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第一話 家事やる気ない俺、年下の見知らぬ女子中学生にイクメン候補育成指導される!?

男は家事なんて出来なくてもいい。

そう考えている男は、今の時代でもかなり多くいるのではないだろうか?

東京近郊、閑静な住宅街で家事上手な二人の姉に囲まれて育って来た笹島家長男、高校一年生の英太もそんな考えの男の一人だ。

(まだ眠い。二時近くまでテレビゲームしてたからな。今日は早めに寝よ)

英太が平日毎朝七時半頃に起床し、制服に着替えてキッチンへ向かうと、

「英太、おっはよう! 眠たそうね」

長女、大学一年生の潤子じゅんこと、 

「エイタ、おはよー。今朝はちょっと蒸し暑くて寝苦しかったよね」

次女、高校二年生の乃々ののえがいつも手作りの朝食を用意してくれている。

二人とも学校で一二を争うほどの美少女ではないものの、垢抜けなく可愛らしい顔つきをしている。それゆえ英太はかなり恵まれた家庭環境にあるといえよう。

潤子は今どきの女子大生っぽくほんのり茶髪に染めて、セミロングなふんわりウェーブにしているものの、まだ女子高生としてもじゅうぶん通用するあどけなさを残している。

乃々絵は丸顔に丸眼鏡で見た目は地味で大人しそうだが、まさにその通り。いつも花柄リボンで束ねている濡れ羽色の髪の毛は、今朝のように大抵ボサッと寝癖が付いている。背丈は一六〇センチちょっとで、潤子より三センチくらい高い。

「ここ数日、ずっと同じメニューだな」

「卵の味つけは今日はお砂糖に変えてるよ」

「エイタ、文句あるなら自分で作ったら?」

「それは無理。俺、料理なんて全く出来ないし」

英太は爽やかな笑顔できっぱりと伝え、イスに腰掛ける。テーブル上にはトースト、味噌汁、スクランブルエッグ、レタス、トマト、ウィンナー、びわ、桃が並べられていた。 

「英太もお料理手伝ってくれたらいいのに。せめて朝ご飯だけでも。今やイケメンよりもイクメンが求められる時代になってるんだから」

 母は英太の分の弁当の用意を進めながらこう意見してくる。

「母さん、ワイドショー信じ過ぎ。男は今でも家事なんてあまり出来る必要ないだろ」

「英太、そんな亭主関白的なこと言ってると望実のぞみちゃんに嫌われちゃうわよ」

「それはないと思う」

 望実ちゃんとは、お隣に住む英太と同級生の幼馴染だ。フルネームは鈴本望実。幼小中高、学校もずっと同じである。

「おれも学生時代一人暮らししてたけど、学食やコンビニ弁当ばかりで料理なんてやった経験ほとんどないな。それじゃ、行ってくる」

私立中高一貫校の数学教師を務める父は、決まり悪そうに苦笑いする。朝食をすみやかに平らげ、七時三五分頃に家を出るのが彼の平日いつものパターンだ。

「乃々絵姉ちゃん、今日はトーストと味噌汁食べてないんだな。体調悪いのか?」

英太は乃々絵の分だけ食器が二つ少ないことに気付き、少し心配する。

「ダイエット始めることにしたの。水泳の授業が来週から始まるし」

「乃々絵姉ちゃんはまだそんなに太ってないだろ」

「いや、太ってる。昨日久し振りに計ったら五〇キロ超えちゃってたもん」

「乃々絵姉ちゃんの背丈なら、それでもまだ標準体重以下だと思うけど。母さんを見てみろ。母さんよりは痩せてるじゃないか」

「そりゃそうだけど、お友達と比べたら……」

「ママは確かに太いよね。足も大根みたいだし」

 潤子は母のなりを見てにっこり笑う。

「そんなに太ってるかしら?」

 母は気にも留めない様子で微笑んだ。一五五センチほどの背丈で、体重は確実に六〇キロを超えていると思われるぽっちゃり体型なのだ。乃々絵は将来母のような体型には絶対なりたくないなと思っているようである。

「朝食はしっかり食べた方がいいよ」

「乃々絵、朝ご飯いっぱい食べないと、お昼になる前にお腹と背中がくっついちゃうよ」

 英太と潤子はいちごジャムのたっぷり塗られたトーストを頬張りつつこう助言。

「そうは言っても……」

 乃々絵は納得いかないようだ。

「乃々絵、朝食しっかり取らないとニキビがまた増えるわよ」

 母は、爽健美茶を飲んで口直ししていた乃々絵のほっぺたのニキビをぷにっと押した。 

「もうお母さん、触らないで。ワタシ気にしてるのに」

「ごめん、ごめん」

「ごちそうさま」

 乃々絵は朝食を取り終えると、食器を流しに置いたのち洗面所へ向かい歯磨き&洗顔を済ませる。そのあと潤子、英太の順に洗面所を使うのが最近のパターンだ。

まもなく午前八時になろうという頃、ピンポーン♪ とチャイム音が鳴り響いた。

 その約一秒後、ガチャリと玄関扉が開かれ、

「おはようございまーす」

 女の子ののんびりとした声が聞こえてくる。

 この子が望実ちゃんだ。学校がある日は、いつもこの時間帯くらいに英太を迎えに行くのが昔からの習慣となっているのだ。丸顔ぱっちり垂れ目な高校生としては少し幼く見えるおっとりのんびりとした雰囲気の子で、ふんわりとしたほんのり茶色がかった黒髪をいつもシュシュで二つ結びにしている。

「英太、彼女が来たわよ」

 潤子はにこにこ笑いながら伝える。

「彼女じゃないって何百回も言ってるだろ」

 英太は呆れ顔だ。

 母は玄関先へ向かうと、

「望実ちゃんは、家事が出来る男の子とそうでないの、どっちがいいかな?」

 こんな質問をしてみた。

「それはもちろん家事が出来る方です」

 望実はほとんど間を置かずにっこり笑顔できっぱりと答える。

「だって英太」

 母は後ろを振り返って、ちょうど玄関先へ向かっていた英太に言う。

「はい、はい」

 英太は迷惑そうに反応し、靴を履いた。

「ノゾミちゃん、おはよー」

「おっはよう! 望実ちゃん」

 ほどなく乃々絵と潤子も身支度を整えて玄関先へ。潤子が一限から講義がある日は、今年二月までの状況と変わらずこの四人でいっしょに通学しているのだ。

今は六月半ば。制服は今月初めから完全夏服。私服の潤子もとっくに半袖になっている。今日は水玉チュニックとピンクのキュロットパンツの組み合わせだ。

「おば様、いきなりあんなこと訊いて来たけど今朝何かあったの?」

「エイタが朝食最近ずっと同じだって文句言って、そういう流れになったの」

「そういうわけかぁ。英太くん、いつも潤子ちゃんと乃々絵ちゃんに作らせといて文句はダメだよ」 

「俺は文句があったわけでもないけどな」

「あたし、英太の手料理一度食べてみたいなぁ」

「私もー。英太くんも本気を出せばきっと料理上手になれるよ」 

「いや無理だって」

「英太ったら、もっとポジティブにならなきゃ。それじゃあね」

 笹島宅の門を出て百メートルほど先の、最初の曲がり角で潤子は別れを告げた。

「それにしても今日は真夏みたいに暑いな。今週も晴ればっかだし、本当に梅雨入りしたのか?」

「今日午後の降水確率三〇%だったから、ひょっとしたら降るかもね。そういや今日数Ⅱの小テストだ。やばいよ」

「私も数学は高校に入ってから急に難しくなったと感じてるよ」

「俺は今も数学得意だけどな」

その後も三人仲睦まじく楽しそうにおしゃべりしながら歩き進んでいき、

「ではまた夕方」

笹島宅から七百メートルほど先の交差点で乃々絵とも別れた。違う高校なのだ。

「英太くんも乃々絵ちゃんや潤子ちゃんみたいに家事どんどん手伝うべきだよ」

「やる気ない」

「それは勿体無いよ。英太くんも今から家事を一生懸命頑張れば、将来素敵なイクメンパパになれるよ」

「そっかな?」

その後は英太と望実、二人きりで歩き進む。励まされて英太はやや照れくさそうだ。

その頃、笹島宅リビングにて、母は今日の朝刊に付いて来たチラシを眺めていた。

「今日はサンマが安いのね。あら、何かしらこれ? 家事を全然手伝ってくれない小学四年生から高校生までの男のお子様をお持ちの方へ……」

笹島宅から二人が通う、近隣では二番手の公立進学校、都立翠山台すいさんだい高校までは約一.三キロ。鈴本宅と共に惜しくも自転車通学禁止区域に指定されているのだ。 

 所属する一年五組の教室に辿り着くのは、いつも八時二〇分頃。英太と望実は小学六年生の時以来、久し振りに同じクラスになった。芸術の選択で同じ書道を取ったため、なれる確率も高かったのだ。

