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THE ONE

作者: 鶏

 人生と比したとき、二百年というのは途方もない歳月だ。けれど、一つの政治形態や文化的な潮流が変化を迎えるには適切な期間なのかもしれない。人類のライフサイクルに関していえば、五十年ほどで古い世代は新しい世代にとってかわられる。それが、たとえば個人の場合ではどうだろう。

 二十年。二十年というのは一人の人間が、二度目の生を受けてから完全に成熟するのに十分な期間だと僕は考えている。

 これから語るのは、ちょうど二十年前に故郷を飛び出していった一人の少女の話。

 その少女の姿を探して、古い記憶の海へ深く潜っていけば、まず最初に優しいギターの音色が蘇ってくる。それは最古の、自我と世界が曖昧に混ざり合っていたころの記憶。物心つく前の僕は暖炉のそばでその音を聞いている。だが、いつまでもそうはしていられない。好奇心に煽られやがて庭へと駆け出していく。薄暗い屋内から、陽射し溢れる夏のただなかへ。するとそこには、耳を澄まし軽く目をつむっている女の子がいる。その子はただじっと、ギターの音を聞いている。

 彼女の名はエリナ。気心知れた隣人。僕のたった一人の幼馴染であり、話の中心人物である。


 エリナとは家が隣同士ということもあって、互いに幼いうちから僕たちは遊び仲間だった。そして、後々に彼女を苦しめることになる一つの特徴は、最初に出会った時からもう既に発露していた。

 ただ、それについては後回しにして、まずは幼少時に随分と気にかけてくれた彼女の兄について先に語ろうと思う。四六時中ギターを弾いていて、本当の兄弟みたいに接してくれた人。

 エリナ自身に関する記憶とは違って――とても残念なことだけれど――今では彼の面影を鮮明に思い浮かべることができない。というのも、二つほど理由があった。

 まず第一に、彼の在りかたがあまりにも人間らしさに欠けていたから。そのせいで顔や身体の特徴を憶えていないのだと思う。投射された影が自在に姿を変え、掴みどころがないのと同じように。

 しかしながら、不思議な印象を他人の心に残す人間だったというのは間違いじゃない。こんな言い方をするのは悪いけれど、率直に言ってしまえば彼は奇人変人という類といえるだろう。なにせ、毎日のように顔を合わせていたにもかかわらず、僕は彼の本名さえ知らないのだ。

「俺のことはルーシーと呼んでくれ」

 それが初対面での第一声だった。

 誤解を生むかもしれないのでここで一つ断わっておくけれど、彼はゲイやホモではない。しかし女性名であるルーシーと、周りには呼ばせていた。それから、絶滅危惧種であるヒッピーの生き残りだった。花と平和を愛していたし、人柄は危ういくらい底抜けに透明で、十月の芝生みたいにただ優しかった。ギターの名手で、僕にその弾き方を教えてくれたのも彼だった。頭の先から足首までどっぷりとビートルズに傾倒していたし(自分をルーシーと呼ばせていたのも多分その線だろう)、同じくらいドラッグにも漬かっていた。

 幼い僕たちと大きく歳が離れていて、かといって完全な大人でもなくて、とにかく不可解な存在だった。そして同時に憧れの的。その感情は小さな男の子にとって、壁の高い場所に掛かって手の届かない、一丁の猟銃に注がれるものと同質だった。

 ただの隣人である僕でさえ多かれ少なかれ影響を受けたのだ、実の妹であるエリナはそれ以上にルーシーを拠りどころにしていた部分がある。

 そのことを裏付ける事実として、僕たちがいくつか長じたあと、エリナは僕によくギターを弾かせたものだった。

「いくら練習しても私じゃ上手く演奏できないから」

 そう言って、夕暮れ時になるとよくルーシーの忘れ形見を持ち出してきた。

 忘れ形見、だ。この言葉は決して間違ってはいない。

 ここで二つ目の理由。単純に、共に過ごした期間が短かかったということ。僕たちが十歳を迎えた年の夏、彼は何の前触れもなく失踪した。

 ルーシーが姿を消す直前、エリナは彼とこんな会話を交わしたそうだ。

「どこに行くの、お兄ちゃん」

「散歩に行くのさ」

「どこまで」

 優しい兄は最後の質問には答えず、かわりににこりと微笑んでギターを肩に担ぎ、口笛を吹きながら朝陽の中に溶けていった。ただ、それだけだった。こんなものが離別の場面だと誰が想像できよう。だけど本当の話なのだ。それ以来ルーシーの消息を聞いた者はいない。

