三十一話―プールの人魚
ばしゃり、と水音が響いた。
少年は水面から顔を出す。
四角形のコンクリートプールの檻。
ただ、水だけは常に清らかであるよう、浄化装置を付けている。全ての自然と隔たれた、鑑賞者の無い水族館。
打掛が水を吸うだけ吸って、ひらひらと水面に浮かんだ。
少年はまた水面に沈んだ。
不思議な事に、苦しみめいたいものは少年から感じられなかった。
喜びもない。
魚の笑みを少年は浮かべていた。現に下半身は魚だった。
人魚の少年はただ、プールの中にひらひらと舞った。ヘヴンズ・ドアーに訪れた時のような希薄さは、足と共に捨ててしまった。
少年の望みはただ一つ。他の全てを足のように捨ててしまった。
ガチャリ、と扉が開いた。
少年はまた水面に顔を出した。
「和泉」
名を呼ばれ、少年は更に上半身全部を水面から出した。
「カピターン?」
ウラジーミル大尉は灰色の瞳をやや顰めた。少年の意を感じ取ったせいだった。
「我らが大ソ連邦は、貴様を戦士として迎える用意はできている。貴様の持つ能力は、海軍にもKGBにもどちらでも希少でいて適任だ」
濡れた金髪が振られた。
「和泉、阪口さん探しに行く」
「日本武士とは交渉中だ」
それが嘘である事は、少年には分かっているのだろうか、ただ、ガラスのような青い目で見るだけだ。
「阪口さん探しに行く」
それを聞いたウラジーミルは、扉を閉めた。一言、「良い返事を待っている」とだけ残して。
「非公開指名手配です」
ヘヴンズ・ドアーを訪れた幾之助は、写真を見せた。
写真には、頬に切り傷のある、目つきの悪い男が映っていた。
「チンピラね」
紅玉の言葉に頷く。
「現世では、暴力団員の下っ端だったようです」
「あいや、新聞ではそこまで載ってなかったよ」
紅玉はそう言って、今日届いたばかりの現世の新聞を見せる。
「デンマーク人少年、14年間拉致監禁」の文字が躍っている。
「こないだ来た男じゃねえか」
エミリーの言葉に、サマンサは頷いた。
「それであなた達は如何したいの? まさかうちをホームズの探偵事務所と思っている訳じゃないでしょう?」
「明智小五郎が居るとも思っていません。そこはご安心ください」
「では何かしら?」
幾之助は息を吐いた。
「その拉致監禁犯、阪口寛行を、非公開指名手配したので、情報があればご協力を。それだけですよ」
「あら、そんな用事?」
「ええ。では、無愛想で申し訳ありませんが、失礼します」
幾之助は店を出た。
そして抜刀した。
和泉は、カピターンが去ったのを知った。
心は既に決まっていた。
プールの水からは海水の香り。
海が近い。だから、人魚は歌う。
歌詞は無い。
メロディーだけの歌。
しかし、そのメロディーに合わせて、海水は爆発した。
すぐに緊急警報が鳴った。
赤いランプに照らされたプールから流れ出す水。
そこから泳ぎ出した。
歌いながら泳ぐ人魚の道中は爆発に彩られる。
「何事だ!?」
「脱走! 脱走だ!」
カラシニコフを片手に駆け寄る兵士たちを吹き飛ばし、道は作られた。
水の勢いで吹き飛んだ兵士は、数分後、自らの生存に驚愕する。
そう、誰一人殺さず、人魚は流れ込む海水に身を沈めた。
流れに逆らうように、僅かな抵抗心を見せて。
日本刀は頭上からの襲撃を防いだ。
交わしたのでも受け止めたのでもない。
特殊警棒に籠められた力を、流したのだ。
それを理解したウラジーミルは、横に跳んだ。
そして、木の側面でいったんステップを取り、着地した。
その間に幾之助は刀をいつでも突きが出せる体制に構えた。
双方、黒と灰色の視線がかち合った。
「阪口は何処だ」
「言えませんね」
真実は知らない、のだが、幾之助はそれを飲み込んだ。
戦士が欲しいというのは何処の戦国も同じことだ。どんな形であれ、日本武士団はその和泉という少年を欲していた。
その為には阪口という餌を放す訳にはいかない。
阪口という拉致監禁犯が如何出るかは分からないが、その執着心は確実に、和泉を捕える。
それを象徴するのが、新聞に出ていた一個の話だ。
阪口は誘拐して来たデンマーク人の少年を和泉と名付け、足首に常に赤い紐を付けて部屋につないでいた。
赤い紐というのは容易く解けるだろう。
しかし、それをあえて選ぶ。
その狂気の執着心が、逃がすはずがない。
最初に日本武士団に「日本人」だ、と現れた阪口からは、チンピラというだけではない、何かの執着を感じ取った。
和泉をソ連が何処で捕えたのかは分からない。
だが、阪口は一言言ったのだ。
「北へ行った。北に連れて行ってやると約束していた。あいつは北へ行った」
北。
それだけの情報だが、それで十分だった。
即座にソ連から極秘裏に質問が来た。「阪口という男を知らないか」と。
「質問を寄越したの、KGBじゃありませんね」
ウラジーミルは眉を顰めた。
「軍隊の馬鹿どもが」
「軍部とKGB、もうちょっと仲良くした方が良いですよ。お粗末すぎる」
「忠告は必要ない。必要なのは阪口だ」
「ばれたら開き直る、ですか」
どちらも、相手が踏み込むのを待っている。
相手が一歩踏み込んだ隙に、自らが渾身の一撃を叩き込む為に。
キリキリと音の鳴るような緊張が迸った。
その緊張が一瞬解けた、目の前を銃弾が横切ったからだ。
即座に銃声のした方を見る二人。
しかし、現れた男は、銃を構えていなかった。ただ、驚愕は十分持ってきていた。
「全員此処で張ってたんだな」
「デンマーク国王、イェンス……!」
そう、実際、二人は、お互いがこのヘヴンズ・ドアーに現れると踏んで来ていた。
情報を得る為。
本当に言えば、力づくでお互いから情報を引き出すため。
だが、国王自ら現れるとは予想外だ。
「お前ら、俺様が直接来たから驚いてるんだろ」
分かりきった事を言って、イェンスは大声で笑い声を立てた。
「こういうの、日本では如何いうんだ?」
幾之助は、珍しく、目つきを鋭くし、ぽたりと汗を落とした。
「三すくみ、ですね」
「へー、面白い言い方すんだな」
また笑い声を立てる。
「如何だよ? 今すぐ殺り合うか?」
幾之助は僅かに引きつった微笑みを浮かべる。
「気軽に仰る」
しかし、ウラジーミルはいきなり、通信用イヤホンを耳に当てた。
そこから流れる情報は、彼をますます不快にさせた。
人魚は海に出た。冷たい海水は心地よく、潜って泳ぎ疲れて休むのも海底の岩。
心は一つ。
「阪口さん、探さなきゃ」




