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ベタ

作者: 手羽 サキチ

約2600字の短編です。

ベタ

絵里が僕の前から姿を消して1週間経った。一週間前まで彼女が生活していた僕の部屋には絵里が住んでいた跡が残されている。洗面所には彼女が使っていた緑色の歯ブラシがコップに差してある。歯ブラシの先は少しぱさぱさになっていた。戸棚には絵里が気に入っていたうさぎの絵が描いてある食器が納められている。プラスチックの引き出しのタンスの中にはわずか数着だが彼女が持っていた洋服が入っている。冷蔵庫の中には確か絵里の好物だった歯の溶けるように甘い生クリームの掛かった小さいロールケーキがまだ入っている。それはもうとっくに賞味期限が切れていると今気づいた。そして小さな折り畳み式の木のテーブルの上にある大きめのジャムの瓶ほどの水槽の中でベタが泳いでいる。僕は会社から帰ってきて気付くと吸い寄せられるようにベタを眺めていた。ベタは青い熱帯魚である。鱗はまるで平らで丸い小さなスパンコールのようだ。色は毒々しいくらいの青、赤みを帯びた青紫色だった。ベタは申しわけ程度に身動きが取れる水槽の中を漂うように泳いでいた。彼女がこの魚を初めて僕に見せたとき、メダカよりはるかに大きい魚を小さな瓶に収めていることを不思議に思った。―メダカだってもっと広い水槽に住んでいるだろう。せますぎてかわいそうだ。僕はそう言った。

「いいの。ベタのエラは特別なつくりになっていて狭い容積の水の中でもちゃんと酸素を取り込んで生きていけるんだから。」

彼女はそう言ってベタの水槽をなでた。彼女の言う通り、ベタは狭い水槽の中で生息していた。ベタは金魚のエサを食べていた。金魚のエサは耳垢を大きくしたような平べったい赤や茶色のフレーク状のものだった。彼女は細い指でそのエサをすり潰してベタに与えた。ベタはそのエサを小さな口で懸命に食べていた。彼女はごくわずかな量しかベタにエサを与えなかった。僕がそんな量じゃおなかがすくだろう、と言うと彼女は空腹よりも水が濁って腐る方が魚にとっては生きにくいのよ。と説明した。彼女のエサやりは常に的確であまり水が汚れることがなかったと思う。以前僕は耳掃除をしていて大きく半透明で平らな耳垢が取れたことがあった。僕はついその耳垢をベタの水槽に投げてみた。耳垢の脂が水に広がった。ベタは僕の耳垢を口ですーっと吸い取って食べた。僕はネクタイも解かずにベタを見ていた。青紫色のベタは今日もゆっくりと水槽を漂っている。水槽の底には金魚鉢のような砂利もプラスチックのにせものの水草さえなかった。ただ塩素を抜いた水道水の中でも生きていける。それはえらいことだ。


彼女と出会ったのは街のスナックだった。上司の行きつけの店だった。上司はゆでたまごのようなつるつるしたはげ頭でよくにこにこ笑うおじさんだ。路地の奥にある小さな店でロビンという名前の看板が掛かっていた。看板はピンク色で紺色の文字が書いてあった。その看板は夜になると暗闇と同化してよく見えない。上司と共に店に入った時に接客に入ったのが彼女だった。彼女は目が細く地味な顔立ちだった。長い黒髪が印象的だった。絵里、というのは本名なのかは今も分からない。彼女はあいそというものがないがゆでたまご上司が冗談を言うと口元がゆるんでいた。どこに住んでいるの、と聞くと彼女はこの店で暮らしていると答えた。僕はどう返事をすればいいのかわからずにそう、と返事をした。絵里はそうよ、と返して目を細めた。それからゆでたまご上司と何回か一緒に店に行った後に僕は彼女と二人きりで会う約束をした。僕は絵里のことを良く知らなかった。それでも彼女と一緒に居ると安らぐような気がした。彼女の隣でお酒を飲んでいると、幸せだと感じていた。僕たちはそのスナックの近くにある喫茶店で待ち合わせた。その店の中には大きな観葉植物が置いてあった。その大きな鉢の根元には小さな紙の札があって幸福の木と書かれていた。その木の近くの席で僕たちは向かい合って座った。彼女はアイスティーにミルクを入れて飲んでいた。絵里さん、僕と一緒に暮らさないかと言った。すると彼女は持っていた薄っぺらい黄色のトートバックの中からジャムの瓶ほどの大きさの容器を取り出して軽く持ち上げた。瓶の中には澄んだ水がきらりと光っていた。その中には青紫色の金魚くらいの熱帯魚が漂っていた。

「これ、私の宝物。」

彼女はそう言って細い目を糸のように細めて笑った。


彼女がいなくなったのは二週間前だった。僕が会社から帰ってきたら部屋の電気が消えていた。どこかに出かけているのだろう。そう思った。朝になっても彼女は戻らなかった。次の日になっても彼女は現れなかった。僕はそのことをゆでたまご上司に相談した。すると上司はスナックに電話を掛けてくれた。すると絵里は店にも来ていないという。そして店のママは絵里の本名や以前住んでいた場所について何一つ知らなかった。ママの話によると絵里は突然店にふらりとやってきて雇ってほしいと言ったそうだ。その時彼女のバッグの中にはこの瓶が入っていたのだろうか。テーブルの上の狭い水槽の中でベタがくるりと一回転した。警察に捜索願いを出そうと思った時に初めて僕は彼女の苗字や年齢、経歴についてほとんど何も知らないことに気付いた。絵里について知っていること。いつも早起きで5時に窓を開けて一本だけたばこを吸う。一か月に一回小さなロールケーキを買って食べること。きれい好きでひまがあると掃除をすること。腕に昔犬に噛まれた傷が残っていること。僕のことを本田さんと呼ぶ。そしてベタの名飼育員だということ。


数か月経ちいつのまにか冬になっていた。絵里はまだ家に戻らなかった。宝物だと言っていたベタを置いて彼女はどこに行ってしまったのだろう。僕はダウンジャケットを着て会社から帰ってきた。冷蔵庫を開けるとロールケーキは袋の封を切っていないもののひどく変色していることが分かる。袋を開けたらひどい匂いがするだろう。僕は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップにも開けずに飲んだ。空気が乾燥しているせいか最近のどがかわく。部屋の電気を点ける。テーブルの水槽を見る。するとベタは腹を上にしてひっくり返っていた。僕は瓶をゆすった。ベタの体は落ち葉のようにふわりと沈む。ベタは死んでいた。死んだベタは青紫色のスパンコールで作られた細かいつくりもののようだった。なぜだかベタと一緒に絵里もいっぺんに死んでしまったような気がして僕はひどく悲しい気持ちになった。


ありがとうございました。

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