 もしも突飛な空想が許されるとしたら、僕はこう考える。

 ヒッピーというのは歴史のムーブメントの中で形成された架空の一族に過ぎないが、彼はあまりにも純然たる形でヒッピーを体現していた。だから、その運動の終焉と共に消えゆく運命だったのだ、と。彼は概念があまりにも純粋化した結果、擬人化されて魂と肉体をもったようなものだった、と。

 多数の人間の意思が一つの方向に流れ、時間とともにまた向きを変える。ムーブメントは社会に対する訴求力を失ったときに力を失う。季節が眠りにつくのと同じようなものだ。燦々と降り注ぐ灼熱の陽射しに喘ぐ人間にとって、降りしきる雪の情景はリアリティをもたない。ある日を境にして、誰もが愛と平和の題目に疲れてしまったのだ。

 ともかく、エリナの兄について語れるのはこのくらいだ。話を彼女に戻そう。

 僕は先に、彼女を苦しめることになる特徴についてほのめかした。それについて語る。彼女がいくら練習してもギターが上手くならなかったことも、この特徴に関連している。

 エリナは幼いときから思うように手足を動かすことができなかった。まるでブリキのネジ巻き人形みたいに、何をするにつけても動作がぎこちないのだ。身体機能に異常があるのではなく、心理的なものだというのが医者の判断だった。だから病名なんてたいそれたものが与えられたわけじゃない。

 人生の初めの重要な期間を過ごし、いくら腹蔵なく互いのことを話し合う仲だからといっても、結局のところ僕たちは他人同士でしかない。だから、彼女の本心をはかり知る術はなかった。ただエリナの言葉を馬鹿正直に信じるとすれば、「別に気にしてはいない」のだそうだ。「手足がまともに動かなくたって、生きることはできる」とも。

 僕にとってしてみれば、彼女の手足の動きがぎこちないのは、出会った最初の瞬間からそうであったし、共に成長する中でそれは当たり前のものだという認識しかなかった。だけど、エリナのことをよく知らない十代の子供達にとってみてはどうだろうか。

 論ずるまでもなく、一人の少女にとって厳しい時期が訪れた。

 十五歳、エリナに対する弾圧が最も苛烈さを極めた年だ。この年代の子供たちに分別を求めるのはいささか難しいものがある。悪意ではなく事実をありのままに話せば、彼女の特徴は意地の悪い子供たちにとって嘲笑の的でしかなかった。彼女が緊張したり、衆目を集めるような状況に陥ると、例の特徴はますます際立った。心無いクラスメイト達は、彼女を「ネジ巻き女」と呼んでからかったものだ。物を取り上げて必死に取り返そうとする姿を笑ったり、彼女の動きを誇張した形で真似してみたり、そういうことが日常的に行われていた。

 そんな状況の中で僕に何ができただろうか。幼馴染みとして彼女を庇い、容赦のない攻撃の矢面に立って共に戦うというのは、人として、男として、一つの正しいありさまなのかもしれない。だけど、そういう行為は特別な人物にしか許されていない、歪んだ形の正義なんじゃないかと思う。だから僕は一人の平凡な少年として、何もしないという選択肢をとった。悪意も好意も向けず、幼馴染として今まで通りに接する。それが僕にできた最大限の思いやりだった。

 積極的に彼女の味方をすることはできなかったけれど、エリナは同年代の子たちに比べてずっと大人びていて、僕に助けを求めるようなことはしなかった。むしろ僕が傍観者としての立場をとることが正解であるというふうに賛同している節さえあった。その強さにどれほど救われたことだろう。

 しかし、いくらエリナが強い人間だったとしても、限界というものは存在するのだ。誰かが抑圧されるような環境にあっては、遅かれ早かれ決定的な瞬間は避けられない。

 ある夏の日曜日のこと、僕はエリナの家を訪れた。昼どきにもかかわらず、彼女の母親は強烈な酒の匂いを発しながらカウチで泥みたいに眠っていた。父親は戦争で夭折していて、女しかいないその家はいつも香水と砂糖菓子とアルコールの混ざった、陶酔するような甘い香りが漂っていた。放っておけば、トーストかコーンフレークしか食べないだろうから、僕は自家製のサンドウィッチを手土産にしていた。彼女の家庭は決して裕福というわけではないけれど、貧窮しているわけでもない。若く綺麗な母親は大枚と引き換えに多くの男と寝ることを生業にしていて、身につけているものは全て上質だった。娘に与えるものも、同様に洗練されていた。少なくとも物質的な意味合いにおいては。

