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ヘヴンズ・ドアー  作者: 浮草堂美奈
第四章 人魚の歌編
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三十六話―水色赤色

 和泉の世界の終末はとても突然で。

 今日はヒロシ達はまだかなあ、とぼんやりおはじきをつついていた。

 おはじきはきらきらと日の光に染まっていく。少し、静かな気持ちになった。

 ヒロシ達は学校に行っているから、まだなんだろう。

 学校、行ってみたいなあ。

 着物の膝を抱えて丸くなると、絽の肌触りが気持ちよかった。

 がらり、と扉が開いた。

 最初、和泉はそれは阪口さんではないと思った。

 何故なら、その開け方はとても静かで、阪口さんのガラガラーと吠えるような開け方とは違っていたし、何よりまだ帰ってくる時間じゃない。

「誰?」

「誰か、俺のほかに」

 和泉の体が冷たくなった。

 阪口さんは氷のように静かな表情をしていた。ただ、一つ。

 口の横から頬にかけて、魚の骨が貫通している。

 針のように突き刺さった骨から、真っ赤な血がぼたぼたと落ちているけれど、痛みは全く感じていないようだ。

「さか、ぐちさん」

 返事はなく、阪口さんは骨ばった体を台所へ持って行った。

 そして、こちらに持ってこられたものを見て、和泉は「ひいっ」と悲鳴をあげる。

 刺身包丁だ。

 魚を捌くときに使うものだ。

 何に使うのか何に使うのか、嗚呼、分かってしまう!

 和泉はがくがく震える体で坂口さんに縋ろうとした。しかし体に力が入らず、無様に転がった。足に結わえられた紐がぴんと張った。

「さ、阪口さん」

「和泉、誰が来ると、思った?」

 低い声に、恐怖のあまり涙が零れた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、和泉、いい子になります。もう人と会ったりしません。誓います。誓います。何でもします。お願い、どうか、どうか助けてください」

 ぼろぼろと泣きながら足元に取りすがる和泉を、冷たい目が見据えた。

「死ぬのは怖いです。お願いします。どうか、殺さないで。死にたくない。助けて。お願い、お願い、何でも言う事聞きますから」

 知らず口元が弧を描いた。泣きながら、和泉は媚びた。

「阪口さんの事が大好きです。どうか、お願い、殺さないで。許してください。お願い、助けて、ね、ね、お願い」

 す、とその頬に手が添えられ、がさがさした指が涙を拭った。

「どのガキと会っていたか、言いたくなったら喋れ。お前が言う前に目星つけてくる」

 ひゅうっと喉が鳴る。

「いやーーーーッ許してーーーーッ!」

 絶叫。

 阪口さんのズボンにしがみついて止めようとしたが、鋭く蹴りつけられた。

 痛くて体を縮こめて、お腹を押さえている間に、坂口さんは静かに行ってしまった。

 和泉は怖くて痛くて泣き喚いた。

 助けてください、助けてください、助けて、たすけて

 裏切ろうなんて考えた訳じゃないんです。ほんの少し、外に触れたかっただけなんです。ごめんなさい、ごめんなさい。

「ごめんなさ、ひ」

「和泉!」

 縁側から声が響いた。

「何泣いとるん!?」

 今から夕焼けが始まるのを浴びて、ヒロシが立っていた。

「ヒロシ……」

 和泉はしゃくりあげながら、折り紙を取った。

「なあ、和泉」

 鉛筆を取り出し、水色の折り紙に字を書く。

 涙は止まった。

「ヒロシ、走って、人通りの多い道を急いで帰って。それで、大人の人にこれを見せて。ね、急いで、走って」

 受け取ったヒロシの日焼けした顔は、きょとんとしている。

「何これ?」

「大人の人に見せてね。それまで見ちゃダメ。それから、阪口さんの姿を見たらすぐ逃げて」

 ね、お願い。

 そう言って儚く笑った和泉は、海の泡のように美しく、ヒロシの一生忘れられない記憶になる。

 夕焼けの中、笑っていた異国の人。デンマークの綺麗な街に住んでいるはずだった。彼は、薄汚い町の薄汚い売人の家の中に住んでいた。

 和泉はもう泣きもせず、笑って阪口を迎え入れたという。

 手紙を見たヒロシの母は、血相を変えて警察に連絡した。

 警察が突入したときには、和泉は手足、胴、首をばらばらにされて、畳に転がっていたと云う。

 隣には阪口喉を掻き切って自殺していた。


 風呂場で和泉はくるりと回転する。

「何処に、居るのかな」

 ぱしゃり、と水音。

「何処に、行くのかな」

「行先は大ソ連邦だ。貴様に選択肢は無い」

 突如響いた鋭い声に、和泉はびくりと体を強張らせた。

 脱衣所のすりガラスに、スチールブルーが透けて見えた。

「大尉……」

 KGBウラジーミル大尉。

 完全に気配を消していた!

 すりガラスなのに、彼の灰色の眼光が見えるようだった。

 和泉は身震いする。彼の国の施設を激しく壊して出て来てしまった。

「大人しく投降しろ。そうすれば、施設破壊の件は不問とする」

 和泉はふるりと体を震わせる。

「い、和泉、取引、する」

「あんなヴァルコラキがそんなに大事か。理解できんな。だが、取引に応じる用意はできている」

 身を乗り出したのが察しられたらしい、僅かに口角が上がる気配がした。

「阪口の居場所を特定した。ただ今より捕縛作戦に入る。ついてきたければ来るがいい。ただし、客人扱いはしないがな」

 ばしゃん

 身を乗り出しすぎて、逆に浴槽に落ち、尻尾がばちゃばちゃ跳ねた。

「そこは狭すぎるようだな」

 ようやく水面に顔を出す。

「行くなら急げ。俺は急いでいる。貴様が急ぐのにそれ以上の理由は無い」

 すりガラスの向こうで、ウラジーミルは通信を聞いた。

『デンマーク国王イェンセンと、フィンランド軍総司令官アールネ、阪口の拘束を確認』

「ダー、通信を妨害し続けろ」

 帰ってきた『ダー』(了解)の言葉。同時に、すりガラスが開けられる。



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