「聡葉ちゃんおはよー」

望実は自分の席へ向かう前に、先に来ていた幼稚園時代からの幼友達、村越聡葉むらこし さとはのもとへ。

「おはよう望実さん」

 聡葉はいつものように爽やかな笑顔で返してくれる。背丈は一五五センチくらい。四角顔で細めの一文字眉、四角い眼鏡をかけ、ほんのり茶色がかった黒のショートヘア。見た目そんなに賢そうな感じの子ではないが、東大に毎年三名程度の現役合格者を出すこの高校の新入生テストと一学期中間テストでも共に総合二位を取った正真正銘の優等生なのだ。

「ねえ聡葉ちゃん、家事や育児に快く協力してくれる男の人とそうでないの、どっちがいいと思う?」

「それはもちろん、快く協力してくれる方だな」

 聡葉は悩むことなく即答する。

「英太くん、聡葉ちゃんもそういう男の人の方がいいって言ってるよ」

 望実は英太の方を向いて伝える。

「あっ、そう」

 英太は適当にあしらう。

「英太さんは、家事にあまり協力して来なかったみたいですね」

「そうだな。家事は母さんと姉ちゃんがほとんど全てやってる。父さんは俺以上に協力しない」

「英太さんのお父様は、お母様やお姉さんから家事を協力してくれるよう言われなかった?」

「母さんはむしろやめて欲しいと思ってるよ。父さんが料理とかしたら、後始末が大変だからな。餃子焼いてフライパンをダメにしたこともあるし」

「そうですか……わたしのお父さんも、家事はあまりしないけどね。一番の得意料理はカップ麺って言ってたし」

 聡葉は苦笑いする。

「俺の父さんと同じだな」

 英太は思わず笑ってしまった。

「わたしのお父さん、豊富な学問の知識を持ってるけど、実際に手を動かして工作物を作ったり、機械を操作したりするのはすごく苦手なの。学生時代も副教科の筆記試験はいつも満点かそれに近い点取れてたけど、実技はさっぱりダメだったって言ってたな」

「俺の父さんも似たようなものだな。物理や数学の知識は豊富だけど、パソコンとかHDDレコーダーとか全然使いこなせてないぞ。大学で数学を専攻したのは実験がなくて楽そうだったからって言ってた」

「私のお父さんも、機械を扱うのは苦手みたい。でも家事はけっこうやってくれるよ」

この三人で会話し合っていたそんな時、

「やぁ笹島君、おはよう」

「おはよう秀道ひでみち

英太の幼稚園時代からの幼友達、益川秀道が登校して来た。中学入学以来今に至るまで校内テストで学年トップの成績を維持し続け、現段階ですでに東大理Ⅰに合格出来そうな学力を有する超優等生だ。背丈は一七三センチありながら体重は五〇キロに満たない痩せ型。七三分け、四角い眼鏡、顎の尖った逆三角顔。まさに絵に描いたようながり勉くんの風貌である。

「秀ちゃんおはよう。ねえねえ、秀ちゃんのお父さんは、家事は積極的にしてくれる?」

 望実に近寄られて質問されると、

「いっ、いえ、ほとんどやらないですねぇ昔から。それ、普通のことでしょう?」

秀道はかなり緊張気味に答えた。女の子が苦手なのは幼児期からで未だ治らないのだ。

「秀ちゃんのお父さんも非カジメンかぁ」

「秀道さんも、家事はほとんど手伝わないとか?」

 聡葉も彼の側に近寄って質問する。

「はいぃ。僕んちでは家事は専ら母や祖母の役割ですねえ」

「秀道さん、将来良きイクメンパパになれるよう、今からでも家事をどんどん手伝ってあげた方がいいと思うわ」

「そう言われましてもぉ……」

 秀道は照れくさがってますます俯く。

保泉ほいずみ先生の旦那さんはどうなんだろう? 聞いてみよっか?」

「そうね。わたしも気になるわ」

望実と聡葉でこんな会話を交わしている時、八時半の朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴った。それからほどなく、

「皆さん、おはようございます。立ってる子は早く席に着いてね」

 クラス担任で家庭科の保泉先生が教室に入って来た。背丈は一五〇センチくらい。ぱっちりとしたつぶらな瞳に丸っこいお顔。色白のお肌。濡れ羽色の髪の毛はサラサラとしており、リボンなどで括らずごく自然な形に下ろしている、清楚な感じの小柄和風美人だ。来月には三十路を迎える二九歳。とはいえまだ二〇歳くらいにも見られる若々しさを保っているそんな彼女は、いつも通り出欠を取り、諸連絡を伝えた。

 これをもって朝のSHRが終わると、

「あの、保泉先生の旦那さんは、家事育児は積極的に協力してくれますか?」

 望実はさっそくこんな質問をしに行ってみた。

「ええ。お料理洗濯掃除はもちろん、お買い物や、娘の梨音りおんの保育園へ送り迎えやおむつ替えも積極的に協力してくれるわ。そもそもそういう人を選んだから」

 保泉先生はゆったりとした口調で楽しそうに伝える。

「やはりこれからは、男の人も積極的に家事育児に携わるべきですよね?」

 聡葉も真顔でこんなことを問いかけてみた。

「ええ。そういうことが出来る男の人じゃないと、これからの時代、ますます結婚出来なくなると思うわ」

「英太さん、秀道さん、聞きました?」

「英太くんに秀ちゃん、保泉先生がさっき言ったこと聞こえた?」

「ああ、しっかり聞こえたけど、それは保泉先生の考え方だろ」

「僕はその手の話には全く興味なし」

 英太と秀道は迷惑そうに反応する。

「あらあら。今度の家庭科は調理実習だけど、二人とも協力しなさそうね」

 保泉先生は苦笑いし、次に授業があるクラスへ向かっていった。

「今度の調理実習、秀道さんにも調理手伝ってもらうわよ」

「そんなぁ。後片付けだけでもいいって言ってたのに急に条件変えないで下さいよぅ」

 聡葉から通告され、秀道は落胆する。同じ班になったのだ。

「英太くんも絶対調理も手伝ってあげなきゃダメだよ」

「分かった、分かった。まあ俺が手伝うまでもないだろうけど」

 英太と望実は別の班だ。

このクラスでの今日の一時限目、数学Ⅰの授業にて前回の小テストが返却された。

(よぉし、なんとか満点キープ)

 英太は自分の点数を知った瞬間、ホッと一安心。学業成績はまあまあ優秀で、先月行われた中間テストの英太のクラス総合順位は四〇人近くいる中で八番。学年三二〇人近くいるうちで五〇番台だった。この調子でさらに上を目指して頑張れば早慶にも受かりそうな感じである。そんな赤点とは無縁そうな英太なのだが……。