 放埓という言葉がこれほどまでに似合う人物を僕は他に目にしたことがないし、これから関わることも恐らくないだろう。そして、エリナはこの美しい母親に複雑な感情を抱いていた。

 サンドウィッチを齧りながらしばしばうそぶいたものだ。

 アイツは私みたいな半端ものしか産めないし、主食はパンケーキで水分といえばアルコールかガムシロップで摂取している。女として死ぬのは、時間の問題でしょ。

 狭い世界しか知らない子供時分の僕にできたことといえば、そうだね、とエリナの肩を持ってやることぐらいだった。

 そして午後になり陽射しが和らいできたので、僕たちはルーシーのギターを担いで近所の川まで歩いて行った。そこで、偶然のいたずらにしては少しばかり悪質なのだけれど、エリナをいじめていた五人の少年グループにばったりと遭遇してしまったのだ。

「よう、おまえギターなんて弾けたのか」

 相対するなり、リーダーの少年がそう言った。

「まあね」

 面倒なことになったなと思いながら、僕は気の抜けた返事をした。エリナは黙込んで、おずおずと一歩下がる。

「一曲やってみてくれよ」

「オーケイ」

 そして、幾度となく繰り返して指が覚えているビートルズのイエスタデイを軽く披露した。

「なんだそれ。ちょっと俺にも貸してみろよ」

 優しいけれど虚無的な調べは彼の気に召さなかったらしく、ルーシーのギターは奪い取られてしまった。楽器は次々と少年たちの手を渡っていくが、彼らの誰一人としてまともに扱えるものはいなかった。きちんと調律された六本の弦は滅茶苦茶に掻き鳴らされて、悲痛なうめき声を上げた。そればかりじゃなく、彼らはネックを掴んで散々に振り回した。僕は憤りよりも先にたまらなく悲しい気持ちになり、冷静さを失った。そして取り返しのつかない過ちを犯したのだ。

 やめてくれ、それは彼女の大事なものなんだ。

 彼女の、ものなんだ。

 そう告げられた不良少年たちの目つきは、見る間に変わっていった。いかにも狡猾で、貪婪に光る目。僕はなんて愚かなんだろうと後悔した。みすみす相手に攻撃の材料を与えてしまうなんて。

「聞いたか」

「ああ」

「こいつはネジ巻き女のギターなんだってよ。笑えるよな」

「笑えるな」

「どうやって弾くんだ。痙攣してるだけで音が出るのか、こんな風に」

 不良のリーダーは大げさに指を震わせながら、弦に触った。そうして不快な音を出して、エリナを馬鹿にしながらにじり寄る。

 彼女は地面を見つめ、黙り込んだ。そういう挑発を幾度となく受け、対処する方法を学んでいたから。

今のままではエリナに堪えないと分かると、不良はやり方を変えた。

「そうかそうか。弾けないよな。そりゃそうだ。じゃあ、こいつはお前にはちょっと勿体ない。だから俺がもらっていくぜ」

 不良少年たちは僕たちに背を向けて、騒ぎながら立ち去ろうとした。

「待ってよ、ねえ。待ってよ」

 エリナは覚束ない足取りで、奪われたギターを取り返そうと歩を進めた。彼女が追いつきそうになると、少年たちは足を速めた。エリナはどんどん必死になっていった。前のめりになり、転びそうになりながら走ろうとした。それははっきりいって無様な姿だった。僕は彼女のすぐ後ろをついていく。荒がる息遣いを間近に聞き、その不如意な身体の中に渦巻く強い感情が目に見えるようだった。前方で沸き起こる笑い声は、エリナの努力に比例して大きくなっていく。結局、追走劇は川に架かった橋を渡り、町はずれの丘の上に立つ時計台まで続いた。

 時計台は故郷の町で一番高い建物だ。不良少年たちは古びた錠前を易々と壊して中へ入っていく。

 彼らはルーシーのギターを担いだまま、建物の内縁に沿って螺旋状に設えられた階段を上る。僕は時計台の入り口でグループの仲間の二人に組み伏せられて、地上からその様子を窺うことしかできなかった。どんどんと登っていく少年たちに追い縋ろうと、エリナはぎこちない動きで、かなりの遅れをとりながらついていく。まず少年たちが頂上部に到達し、一番身軽なものが足場のない時計台の機関部によじ登って、不安定な場所にギターを据えて戻ってくる。しばらくしてようやくエリナが集団に追いついた。そこで何か言葉の応酬があったらしいが、地上まではっきりとした声は届いてこない。

