三十二話―アクアビットは冷えて熱い
「帰る」
イヤホンを耳に当てた儘、それだけ言うと、ウラジーミルは大尉は一瞬で踵を返した。
「あ、てめ!」
「逃さん!」
即座に幾之助は追いかけた、速さなら、幾之助の方が上だ。
それを知り尽くしている、ウラジーミルは森林の内の一本に跳ね上がった。
森を抜けるとそこは海だ。おそらく船が停めてある。そこからソ連領海に逃げられれば、情報は持ち逃げされる。
ウラジーミルは木々の間を飛び移る。機敏な動物を連想させる動きで軽々と。
逃げられるか?
また樹に跳び移った瞬間、幾之助は刀を一閃させた。
すぱっと幹が斬れ、年輪をさらしてウラジーミルが乗った木は倒れ行く。
年老いた樹の悲鳴が地面に響いた。
「逃しませんよ。大事な事なのでもう一度言いました」
刀を樹ごと落下したウラジーミルの喉笛に向ける。
樹の下で受け身を取ったウラジーミルは即座に起き上がるが、喉笛の刀は外れない。
ウラジーミルはギリ、と歯を食いしばり、幾之助を睨みつけた。
しかし、幾之助にも余裕はない、いつ、イェンセンの弾が飛んでくるのか分からないのだ。
否。
何故、未だ追いつけない?
その疑問が浮かぶと同時に、刀に凄まじい衝撃が走った。
手に取っておれず、刀ははじき飛ばされる。
刀はひゅんと、空を切り、白い筋を見せて回転し、木に突き刺さった。
その刀身は砕けていた。柄がぽろりと下に落ちた。
白々とした刀の亡骸を見て、二人は思わず息を呑んだ。
しかし、驚きはそれでは終わらなかった。
次には炎が飛んできたのだ。
二人の境に倒れた樹の瑞々しい体が、炎に焼かれて静かに悶えだす。
「おー、俺じゃ二人には当てられなかったなあ」
大きな声と大きな体を現したのは、イェンセンだった。
片手に持ったアクアビットの瓶が、何か異様だ。
「はは、それの中にはガソリンでも入ってるんですかね? 私達、焼死ですか?」
幾之助の全く笑っていない冗談に、イェンセンは笑い返した。
「いや、ただの酒だ」
そのまま瓶を持ち上げ、ぐびぐびと飲んでいく。
相手の意図が全く読めず、二人は張りつめた儘、飲み終えるのを待った。イェンセンは瓶の三分の一ほど飲んで、にかっと笑った。
即座に二人は跳ね退いた。
イェンセンはの口から炎が噴き出したのだ。
火炎放射器を口の中に仕込んでいるように、口からぼうぼうと火を吹き、イェンセンは二人のどちらを追うか決めかねるように、真ん中を進んでくる。
ぱちぱちと木々が赤い色に染まり始めた。
「投降しねえと、焼死だぜ?」
二人が互いに隠れる二本の巨木も、ぱちぱちと云う音を立て始める。
投降すれば拷問。このヴァルハラに拷問を禁止する条約等無いと、ウラジーミルは体で知っているし、幾之助も見知っている。
吐かない自信はある。ただ、吐かせられるまで相手は続けるだろう。そしてその後も生きている保証は欠片も無い。
片膝をついた状態で、幾之助は一言言った。
「【ワロージャ】」
動いた。
それを認識したイェンセンは即座に炎を幾之助に向けて吹きつけた。
炎から逃れる為、幾之助は完全に背を向けて走る姿勢に入った。
イェンセンも追った。
背を向けて逃げる人間ほど、攻撃しやすい人間はいない。
だから、幾之助は炎が背中を撫でかけるのを理解しながら、草を踏みしめて走って行く。
「ああ、クソッ」
炎が止んだ。
アクアビットを更に喉に流し込もうとした、その時、背後から風切音がした。
飛び跳ねての踵落としを、肩にもろに食らった。
ごきり、と嫌な音がした。
脱臼した!?
イェンセンの頭がそれでいっぱいになった時、またしてもウラジーミルの蹴りが来た。
今度は腹部に回し蹴りを食らった。
大柄な体は、一メートルほど吹っ飛んだ。
敵の敵は味方。
普段では有り得ない発想だが、ウラジーミルの愛称を呼ばれた事で、この連携はなりたった。
幹に叩きつけられたイェンセンが立ち上がる前に、二人はそのまま自軍の元に走り去った。
「ああ、胸が悪い」
「ウォッカを控えることですね」
そのやり取りを最後に、二人は敵同士に戻る。しかし、イェンセン、そして、刀を砕いた者が追ってくる危険性から、その場での戦闘は始めず、二手に別れて行った。互いの胸には、焦燥。
「うぐ……」
イェンセンが腹部を押さえて呻くところに、アールネ老人がやって来る。
「大丈夫かね?」
「痛え……」
がさごそと、腹部に仕込んだプロテクターを取り出す。
見事にひん曲がったそれを見て、ほっほっほと笑い声がした。
「どう蹴られたならこんな物が使い物にならなくなるんだろうね」
「ジジイ、俺様が吹っ飛ばされて面白いのかよ」
「いやいや、肩は……ああ、これは見事に折れているね。脱臼ではないよ。折れているよ。ギプスで固定して安静に入院する事だねえ」
「できるかあッ! 俺が入院したら誰があの化け物共とやり合うんだよッ! そもそも俺何もやってねえぞ! 骨折しただけだぞ! うっいででで」
「では仕方ないから、ギプスで固定するだけにしておく事だ」
「あー、痛え、ジジイさっき何で撃たなかったんだよ」
「撃ったよ」
「刀の時じゃねえよ」
あの時、幾之助の刀を撃ち砕いた狙撃手は、太った体を揺らす。
「二人が逃げる時だ」
「ああ、あれかね。撃ったよ。ウラジーミルの方を」
意外な回答に思わずえ、と声が漏れる。
「ただ、普通の弾だったしね。わしは装填に時間がかかるから、幾之助は撃てなかったし、ウラジーミルにもう一発も撃てなかったよ」
のんびりと笑う老人と、顔を引きつらせる若者。両者の対比は完璧だ。
「じゃあ、あいつ、撃たれてそのまま走って行ったのか?」
「撃ったのは腕だったからねえ。足はぶれて狙えなかったんだよ」
「いやいやいや、えええー、腕でも撃たれたら動けねえだろ。ええーアレ人間か?」
ほっほっほとまたアールネ老人は笑う。
「酒を飲むと火が吹ける人に言われたくないだろうねえ。では、こんな加齢臭漂う肩で良ければ貸してあげよう」