 二時限目は六組との合同体育。一年生の男子は今の時期はサッカーだ。

「こら笹島、益川、ぼけーっと突っ立っとらんとボール奪いにもっと積極的に動けぇ!」

 英太は秀道と共に体育の授業はいつもやる気なさそうにしているため、体育教師の等々とどりき先生からほぼ毎回注意を受けている。

二人ともスポーツが全般的に苦手なのだ。

「あいつ毎度、毎度。鬱陶しいよな」

「そうですねぇ。体育なんか出来ても大学一般入試には関係ないしぃ。僕、内申に副教科さえなければ一番手の都立高に行けてたのですが。その点筆記試験のみ当日一発勝負の東大一般入試はじつに公平かつ素晴らしいシステムですね。容姿、出身地、経歴、年齢による差別もないですしぃ。ねえ笹島君、話題は変わりますが今日の帰り、いっしょに吉祥寺のア○メイト行きましょう」

「いいけど。また行くのかよ。先週行ったばっかだろ」

「高校入ってから寄り道自由になったんだし、恩恵を授からないと勿体ないですよん」

 授業のあと、英太と秀道はこんな会話を弾ませながら教室へと戻っていった。

      ※

「ただいまー」

 英太が午後五時過ぎに帰宅すると、リビングへ向かう前にトイレへ。

扉を開けると、

「うわぁっ!」

 英太はびっくり仰天した。思わず声が漏れる。

先客がいたのだ。

「ぁん、もう、エッチ♪ わざとやったでしょ?」

 夏用制服と思われる半袖ポロシャツと水色の吊りスカートを身に着けた、女子中学生っぽい子が白のウサギさん柄ショーツを膝よりちょっと下まで脱ぎ下ろして便座に腰掛け、ちょろちょろ用を足している最中だった。

「……誰だよ、おまえ」

 見知らぬ少女の放尿姿に英太は当然のように我が目を疑う。

「はじめまして。アタシ、今日から英太という名の男の子にイクメン候補育成指導をすることになりました、私立松鴎塚しょうおうづか女子中学一年生、イクメンミライ部所属の乳井育歩にゅうい いくほです」

トイレットペーパーをカラカラ引きながらにっこり笑顔で伝えられ、

「えっ!?」

 英太は唖然。

「お兄ちゃん、笹島英太さん、だよね?」

「そっ、そうだけど……」

「あの、英太お兄ちゃん、恥ずかしいから、早く扉を閉めて欲しいな」

 育歩に上目遣いでお願いされ、

「あっ! ごめんっ」

英太はふと我に返り、慌てて扉を閉めた。

ほんのり茶色なおかっぱ頭を水玉ダブルリボンで飾り、丸顔&広めのおでこ、小学五年生くらいとしてもじゅうぶん通用するあどけない顔つきだった。

「見慣れない靴があるな」

 英太は玄関先へ確認しに行く。普段はない白くて小さな運動靴に先ほどは気付かなかったようだ。

(母さんの知り合いの娘さんか?)

 こう思っていると、

「英太、新しい妹が出来たよーっ」

「ワタシも妹が出来てくれて嬉しいよ」

 先に帰っていた潤子と乃々絵が二階から下りて来て伝えてくる。

「どういうことだよ?」

 英太が呆気に取られたような表情で問いかけた。

その直後に、ジョバーッと水の流れる音が聞こえて来て、

「英太お兄ちゃん、さっきは鍵掛けなくてごめんね」

 育歩がトイレから出て来た。背丈は一四〇センチあるかどうか、ごく普通の体型であることが分かった。

「家事を全然手伝ってくれない男の子を、イクメン候補になれるよう指導する目的の部活動をやってる学校があるって今朝のチラシに載ってて、電話で申し込んだら一時間くらい前にこの子が来てくれたの」

 母も廊下へやって来て伝えてくる。

「そっ、そうか。いや、そういう問題じゃなく……」

「これから日曜日までよろしくね、英太お兄ちゃん。英太お兄ちゃんが将来的には立派なイクメンパパとなれるよう、とりあえずカジメンになってくれるように〝泊り込みで〟指導していくから」

「泊まり込みって……」

 動揺する英太に、

「英太も、期間限定だけど妹が出来て嬉しいでしょう?」

 母はにこにこ笑顔で問いかける。

「いや、べつに」

「英太お兄ちゃん、その制服、よく見たら翠高のじゃん。英太お兄ちゃん、翠高生なの! すごい! 英太お兄ちゃんはとっても賢いんですね」

「それほどでもないよ。翠高よりもっと難しい高校も、都内でもけっこうあるし」

 英太は謙遜する。照れくさいのか、育歩と目を合わせられなかった。

「英太はお勉強は出来る賢い子なんだけどね、家事が全然ダメで。そこをなんとかして欲しいわ」

母は微笑みながらそう伝える。

「はいっ! お任せ下さいお母様! これから四日間で息子さんを立派なイクメン候補へ責任を持って育てますので」

育歩が自信たっぷりに宣言したその直後、

「英太くんに育歩ちゃんという新しい妹が出来たと聞いて、飛んで来ました」

 望実が笹島宅を訪れて来た。

「こちらのお姉さんが望実ちゃんっていう英太お兄ちゃんの将来のお嫁さん候補ですね」

 育歩に初対面でこう突っ込まれ、

「いやぁ、その話はまだまだ早いよ。この子が育歩ちゃんかぁ。見るからに家事の出来そうなしっかり者の妹さんっぽくって憧れます。あの、育歩ちゃん、私の妹にもなってくれませんか?」

 望実はけっこう照れてしまう。

「もちろんOKです。望実お姉ちゃんのおかげでますます英太お兄ちゃんへの指導に気合が入って来たわっ!」

 育歩はウィンクして快く応じ、両拳をぎゅっと握りしめた。

「俺、まだ状況が上手く飲み込めてないんだけど……」

 廊下で呆然と立ち尽くす英太、

「ではさっそく、洗濯物を取り込んで畳む作業から始めましょう」

「えー、ちょっと待て」

 育歩に容赦なく肩をむんずとつかまれる。

「英太くん、頑張って家事上手な男の子になってね。ではまた」

 望実はそう言い残し、自分のおウチへ帰っていった。

「なんで俺がこんなことを……」

「これから日曜日まで、家事の全てを英太お兄ちゃんに任せるからね。よいしょっ!」

「そりゃないだろ。なっ、なあ母さん、この子に何か言ってやって」

 英太は育歩に背後から抱きかかえられ、リビングの裏庭に通じる窓の方へ連れて行かれる。一七〇センチほどある英太は体を揺さぶって抵抗するも、敵わなかった。

「英太、育歩ちゃんの言うことしっかり聞くのよ」

「エイタ、家事頑張ってね」

「英太頑張れー。育歩ちゃんちっちゃくて細いのにすごい力ね」

「おいおい」

「そりゃアタシ、幼い頃から家事手伝ってて、部活でもぎっちり詰め込んだ買い物袋を両手で持ったり米袋担いで走ったりして筋トレに励んでるからね。並みの同い年の男の子以上の力は付いてるよ。柔道経験もあるし。さあ英太お兄ちゃん、さっさとやりなさい」