 今や遠い場所に行ってしまった兄の形見に対して、少女は途方に暮れたように立ち尽くしていた。僕はやめろ、と大声を張ったけれど、すぐさま腹に強烈な一撃を見舞われてしまった。少し黙って見ていろ、とでも言いたげな視線と共に。

 緊張が周囲を支配していた。まるで偏執病に冒されたみたいに、押し殺した笑い声のようなものが自分の頭の芯と、耳の外側の二方面から押し寄せてきた。滑らかに駆動し続ける金属の構造体、その静かな拍動。それらに真紅の光沢を与える斜陽。

 エリナが動く。

 僕は再び抵抗を試みるも、努力の甲斐なく地面に沈められた。頂上部では小さな影が足がかりを探していて、それを黙って見ているしかなかった。

 だが、何よりも恐れていた事態はあまりにもあっけなく訪れた。 

 エリナが掴んだのは、部品同士の間にあるくぼみでも手すりでもなく、虚空。前のめりになった姿勢は今更どうしようもなく、空中に投げ出される。数秒先の未来がありありと予見されて、痛みさえ伴うほどの戦慄が背筋を走り抜けた。己の目の前で、少女の肉体は十数メートルの高さから落下し、激しく地面に叩きつけられ、まるで冗談みたいに一度大きく跳ね上がり、そして仰向けの状態で動きを止めた。全ての音が消え去り、僕は凍りついた。エリナも同じく、凍りついたように身じろぎ一つしない。

 しかし結論から先に言えばエリナは生きていた。そして彼女の中で重大な変化が、全くの別物へ生まれ変わるほどの異化が、始まっていた。ここからは少し彼女の言葉を借りようと思う。

 ――落ちていく瞬間、自分の中で何かがカチリと音を立てて組みあがった。それは、正確な回転を続ける時計台の歯車から想起されるイメージだった。肉体に対する認識が一変し、まるで堰の水門を開いたかのように大きな奔流が全身をめぐっていく。全てが意のままだった。四肢に歯車が隙間なく詰まっていて、それが回転することで身体が動いているという感覚。もう、肉体を完全に支配していた。私は何をすべきかが手に取るようにわかった。冷静に息を吐き、地に叩きつけられる寸前まで脱力する。そして着地の際に自らを跳ね上げることで落下の衝撃を緩和した。痛みというほどの痛みはなく、受けたのは擦り傷程度で、深刻なダメージが無いのが分かった。仰向けになったまま右手の親指から小指へと、一本ずつ折り曲げて伸ばしてみる。やはり問題なし。そんな感じ――。

 後日、彼女は短い時間の中で起きた出来事を、このように語った。

 少し後、頂上部に上っていた不良少年たちが戸惑いの表情を浮かべながらもゆっくりと階段を降りてきた。

「大丈夫か」

 おずおずと彼らのリーダーが尋ねるが、返事はない。彼はエリナに近づき、軽く二、三度頬をはたいた。

「ネジ巻きが壊れちまった。つまんねえの」

 吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して彼らは時計台を去ろうとした。

 僕は戒めから解放されて、エリナに歩み寄る。だけど彼女は助けの手を借りるまでもなく自分自身の力で立ち上がり、不良少年たちの背中を見つめていた。その姿はもう、おどおどとして他人の顔色を窺いながら生きる少女ではなかった。全身に力がみなぎり、血が走っていた。

「今までのツケを返してもらう時が来たみたい」

「え、なんだい」

「何でもできる気がするの、見てて」

 エリナはニヤリと口元を歪めて、不敵な笑みを浮かべる。熱っぽく生き生きとした視線が、鋭く敵を捉えている。

 まったくもって信じられないようなことだけれど、落下の瞬間以後、彼女は完璧に肉体を支配する術を心得ていた。たとえば五人の少年を一度に相手取り、息つく間もなく彼らをぶちのめしてしまうくらいのことは造作なかった。

 二度と妙な気を起こさないようにと、エリナは執拗なくらいに倒れている少年たちを蹴り上げた後、王者のごとく悠然と時計台を上っていく。そして、軽々と不安定な足場を渡り歩き、無傷のギターを手にして僕の前に戻ってきた。

「行こう、もうすぐ日が暮れてしまう」

 僕は躊躇いがちに、ああ、と答えて自宅へ続く道を辿っていった。夢を見ているような気分だった。二十年経った今でも、あの日の出来事は夢だったんじゃないかと時々思うことがある。だけど恐らく現実なのだろう。

