依子の言葉に、頷く。
「お前も少し寝るよろし」
「えー、あいつの見張りと船の操縦であたし寝られねえんだぜ」
エミリーが溢すが、2人は床に倒れてすっかり寝る準備に入ってしまった。
空は、もう夜になっていた。
「紅玉さんと依子で追い込み、最後の船の踊りで船尾に叩きつける、そこを狙って……ドン! 考えたと思いませんか?」
幾之助が微笑む。後ろ手錠で拘束されたウラジーミルが、悔しげに床から睨みける。 土蔵の埃っぽい空間には、もう一人居た。此処は幾之助が「そういう事」の為に使う場所だ。
誘拐犯の三人娘は、そろって夢の中だろう。これから起こる惨劇を、幾之助は見せたくなかった。
赤ワインを片手に、椅子で足を組むアンドレアだ。
「ざまあねえなあ」
愉快そうに片目が細められる。
「……ふん……貴様の腑抜け男共で嬲り殺しでもするか?」
嘲笑交じりに、切った口から血を吐き捨てる。
アンドレアの靴先が、ウラジーミルの顎を上向かせる。
「そいつあ良いアイデアだ。実に面白え。だが、それじゃ潰された面子には足りねえと思わないか?」
「……」
屈辱に歯を食いしばるのを、更に靴先で嬲る。
「だから、俺はこれから起こる光景を見物する事にする」
ひょい、と手の中の小さな機械を見せる。
「お前が仕掛けた盗聴器だ。つまり、お前がこれから上げる無様な悲鳴や命乞いはKGBに丸聞こえだ。しかし、お前は此処が何処か知らない。KGBも盗聴ができる場所、としか把握できない」
幾之助がウラジーミルの髪を掴み、上を向かせる。頭皮が引っ張られて、呻きが上がる。
「せいぜい、発狂するなよ?」
幾之助がにこやかに告げた。
「私はあまり容赦をしてあげられませんが、お迎えが来るまで頑張りましょうね? ワロージャ」
ウラジーミルの愛称を呼ぶと、悔しげな舌打ちが聞こえた。
絶叫と悲鳴の時間が過ぎて―。
迎えが来たのは五時間後、ウラジーミルがほとんど叫び声も上げられなくなった頃だった。
土蔵の扉が開くと、恰幅の言い、白い髭を生やした男が、訪れた。
スチールブルーの軍服を纏って。
男はにこやかに挨拶した。
「やあ、初めまして」
ワインを手に、アンドレアが笑う。
「チャオ」
「これはこれは、汚い所ですみません。まあ、ワロージャが汚した場所も多いですが」
幾之助と男は笑みを交わした。
「彼を引き渡してくれないかね」
「どなたか分からない方に、大事な友人をお渡しする訳にはいきませんね。ほら、ワロージャ、誰か分かります?」
また髪を掴んで、男の方を向かせる。そこに慈悲のような感情は全く見られない。
「私は将軍だよ。これで分かったろう」
将軍……V部の最高権力者。アンドレアは値踏みをしながらワインを干す。片目の瞳孔がきゅうと開く。
視線での合図。
KGBの局員が、トランクの中身を見せる。札束だ、数枚ひらひらと落ちる。
「如何します? アンドレアさん」
クカカっと独特の笑い方をして、アンドレアは言った。
「連れていけ」
その言葉に大きく、頷き、将軍は部下に指示する。
「大尉を独房に入れておけ」
持ち上げられたウラジーミルが、虚ろな瞳を向ける。
「将……軍閣下……申し訳……ありませ……」
絞り出した声を笑顔で聞くと、将軍は部下にウラジーミルを担がせた
「いいよ、じっくり反省してもらう時間はあるから」
笑みを浮かべる将軍に、幾之助は分かっているのを承知で言う。
「彼は一度も命乞いをしなかったのですから、褒めて差し上げても宜しいでしょう。そんな方は初めてですよ」
将軍は相変わらず笑みを浮かべている。
「また今度ね」
凍てつく大地の眼達は、去って行った。
一か月後、依子は来訪者にポカンとした顔を向けるほかなかった。
「相変わらず飯だけはまあまあだな」
「ふふ、ソ連の食事情とは少し差があるせしょうね」
幾之助が肉じゃがを進める相手は。
「ウラジーミル大尉……」
「何だ。帰って来たのか」
「丁度よかった、白菜漬を出して下さい。おかずはもう消滅する勢いですので」
にこやかな幾之助に、口を開けたまま、問う。
「あの……先日……」
ウラジーミルは白米を口に運びながら、何でもないように言う。
「何だ? きちんと出所許可は得てあるぞ」
「一か月ぶりの美味しいご飯ですからねえ」
「美食など、資本主義の下らないステータスだ。たまたま食事を勧められたから食っているが」
「はいはい、おかわりいります?」
「いる」
依子はまた少し、兄が分からなくなった。