「分かったから下ろせって」

 こりゃ逆らえないな、と不覚にも恐怖心を感じてしまった英太は大人しく裏庭に出て、

「雨降ってるし。傘いらないくらいだけど」

「英太お兄ちゃん、急いで」

干されていた洗濯物を取り込む。いつもは母か姉二人が担当している作業だ。

「英太、みんなの分の洗濯物を分けて畳んでね」

 母からこう要求される。

「分かった、分かった。これが俺のだな」

 英太はソファに腰掛け、面倒くさそうに作業をし始める。

「英太お兄ちゃん、雑過ぎ。もっときれいに畳まなきゃ」

「適当でいいだろ。どうせまた着るんだから」

「しわになっちゃうでしょ」

 育歩はふくれっ面で反論。

「気にするほどのことでもないだろ。これは、乃々絵姉ちゃんの下着か」

 水玉模様柄のかわいらしいショーツが出て来て、英太は思わず手を引っ込める。

「乃々絵姉ちゃん、潤子姉ちゃん、下着を俺に畳まれてもいいのか?」

「もっちろん♪」

 潤子は元気よく答える。

「ワタシも、エイタのトランクス普通に畳んでるし、気にならないよ」

 乃々絵も快く承諾した。

「そうなのか。うわっ、乃々絵姉ちゃんの服のボタンが取れた」

「お気に入りの服なのに。エイタ、丁寧に扱ってね」

 乃々絵はむーっとふくれる。

「俺ボタンには触ってないし、ボタンが寿命が来たんだろ。母さん、ボタン付けてあげて」

「分かったわ。母さんに任せて」

「お母様、それも英太お兄ちゃんにやらせるべきでしょう」

 育歩が意見すると、

「そうねえ、英太にやらせましょう」

 母はすぐに賛成してしまった。

「俺、ボタン付けなんてやったことないし」

「英太お兄ちゃん、小中学校の時、家庭科でやらなかった?」

「授業ではあったけど……とにかく付けりゃいいんだろ」

「英太、これどうぞ」

母はリビングのタンスから裁縫セットを取り出し、ローテーブル上に置く。

「まず針に糸を通せばいいんだよな」

 英太がこう呟いたその直後、

「こんばんはー、イクメン候補育成指導のお嬢さんに会いたくて来ちゃいました」

 聡葉も笹島宅を訪れて来た。リビングへお邪魔させてもらう。

「はじめまして育歩さん、わたし、望実さんのお友達の村越聡葉です」

「聡葉お姉ちゃん、こちらこそよろしくね」

「はい、よろしくです。英太さん、頑張ってますね」

「あの、村越さん、悪いけどボタン付け、代わりにやってくれないか?」

「英太お兄ちゃん、人に頼っちゃダメッ!」

「育歩さんのおっしゃる通りですね。ここは英太さん一人で頑張らなきゃダメです」

「そんなっ、授業でやった時は黙ってても快くやってくれたのに」

「英太お兄ちゃん、このお姉さんにやってもらってたんだ」

 育歩はくすっと微笑む。

「そうだ。小中共にな」

 英太はきっぱりと認める。

「英太さん、将来イクメンパパとして活躍出来るよう、高校生の今のうちから家事の出来る男になって下さいね。カジメンはイクメンの始まりですから」

 聡葉はそう言い残して、笹島宅をあとにした。

「やっぱ難しい。あいてっ! 針が指に刺さった」

 英太は引き続きボタン付けに苦戦。

「頑張ってエイタ」

「英太、頑張れーっ!」

 乃々絵と潤子はすぐ側で応援してくれる。

 数分後、

「なんとか出来たぞ乃々絵姉ちゃん。またすぐに外れそうな感じだけどな」

 英太がボタンを付けた服を手渡すと、

「これでじゅうぶん。ありがとうエイタ」

 乃々絵は嬉しそうににっこり微笑んでくれた。

(喜んでくれたみたいだな)

 英太は達成感を得られたようだ。

 それからさらに五分ほどが経ち、

「やっと片付いたぁ」

 家族みんなの分の洗濯物を畳み終えると、

「さて、次は夕飯作りよ」

 一息つく間もなく育歩からうなじをガシッと捕まれこう命令される。

「その前にトイレ行かせて」

「そういえば、さっき行きたがってたね。先に済ませといで」

 育歩に手を放してもらえ、英太はトイレへ駆ける。

(母さん、変な子を勝手に連れてくるなよ)

 不満に思いながら用を足している最中、

「英太お兄ちゃん、おウチでも立ちションなんだ」

「うわぁっ!」

 育歩に扉を開けられ、勝手に入り込まれてしまった。

「妹やお姉ちゃんのいる男の子は、周りに飛び散らないようにおしっこする時も座ってやるように言われる家庭は多いみたいだけど、英太お兄ちゃんはそう言われなかったみたいだね」