 時計台の事件以来、エリナに対するみんなの見方が一変したのは言うまでもない。

 彼女はもう「ネジ巻き」ではないし、湧き上がる自信に満ちていた。女の子に喧嘩で負けたなんて事実は、不良たちにとって耐えがたいことだったろうし、なるべく彼女と関わらないようにしたのはごく自然なことだった。誰もが腫物を扱うみたいにエリナと接したけれど、それは多分彼女にとって幸運なことだったのだと思う。エリナは周囲の人間との関係の中で、自分の場所を確立していくタイプではなかったから。

 とりまく環境が変わってしまったことと同様に、彼女自身もまた変わっていった。

 人生について模索する時期が不意に訪れたのだ。可能性の扉は堂々と開かれていた。身寄りのない孤児が、ある日突然遠い親戚の莫大な遺産を受け継ぐことになってしまったかのような有様だった。手足を誰よりも自由に動かせる、それはエリナにとって何よりも素晴らしい、天からの贈り物だったことだろう。

 それまで押し殺されていた何かが、開花していく過程を僕は目にした。些細なことから、目を疑うような光景まで。たとえば化粧することを覚えたことだとか。エリナには一人の女として生きていく道もあっただろう。その頃になると母親に似て、日増しに美しくなっていった。毎日顔を合わせている僕でさえ戸惑いを覚えるくらいに。

 それから彼女は学校にあまり来なくなった。様々な探究のために一日中町に出てをうろつくことが多くなった。夜になると羽を濡らした蝶のように着飾り、悪い噂の絶えない場所にでさえ出入りしていたらしい。非行という単純な言葉で済ませればそれまでだけれど、そんなものではかり知るにはあまりにも特殊な倫理体系の中で動いていた。あの子がただ寂しさを紛らわすという理由だけで、反社会的な行為に手を染めるわけがなかった。

 無力ではなくなったことの証が欲しかったのか、エリナは母親の庇護下からいち早く抜け出そうと躍起になっていた部分がある。やり方はあまりスマートじゃなかったけれど。たとえば教会の献金皿から小銭をくすねたり、身なりの良い人物に手際よく掏摸を働いたり、夜の酒場でダイスを振ったりだとかだ。ただあまりにも勝ちすぎるので、そのうちだれも相手にしなくなったらしいけれど。

 どこで覚えてきたのか、たまに顔を出したかと思えばマリファナのやり方を教えに来たりもした。勿論、ジャンキーになっていたわけじゃない。むしろ彼女はいくら魔法の粉を吸いこんでも酔えない様子だった。何をしても平然としているので、君は小麦粉でもつかまされたんじゃないか、と訝しんだこともある。すると彼女はごく少量の粉を煙草に混ぜたものをくれた。そして結局、僕はその煙を吸ったせいで、三日ほど最悪な気分を引きずることになってしまった。粉は正真正銘の本物だった。

 エリナはやれることがあれば反社会的であろうと慈善行為であろうと、なんでもやって自分を試していたみたいだった。それでも彼女にとって故郷は狭すぎた。彼女、それから彼女の兄、母親、その一族はきっと流浪の民の血を引いていたのだろう。歯車のイメージを得て自由になったあの日から半年もするころには、旅立ちの予感を身に纏わせていた。

 大きな変貌を遂げつつある彼女に比べて、僕は相変わらずだった。

 ギターを抱えて、川辺で弾く習慣も続けていた。時折、エリナが音もなく近づいてきて傍らに座っていることもある。予想していたことだけれど、楽器を貸せば複雑なコード進行を難なくこなしたし、僕よりも遥かに上手く演奏できた。だけど、こうも言っていた。

「あなたの音が好きなの」

 だから僕は下手だけれど、心を込めてギターを弾いた。そうしていると、涼しい風の中で、彼女は母親のことを話してくれた。

 この町を出ていこうと思うんだけど、そのために少しまとまった金が必要なんだ。うちの母親みたいに、男をとっかえひっかえして貢がせれば簡単なのかもしれないけれど、それは嫌。でもね、派手に動こうと思えばそれだけ気取られる可能性は上がるわけじゃない。仮にも女同士だし、勘が働くでしょ。私は黙って出ていきたかったんだ。だけど、だけどね、やっぱりダメだったみたい。なにをしようとしてるのか、アイツには全部お見通しだった。女として一枚上手なんだろうな。