「その通りだけど、覗くなよ」

「さっきの仕返し。覗かれたら覗き返す、倍返しよ」

「そのネタ古い。あの、気が散るから早く出て行って」

 英太が困惑顔で注意すると、

「はーい」

 育歩は大人しく出て行ってくれきちんと扉も閉めてくれた。

「鍵掛けとけば良かった」

 水を流し、英太は決まり悪そうにトイレから出る。

 隣の洗面所で手洗いを済ませ、キッチンへ。

 食材がテーブル上にいろいろ並べられていた。

「お母様が英太お兄ちゃんに今晩作って欲しいメニューは栗ご飯とサンマのひらき、野菜炒めだって。英太お兄ちゃん、まずは栗の皮を剥いてみてね」

「分かった、分かった」

 英太は包丁を右手に取り、左手に栗を持った。

「かったいな。いってぇっ!」

 尖った部分を切り取ろうとして、手が滑ってしまう。指先から血が少し流れた。

「エイタ、こんなこともあろうかと用意しておいたよ」

 すぐに乃々絵が駆け寄って来て、かわいい動物さん柄の絆創膏を貼ってくれた。

「もう嫌になった」

 英太は不満を呟く。

「英太お兄ちゃん、頑張れ!」

 育歩はそんな彼を励ますように笑顔でエールを送ってあげた。

「包丁なんて今まで使ったことないし、潤子姉ちゃんと乃々絵姉ちゃん、母さん、手伝ってくれ」

「今回は無理」

「育歩ちゃんから手出ししちゃダメって言われてるの」

「英太、今日は一人で頑張ってみなさい」

 乃々絵と潤子と母はにっこり笑顔で言う。

「そんなっ。栗の皮、どうすれば簡単に剥けるか、母さんなら裏技知ってるだろ」

「知ってるけど、自分で発見することも大事よ」

「ケチだな母さん。こうなったら」

 困った英太は自分の携帯から望実の携帯に連絡して訊いてみた。

『栗の皮の剥き方?』

「ああ。俺今、夕飯作りさせられてて、教えて欲しいんだ」

『大変だね英太くん、栗の皮は茹でてから剥けば簡単に剥けるよ』

「そっか。ありがとう望実ちゃん」

『どういたしまして』

「それじゃ」

 電話を切った後英太はお鍋に水と栗を入れ火をつけ、沸かし始める。

沸くまでの間に無洗米を計量カップで六合量って炊飯器の内釜に移し、水をお米が浸るくらいまでと昆布を入れて炊飯器にセット。さらに醤油、みりん、料理酒、塩を入れた。

「英太お兄ちゃん、作り方知ってるのね」

「まあ、栗ご飯の作り方は中学の頃、家庭科のテストで出たことがあるから」

「そういうわけかぁ。今も覚えてるなんてすごいね。でも、分量適当過ぎない?」

「それは特に気にする必要ないと思う」

「大いにあると思うけど。あっ、英太お兄ちゃん、栗さん、茹で上がってるよ」

「もうか」

 英太は栗を鍋から取り出すと硬い皮を雑に剥いていき、炊飯器に放り込んでいく。

 蓋を閉めて炊飯スイッチを押すと、英太は続いて魚焼きグリルにサンマを並べ、点火。

「英太お兄ちゃん、焼き上がるの待ってる間にお風呂も沸かしてね」

「分かった、分かった。ああ、面倒くさい」

 英太は浴室へ向かい、そのまま浴槽に栓をして蛇口を捻ろうとしたら、

「待って。お水入れる前に、まず浴槽を洗ってからね」

 育歩に腕をつかまれ阻止された。

「べつにそのまま入れてもいいと思うんだけど」

「昨日の汚れがついてるからダメだよ」

「はい、はい」

 英太はしぶしぶ栓を外して浴槽に洗剤をかけてブラシで擦り、シャワーで洗い流してから再び栓をしお水を入れ始めた。程よい所まで水が浸るのを待っている最中、

「英太お兄ちゃん、サンマさんが焦げかけてるよーっ」

「えっ、もう?」

 育歩から伝えられ、英太は慌ててキッチンへ向かっていく。 

「英太、お料理頑張って。あたしレポート課題済ませてくるから」

「ワタシも宿題してこよっと。エイタ、怪我と火の元に気をつけてね」

 廊下にいた潤子と乃々絵はそう伝えて自室へ。

「危ねえ、もう数十秒放って置いたら真っ黒焦げになってたな。っていうか姉ちゃん達火止めてくれてもよかったのに」

「英太お兄ちゃん、お母様とお姉さんの大変さがよく分かったでしょ?」

「まあな」

「さあ、次はお野菜を切っていこう!」

「分かった、分かった。あっ、その前に風呂」

 英太は再び浴室へ向かい、

「ちょっと入り過ぎたか」

蛇口を止めて給湯器の操作ボタンを押し、キッチンへ。

「英太ぁー、作り終わったらガスの元栓締めるの忘れないようにねー」

「分かったよ母さん」

その後も英太は育歩の監視のもと、不器用ながらも夕食作りをこなしていった。

同じ頃、鈴本宅では、望実も母の夕食作りを手伝っていた。

「望実、このお魚捌いて切り身にしてくれる?」 

「お母さん、このお魚さんは怖くて触れないよ。なんで頭ついたままのを買うの?」

「望実、将来は英太ちゃんのお嫁さんになるんだから、これくらいのことはそろそろ出来るようにならなきゃ」

「お母さん、その話はまだ早いよ。それに、お魚さんの下処理は心配しなくても英太くんがやってくれるようになるって」

 望実は照れ笑いして、母の肩をペチぺチ叩く。

「あらあら」

 母はにこにこ微笑んだ。

    ※

 笹島宅キッチン。英太は母の要求通り、野菜炒め、サンマのひらき、栗ご飯の三品を家族五人分プラス育歩の分も何とか作り終え、テーブルに並べ終えた頃には午後七時過ぎ。

「ただいまー、英太にイクメン候補育成指導をする斬新な女の子が来てるんだってね」

 それからほどなく父帰宅。

「はじめましてお父様。アタシ、今日から泊り込みで息子さん、英太お兄ちゃんのイクメン候補育成指導をすることになりました、乳井育歩です」

「どうも、どうも。英太のことよろしくね」

 父はぺこりとお辞儀する。

「父さん、いいのか? 母さんが勝手にこんなことして」

「べつにいいんじゃないかな? 無料ということだし」

 父はハハッと笑う。

「お父様から認めてもらえて嬉しいな」

 育歩は満面の笑みを浮かべた。

「今日の夕飯、全体的にやけにいびつな形だな」

「全部俺が作ったというか作らされたんだ」

 英太は苦笑いで伝えた。

「ああ、それでか。まあおれが作ったら確実にこれより遥かに悪い出来になるな」

「お父様も、家事をしたことはないみたいですね」

「そうなんだ育歩ちゃん。母さんや娘が全部やってくれるし」

「お父様、それではいけませんよ」

 育歩はやや険しい表情で注意する。

「ハハハッ。今さらそう言われてもな」

 父は決まり悪そうに笑い、洗面所へ逃げていった。

 七時一五分頃から、笹島家の夕食の団欒が始まる。

「英太の手料理もなかなか美味しいね」

「ありがとう潤子姉ちゃん」

「でも栗の皮が完璧に取れてないのも多いわねー。野菜も大き過ぎだし中までしっかり熱が通ってないし」

「母さん、そこはスルーしといてくれ」

「エイタ、初めて作ったわりには、よく出来てると思うよ」

「母さんや潤子や乃々絵が作った時と変わらないくらい美味いぞ英太」

「英太お兄ちゃん、味はそれほど悪くないから、あとは包丁の使い方をマスターしていこうね」

 母以外は高評価してくれたようだ。

「ごちそうさま」

「乃々絵お姉ちゃん、もういいの? まだ半分以上残ってるけど」

「うん、ダイエット中だから。エイタの手料理が不味かったわけじゃないよ」

 乃々絵はそう伝えて席を立ち、リビングへ。

「乃々絵お姉ちゃんは、そんなに太ってないと思うよ」

 育歩はそう言うも、

「いや、太ってるわ」

 乃々絵はこう主張してトイレへ逃げて行った。

みんな夕食を食べ終えた後、

「さてと、お父様と英太お兄ちゃんで食器洗いを手伝ってもらいましょう」

育歩がそう告げると、

「おれが食器洗いをすると絶対お皿が割れちゃうからな」

 リビングでソファにゆったり腰掛け阪神・巨人戦のプロ野球試合を眺めていた父は、すばやく立ち上がってこう言い訳して書斎へ逃げていった。

「パパ情けない」

 潤子は父の後ろ姿を見送りながら微笑み顔で呟く。

「お父様逃げちゃったか。そういうわけで英太お兄ちゃん、一人でお願いね」

「はいはい」

「助かるわ」

 その作業を普段担当している母はリビングでソファに腰掛け、のんびりとバラエティ番組を視聴。

「英太お兄ちゃん、もっとしっかり擦らなきゃ汚れ落ちないよ!」

「あー、もううるさい」

英太は育歩にすぐ側で監視されながら食器洗いをこなしていく。

そんな中、

「お風呂入ってくるね」

「育歩ちゃんもいっしょに入ろう!」

 乃々絵と潤子はそう伝えて脱衣室兼洗面所へ向かっていく。

 この二人はいつもいっしょに入っているのだ。

「それじゃ、そうさせてもらうね」

「育歩ちゃんのパジャマも用意してあるわよ」

 母が手渡してくる。

「おウチから持って来てたけど、お母様が用意して下さってるのなら、そちらを使わせてもらいますね」

 育歩は半袖紫系花柄の受け取ったのち、リビングに置きっぱなしのマイバックから下着などを取り出し、いっしょに洗面所兼脱衣室へ向かっていった。

「潤子お姉ちゃんのおっぱい、すごく柔らかいね」

「もう育歩ちゃん、くすぐったいな」

「ごめんなさーい」 

「ワタシも大学生になる頃には、ジュンコお姉さんくらいの大きさになってて欲しいな」

「乃々絵お姉ちゃんは今も高校生のわりには大きめだから、きっとなれるよ。アタシ、ハイビスカスのシャンプー持って来てたの。使ってみる?」

「うん!」

「イクホちゃん、使わせてもらうね」

「育歩ちゃん、体つきからして初めての女の子の日はまだ迎えてないみたいね」

「はい。アタシ三月生まれだし発育遅いので。同じクラスの子、半分以上はもう来てるみたいだけど」

「育歩ちゃん、発育の速度には個人差があるから、気にしなくてもいいのよ。あたしは中学一年の冬休みだったし」

「ワタシは中学二年生になってからだったよ。高校入ってから迎える子だっているよ」

「アタシ、早く来て欲しいなと思ってるけど、来て欲しくないなとも思ってて、複雑な心境なの」

 この三人がすっぽんぽんになって浴室へ入った頃に、

(食器洗いって、想像以上に重労働だな)

 英太は食器洗いを終えた。彼はそのあとは自室へ。

 机に向かい、古文の予習に取り組み始めてから二〇分くらいが経った頃、

「英太お兄ちゃんのお部屋、拝見させてね」

 お風呂上りの育歩がノックもせずに勝手に入り込んで来た。

「まあいいけど、普通過ぎると思うよ」

英太の自室は約八帖のフローリング。出入口扉側から見て左の一番奥、窓際に設置されてある学習机の上は教科書・参考書類やノート、筆記用具、プリント類、CDラジカセ、携帯型ゲーム機やそれ対応のソフトなどが乱雑に散りばめられてはおらず、きちんと整理されている。彼の几帳面さが窺えた。

机備え付けの本立てには今学校で使用している教科書類の他、地球儀や、動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物などの図鑑といった、英太の幼少期に母が買い与えてくれた物も並べられてあった。机の一メートルほど手前には、幅七〇センチ奥行き三〇センチ高さ一.五メートルほどのサイズの本棚が配置されている。そこには三大週刊少年誌連載のコミックスが合わせて百冊くらい並べられていた。

「男の子のお部屋のわりに、けっこうきれいに片付いてるね」

「俺が学校行ってる間に母さんが掃除してくれるからな」

「英太お兄ちゃん、自分の部屋の掃除は自分でやらなきゃダメよ」

「べつにいいじゃないか」

「英太お兄ちゃんはエッチな本は持ってないのかな?」

 育歩は勝手に机の引出やベッド下を調べてくる。

「持ってるわけないだろ」

「それじゃ、携帯やパソコンにエッチな画像をデータ化してるのかな?」

 今度は英太の携帯を手に取って確認してくる。

「それもないって」

 英太は呆れ気味にサッと取り返した。

「英太お兄ちゃん、ごめんね」

 育歩はにこっと笑う。

「あの、もうこれ以上俺の部屋物色するのはやめてくれないか」

「あっ、テストが出て来た。数学Ⅰ九三点に古文八七。やっぱり賢いね」

「あの、育歩ちゃん、聞いてる? プライバシーの侵害だから」

「家庭科のテストも出て来た。中三三学期末、すごい! 満点だ。調理実習とか被服の知識あるみたいなのにやけに苦戦してたね」

「筆記試験と実践は別物だろ」

「通知表も出て来た。中学の頃のだね。五教科はオール5だけど、副教科が平凡なオール3だ」

「実技系は全般的に苦手なんだ。筆記試験は得意だけど」

「そっか。英太お兄ちゃんらしいね。英太お兄ちゃんはプラモとか作らないの? 男の子はそういうの好きな子多いでしょ」

「特に興味持たなかったな。俺、創作は苦手だから」

「あららら」

 英太と育歩、こんなやり取りをしていると、

「おーい、英太くーん、育歩ちゃん」

 窓の外から望実の声が。

望実のお部屋と、英太のお部屋はほぼ同じ位置で向かい合っているのだ。

「あっ、望実ちゃん」

「やっほー望実お姉ちゃん、お部屋そこだったんですね」

「うん。十年以上前からそうなってるよ」

「望実ちゃん、育歩ちゃんが俺の部屋勝手に荒らしてくるんだけど、何か言ってやってくれないか?」

「英太くん、妹っていうのはお兄ちゃんのこといろいろ知りたいものなんだよ。私もお兄ちゃんがいたら、お部屋を勝手に詳しく調べると思うなぁ」

「俺、育歩ちゃんのお兄ちゃんじゃないし」

「望実お姉ちゃん、いいこと言うね」

「育歩ちゃん、英太くんはエッチな本は絶対持ってないから安心してね。ではまた」

 望実はそう伝えて窓を閉めた。

「ねえ英太お兄ちゃん、望実お姉ちゃんは本当に英太お兄ちゃんの彼女じゃないの?」

 育歩はにこにこ笑顔で問いかけてくる。

「ああ。ただの幼馴染のお友達なんだ」  

 英太はこの質問に慣れているかのように即答した。

「そっか。の○太くんとし○かちゃんみたいな関係ってわけか。ひょっとして、毎朝起こしに来てくれるとか?」

「それはないな。アニメやゲームの世界じゃあるまいし」

「ありゃりゃ。それは期待外れだよ。キスはもうしたの?」

「するわけないって」

「俯きながら答えてるとこが怪しいな。絶対してるでしょ。正直に答えて」

「してない、してない」

「これはしてるなぁ。お顔に書いてあるよ」

 育歩はにやっと笑う。

「だからしてないって。それより育歩ちゃん、さっきからパンツがまる見えに」

 英太は俯き加減のまま気まずそうに伝えた。

「もう、英太お兄ちゃんったら。エッチ♪」

 胡坐をかくような姿勢で英太のベッドに座っていた育歩は、冷静に正座姿勢へ変えて照れ笑いする。

「俺は見る気はなかったって」

白のパンダさん柄ショーツをついつい五秒以上は凝視してしまった英太がこう言い訳したその矢先、

「あっ、この音は顧問の先生からの電話だ」

 育歩の携帯の着信音が鳴り響く。育歩は手に取るとすぐに通話ボタンを押した。

『乳井さん、家事出来ない男の子へのイクメン候補育成指導、ちゃんとやれてる?』

「はい、真面目で優しくてすごく指導しやすいお兄ちゃんだったよ。嫌々ながらも一生懸命やってくれてるし、このお兄ちゃんは絶対カジメン・イクメン力伸びるよ。それに本当のお兄ちゃんみたいなの」

『それはよかったわね。何か困った事はない?』

「今のところないです。それでは先生、また明日」

 育歩は嬉しそうに伝えて電話を切る。

「英太お兄ちゃん、ひょっとして照れてる?」

「いや、全然」

「そうには思えないなぁ」

 微笑みながらそう突っ込んで英太のほっぺたをぷにぷに押す。

「照れてないから」

 英太はすぐに育歩の手首を掴んで引き離した。

 そんな時、

「エイタ、お母さんもお風呂上がったから早く入っちゃって」

 乃々絵が廊下から叫んで知らせてくる。

「分かった。育歩ちゃん、俺のお部屋荒らさないようにね」

「はーい」

   ※

(育歩ちゃん、中一のわりには幼くてなかなか無邪気で可愛らしい女の子だな。俺に本当に妹が出来たみたい。部屋荒らされて苛立ったけど、なんか怒るに怒れないよ)

英太がこう思いながら湯船に浸かってゆったりくつろいでいたところ、

「やっほー、英太お兄ちゃん」

育歩がすっぽんぽん姿で入り込んで来た。

「うわぉあっ!」

英太はびっくり仰天する。

「お邪魔するね」

 育歩はさっそく湯船に飛び込んで来て、英太と向かい合った。

「……二度風呂しに来たのか」

 英太は当然のように迷惑がる。

「あれからまた英太お兄ちゃんのお部屋漁って埃被っちゃったからね」

 育歩はにっこり微笑んだ。

「おいおい。育歩ちゃんもう中学生なんだし、いくら小学生みたいな体でも俺といっしょに入るのはまずいだろ」

まだつるぺたな幼児体型の育歩、英太は当然、欲情するはずも無い。

「アタシ今もパパと入ってるから全然まずくないよ」

「乃々絵姉ちゃんは小四、潤子姉ちゃんは小五の時には父さんといっしょに入るの卒業してたぞ」

「英太お兄ちゃんのお姉ちゃんは英太お兄ちゃんのお姉ちゃん。アタシはアタシだもん」

「育歩ちゃんの同い年の女の子で、父さんといっしょに風呂入ってる子なんてもういないと思うよ」

「いるよ。お友達にもまだ入ってるって言ってた子がいるもん」

 育歩はにっこり笑いながら主張する。

(秀道は、女の子は一般的に十歳を境に男に裸を見せるのが恥ずかしくなって嫌悪感を示すようになるって言ってたけど、育歩ちゃんはまだまだそうならなそうだな)

英太が複雑な心境に陥っていると、

「おーい、英太くーん。育歩ちゃーん」

 窓の外からこんな声が。

 望実だった。

「あっ、望実ちゃんも今入ってたんだ」

 英太は湯船に浸かったまま呟いた。

「やっほーっ、望実お姉ちゃん♪」

 育歩はバスタブ縁に上って窓から顔を出し、望実に向かって嬉しそうに叫ぶ。

「やっほー」

 望実は嬉しそうに振り返してあげた。

笹島宅の浴室と、鈴本宅の浴室は低い塀越しに向かい合っていて、双方の窓が開いていれば互いの浴室をなんとか覗けるようにもなっているのだ。

「そういえば今日の数学で、方程式習ったよ」

「そっか。俺も中一で習ったよ。育歩ちゃんの学校は一学期で習うのか。さすが私立。進度速いな」

「計算が面倒でめちゃくちゃ難しいよ」

「そうかな? 俺は苦労した覚えないけど」

「いいなあ英太お兄ちゃん。さすが中学の数学満点ばっかり取ってただけはあるね」

「育歩ちゃん、俺のテスト勝手に見ないでね」

「ごめんなさーい」

 英太が育歩とそんな会話をしていたら、

「やっほー、育歩ちゃんに英太」

 潤子が入って来た。薄手のバスタオルを肩から膝上にかけて巻いた状態で。

「潤子お姉ちゃんだぁ!」

 育歩は大喜び。

「潤子姉ちゃんまで入ってくるなよ。俺、もう上がるね」

 英太は何とも居心地悪く感じたようだ。

「じゃあアタシも上がるぅ」

「あたしは少し浸かってから上がるよ」

 潤子は英太に続いて浴室から出て、洗面所兼脱衣室へ。

「しっかり拭かないと風邪引くよ」

「ありがとう英太お兄ちゃん」

 全身まだ少し濡れたままタヌキさん柄ショーツを穿こうとした育歩の髪の毛や体を、英太はバスタオルでしっかり拭いてあげる。育歩の裸をもう少し観察したいという嫌らしい気持ちはさらさらない。