 そこで彼女は軽く目を瞑ったまま苦笑いを漏らす。

 それでね、一人の母親と、一人の娘として、初めてアイツに教えてもらったことがあるの。なんだか分かる? それはね、上手な嘘のつき方。私たちってどうしようもないよね。

 語られる言葉とは裏腹に、エリナはなんだか嬉しそうでもあった。

 家を出ていくと言ったら、アイツは認めてくれたよ。意外にすんなりとね。だから、私がこの町を出ていくときは、必ず知らせるよ。そしたら、あそこまで見送ってほしい。

 彼女が指を差したのは、橋だった。橋の先を真っ直ぐ歩いていけば、隣の町まで続く道がある。脇に逸れていけば故郷で一番高い丘まで続いていく。僕は二つ返事で了承した。

 だけど、その約束は他愛もないただの嘘だった。エリナもルーシーと同じように僕の前から忽然と姿を消した。しかし、ヒントは充分に貰っていたのだし、それに気がつかない僕が間抜けだったというだけのこと。「上手な嘘のつきかたを母親に教えてもらった」という話の直後だったから、エリナはそれを証明してみたに過ぎない。そうだろう。あるいは、話していたことが一から十まで全て嘘だったということもありえる。今や真実を知る由はない。あまりにもあっけない幕切れだったから。

 エリナはどのようにして姿を消したか。別に、なんてことはない。ある朝、僕が目覚めて家の外に出ると、ルーシーのギターが玄関先に置いてあった。それだけ。僕たちの別れはそういう具合だった。シンプルでとても彼女らしい。

 以来、僕はギターを大事に預り、折に触れては川岸に立ってそいつを弾いた。数日おきに演奏することもあったし、数年の空白期間を設けることもあった。そんなふうにしていくつもの季節を見送っていった。

 そして僕は二十年越しに物語を綴ろうとしている。

 エリナはどこで何をしているのだろう。

 思うに、多くの人は〇(無)から1(全)へ、間断なく経験を積み重ねることによって人間としての完成を目指していくものだ。そうして世界が我々に示してくる無数の現実に対し、正しい、あるいは正しく見える応答の形式を築いていく。

 ある人間の言葉に宿る重みとはすなわち、経験の質量なのだ。

 彼女の場合は長らく虚無だけが内側に存在していた。ままならない世界の中で、すべての事象はほとんど無価値に過ぎなかったのだろう。だけど、歯車が噛みあった日に半分だけ人間になった。ちょうど、半分。完全なる肉体への支配を得て、強さと呼べるものは全てを兼ね備えていた。そのかわりに、残りの弱さの部分を兄が持って行ってしまった。それは、人の在りかたとしてはとても歪だ。僕は、彼女の人生についてそんなふうに思い巡らせる。

 果たして誰が彼女の孤独を理解できたことだろう。何でもできてしまうことに対する焦燥。絶望。弱さは時として生きていくための希望を担うものだ。

 エリナの抱えるそれとは別に、自身の孤独について考える時期もあった。青年期の入り口に立っていた頃、ビートルズの曲を聴きながら僕は考えていた。あらゆる時代の青年たちがそうしてきたように、託された楽器を抱え、朝靄の中によく一人で佇んだものだ。そして手慰みに、リヴァプール出身の四人組が、ライブバンドからレコーディングバンドへと変遷していく過渡期の曲を、なんとかしてギターの音に落とし込もうと試行錯誤していた。それも懐かしい日々だ。結局、ビートルズに対する僕の試みは成果を上げなかったし、孤独についてろくに考えをまとめることもできなかった。けれど、僕は生きている。そういうものだ。

 二十年というのは、長い。どう足掻いても、長い。子供にとっては想像を絶するほどの道のりだ。

 だけどそれは経過してしまった。

 最近、彼女がひょっこりと帰ってくるような気がしてならない。ただの予感にすぎないのだけれど、僕にとってそれはとてもリアルな手触りをしている。

 たとえば、と、今、空想してみる。ニューヨークの喧噪絶えない街角で、あるいはカシミールの山奥で、荘厳な秋の夕暮れの墓場で、ばったりと兄に再会した彼女の姿を。そうして、人間らしさの残り半分を手に入れた一人の女を。彼女は姿を消した時と同様に、ある日突然この町に帰ってくるかもしれない。日に日にそんな気がしてくる。

 運命がどのように転がっていこうとも、彼女ならきっと上手くやるだろう。そう、信じている。

 これは、君と僕と彼の物語だ。だから、僕は書く。そして今日もまた、待ち続けている。



(了)

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