「その子どもっぽいパジャマももう卒業したら?」

「まだ着たいよ」

「キャラ物の服って、大人になってもけっこう着たくなるものよ」

「潤子姉ちゃん、まだ上がって来るなよ」

 ちょうどトランクスを穿いている最中の英太はとっさに潤子から目を背ける。

「潤子お姉ちゃん、カラスの行水だね」

 育歩はお気に入りの暗闇で光るフォトプリントパジャマを着て、リビングへ。母といっしょにソファに腰掛けバラエティ番組を視聴する。

「母さん、俺が入ってる時に育歩ちゃんと潤子姉ちゃん入らせるの引き留めて欲しかったな」

「べつにいいじゃない。育歩ちゃんは子どもだし、潤子はタオル巻いてたでしょ」

「確かにそうだけどさぁ」  

 英太がキッチンテーブル横で呆れた気分で冷蔵庫から取り出した麦茶を飲んでいると、

「英太、ちゃんと大人扱いしてあげたでしょ」

 潤子が下着姿で彼の目の前に姿を現した。

「……」

 英太は呆れて何も返答せず。

「育歩ちゃん、お泊りするお部屋、狭くて悪いけど乃々絵のお部屋でいいかな?」

 母がこう問いかけると、

「はいっ! もちろんです。べつに廊下でも構わないですよ」 

育歩は快く承諾した。

「そういうわけにはいかないわ」

母がそう言った直後、

「おい母さん、洗面所にナメクジが出たから、取ってくれないか?」

 最後に風呂に入ろうとした父からこんな伝言が。

「はいはーい」

 母はすっくと立ち上がり、快くビニール袋とティッシュペーパーを用意する。

「このご家庭では、ナメクジを退治するのはお母様の役目なんですか?」

「ああ、昔からな」

 英太が答える。

「それは男の子がやるべきですよ」

 育歩は強く主張。

「それじゃ、今回は英太に任せようかしら?」

「えー。それはちょっと……」

「英太お兄ちゃん、よろしくね」

「英太、頑張れ」

 父は爽やかな笑顔で応援する。

「頑張らなきゃいけないのは第一発見者の父さんの方だと思うけど。しょうがない」

 英太は億劫そうにティッシュペーパーを十組二十枚ほど重ねて掴み、もう片方の手にビニール袋を持ち洗面所へ。

(でかいな)

壁を這っていた体長五センチほどのナメクジをおっかなびっくり掴み、ティッシュの中へ潜り込ませた。そしてそれをすばやくビニール袋へ入れ、固く縛る。

 これにて作業完了。

「英太、よく出来たね。次からナメクジ退治はずっと英太に頼もうかしら」

 母はにやりと微笑む。

「勘弁して。二度とやりたくねえ。寿命が縮む」

 英太は心拍数がけっこう上がっていた。

「ナメクジは確かに気味悪いよね。あたしもめっちゃ苦手だ」

 潤子は同情してくれる。

「アタシもナメクジさん見るのはいいけど退治するのは無理。それじゃ、乃々絵お姉ちゃんのお部屋おじゃまさせてもらうね」

育歩はわくわく気分で乃々絵のお部屋へ。

「すごーい! お店みたい」

 一目見てこんな第一印象。本棚には合わせて四百冊は越える少年・青年コミックスやラノベ、アニメ・マンガ・声優系雑誌まで並べられてあったのだ。DVD/ブルーレイレコーダーと二〇インチ薄型テレビ、ノートパソコンも。

本棚の上と、本棚のすぐ横扉寄りにある衣装ケースの上にはアニメキャラのガチャポンやフィギュア、ぬいぐるみが合わせて二十数体飾られてあり、さらに壁にも人気声優やアニメのポスターが何枚か貼られてある。美少女萌え系のみならず、男性キャラがメインのアニメでもお気に入りなのが多いのは女の子らしいところだ。

「イクホちゃん、引いちゃったかな?」

 ちょうどベッドに寝転がってラノベを読んでいた乃々絵は、アハッと笑って尋ねる。初対面の人にこの部屋を見られるのは恥ずかしく感じているようだ。

「いえいえ、むしろすごく好感が持てたよ。アタシのお部屋も乃々絵お姉ちゃんほどじゃないけどオタクっぽいし。アタシもお友達に影響されて、こういう系のアニメやマンガやラノベが大好きなの。小学五年生の頃から」

 育歩はにっこり笑ってきっぱりと伝える。

「そうなの! めっちゃ嬉しい♪」

 乃々絵は仲間意識が強く芽生えたようだ。

「アタシも嬉しいです。おかげで成績下がっちゃって、志望校のランク落とさざるを得なくなっちゃって、今の中学に通うことになっちゃったのは反省点だけど」 

「ワタシも高校入試の時そうなっちゃったから共感出来るよ。ノゾミちゃんのお部屋は、ごく普通の女の子っぽいよ」

「望実お姉ちゃんのお部屋、見てみたいな。頼んでみよう。おーい、望実お姉ちゃーん」

 育歩はこのお部屋の窓から斜め向かいに大声で叫ぶ。

「なーに? 育歩ちゃん」

 望実はすぐに気付いて窓から顔を出してくれた。

「今から望実お姉ちゃんのお部屋、お邪魔しに行っていい?」

「はい、もちろん喜んで。おいで」

 快く承諾してくれ、

「ありがとう。どんなお部屋か楽しみ♪ こっから屋根伝って行こうかな」

「育歩ちゃん、危ないから絶対ダメだよ。玄関から入ってね」

「冗談、冗談。飛び越えれそうなほどは近くないしね。それじゃ、すぐ行くね」

育歩はわくわく気分で鈴本宅へ移動し、望実のお部屋へおじゃまさせてもらった。

「おう! まさに女の子のお部屋って感じ♪」

「そうかなぁ?」

約七帖のフローリング。ピンク色カーテンで水色のカーペット敷き。本棚には少女マンガや絵本や児童書、一般文芸、楽譜が合わせて三百冊くらい並べられてある。ガラスケースや収納ボックスにはトライアングルやタンバリン、小型ピアノ、ヴァイオリン、フルート、オカリナなどなど楽器がたくさん置かれていて、学習机の周りにはオルゴールやビーズアクセサリー、可愛らしいお人形やぬいぐるみなどがたくさん飾られてあり、女子高生のお部屋にしては幼い雰囲気だ。

「望実お姉ちゃん、楽器が得意みたいね」

「うん、まあ、お父さんが中学の音楽の先生だから、ちっちゃい頃からいろんな楽器触らせてもらってるし」

「そうなんだ! アタシ、望実お姉ちゃんの演奏聞きたいなぁ」

 育歩からこうお願いされると、

「じゃあ、フルートを吹くね」

 望実は快くそれを手にとって、メリーさんのひつじを演奏してあげた。

「めちゃくちゃ上手よ」

 育歩にうっとりした表情で拍手交じりに褒められ、

「いやぁ、そんなことないよ」

 望実は照れ笑いする。

「今度はピアノ弾いてー」

「分かった」

次のお願いにも快く応え、嬉しそうに小型ピアノで瀧廉太郎作曲『花』を弾いてあげた。

「とっても上手。次はヴァイオリン弾いてっ!」

「私、ヴァイオリンは上手くないよ」

「望実ちゃん、謙遜し過ぎ」

「じゃあ、きらきら星を弾いてみるね」

 望実は躊躇うようにヴァイオリンをかまえ、弦を引いて演奏し始めた。

 最初の一節を演奏してみて、

「どうかな?」

 望実は苦笑いで問う。

「……上手でしたよ」

 育歩は三秒ほど考えてからにっこり笑顔で答えた。

「正直に言ってくれていいよ。私ヴァイオリンはすごく下手なんだ。下手の横好きなの」

 望実はそう伝えながらヴァイオリンを元の場所に片付ける。

「気にしちゃダメ。アタシもヴァイオリン全然弾けないから」

 育歩が慰めるようにそう打ち明けた直後、 

「ノゾミちゃんは、これが理由で中学の時、吹奏楽部には入らなかったんだって。高校でも入るつもりはないみたい。他の楽器は上手いのに勿体無いよね」

「ヴァイオリンもあたしよりは上手よ」

 乃々絵と潤子が乃々絵の自室から叫んで伝えた。あの演奏がしっかり聞こえていたようだ。

「私、練習厳しいのは嫌だから。見学はしてみたけど、翠高の顧問の音楽の先生もすごく怖かったし、芸術選択で音楽選ばなくて正解だったよ。楽器演奏は趣味だけに留めとくのが私には合ってるよ」

「ノゾミちゃんらしいな」

 乃々絵はにっこり微笑む。

「私、気の弱い子だから……きゃっ、きゃあっ!」

 望実は照れ笑いした。その直後に悲鳴を上げる。

「どうしたの? 望実お姉ちゃん」

 育歩が問いかけると、

「あそこ、ゴキブリィッ!」

 望実はとっさに育歩に抱きついた。

「望実お姉ちゃん、落ち着いて」

 育歩はにっこり笑って望実の頭をなでる。

「望実ちゃん、あたしが今すぐ退治しに行ってあげるよ」

 潤子は嬉しそうに伝えた。

「待って潤子お姉ちゃん、ここは英太お兄ちゃんに任せましょう!」

「それはいい案かも」

「そうね。エイタにやってもらいましょう」

 潤子と乃々絵は快く賛同した。

「今ここにいる育歩ちゃんに今すぐ退治してもらいたいんだけど……英太くーん、ゴキブリさんが出たのーっ! 大至急私のお部屋まで来て退治して」

 望実はベランダに出て、向かいの英太に向かって助けを求めた。

「また出たのか」

 英太はやや困惑。彼もゴキブリはやや苦手なのだ。

「英太、これ、殺虫剤よ」

 潤子が英太のお部屋へ移動して来て手渡してくる。

「用意早いな」

 英太は受け取ると、すぐに自分のお部屋から出て行った。

     □

「ゴキブリくらいでそんなに騒がなくても。どこにいるの?」

 それから一分ほどで望実のお部屋へ到着。

「あそこ、あそこ、窓のすぐ横」

 望実は蒼ざめた顔で指を指して伝える。

「あれか」

 英太は狙いを定め、凍らせるタイプの殺虫剤をブシャーッと噴射した。

「逃げられたか。すばやっ!」

 しかし外してしまった。

「きゃぁっ! 近寄って来た」

 望実は飛び上がってベッドの上へ避難。

 ゴキブリは床をちょこまか這いずり回る。

「動きがますます速くなったような……今度こそ」

 英太は恐る恐るもう一吹き。

 今度は見事捉えることが出来た。

「死んだようだな」 

 英太は凍り付いたがまだ辛うじて生きてはいるであろうゴキブリを、何重にも束ねたティッシュペーパーで掴んでビニール袋に詰め、かたく縛って退治完了。

「英太くんありがとう、さすが男の子だね」

「……どういたしまして」

望実にぎゅっと強く抱きつかれ、英太はちょっぴり照れくさがる。

「エイタ、おめでとう」

「英太、よく出来たね」

 乃々絵と潤子は英太の自室からパチパチ拍手する。一部始終を眺めていたようだ。

「望実ちゃん、このお部屋でお菓子食べるのやめたら二度と出なくなると思うよ」

 英太はこうアドバイス。

「そう言われても」

「望実お姉ちゃんも、ゴキブリくらい余裕で退治出来るようになれなきゃ、立派なママになれないよ」

「申し訳ないです育歩ちゃん、虫さんは全般的に苦手で」

「望実お姉ちゃんがゴキブリを克服出来るように、この死んだゴキブリ、このお部屋のごみ箱に捨てようかな」

 育歩は英太の手に持たれたビニール袋を指さしながらにやりと笑う。

「それは絶対ダメーッ! 甦って袋から出て来そうだもん」

 望実は表情を引き攣らせ大声で拒否した。

「ごめん、ごめん。望実お姉ちゃんのゴキブリ嫌いは相当なようですね」

「早くそれ持って帰って。それじゃ、おやすみなさーい」

「おやすみ望実お姉ちゃん」

「じゃあまた」

 こうして育歩と英太は鈴本宅をあとにした。

 ゴキブリを入れたビニール袋は笹島宅キッチン隅に置かれたごみ箱に捨てた。

今、時刻は午後九時五〇分頃。英太は自室に戻って数学の予習を再開。

育歩は潤子のお部屋へ。一歩足を踏み入れた途端、

「くさい」

 顔をしかめてこんな一声。

ピンク系統のカーテンやカーペットやベッドで彩られ、窓際にたくさんの観葉植物、学習机の周りにビーズアクセサリーやお人形、オルゴールなどが飾られた女の子らしいお部屋だったが、香水や化粧品のにおいが強く漂っていた。

「あたしはいい香りだと思うんだけどなぁ。育歩ちゃんも大人になったらこの匂いの良さが分かると思うわ」

 潤子はにっこり笑顔で言う。

「悪いけどこの部屋、長時間はいたくないよ」

 育歩は鼻から口にかけて手で押さえながらそう伝えてここから出て、乃々絵のお部屋へ移ってしまった。

「あらら、育歩ちゃんの学校も女子校だから香水・化粧品臭いと思うんだけど……」

 潤子は残念そうに見送る。

「潤子お姉ちゃんのお部屋、すごく臭かったよ」

「そっか。ワタシも正直ジュンコお姉さんのお部屋の匂い苦手だな。イクホちゃんは、絵は得意かな?」

「はい、まあ、そこそこ自信あります。イラスト描くの大好きなので」

「ワタシ今、漫研に入ってるの。ますます親近感が沸いたわ。イクホちゃん、ワタシの似顔絵描いてくれない?」

 乃々絵は自分のスケッチブックと4B鉛筆を手渡そうとする。

「それは自信ないなぁ」

 育歩はそう言いつつもすぐに受け取って、楽しそうに乃々絵の似顔絵を描いてあげた。

「ワタシそっくり。イクホちゃんの絵、少年漫画みたいなワタシの絵と対照的で少女マンガ風ね。ワタシより上手よ」

 大いに喜ばれ、

「ありがとうございます。アタシの絵、そんなに上手かな?」

 育歩はとても嬉し照れくさがった。

「上手、上手。ワタシはこういうタッチの絵は上手く描けないよ。お礼にイクホちゃんの似顔絵描いてあげる」

 乃々絵はスケッチブックにササッと描写し育歩に手渡した。

「ありがとうございます。すごく上手。線が太くて本当に少年漫画のヒロインっぽくなってる。これ、大切に持っておくよ」

 育歩は照れくさがりながら自分の似顔絵が描かれたB4用紙をマイバッグから出したクリアファイルにしまって、

「あの、これ、アタシの書いたイラスト集です」

 罫線の引かれてない真っ白な紙でお馴染みの自由帳を取り出し乃々絵に手渡す。

「イクホちゃんの描く男の子キャラって、丸顔で細くてかわいい系が多いね」

「アタシ、顎が尖ってて筋肉ムキムキな男キャラはあまり好きじゃないの」

「イクホちゃんは、男の子、年上と年下どっちが好きかな?」

「どちらも好きです。お兄ちゃんと弟、どっちも欲しかったです」

「ワタシは第二次性徴が始まる小六から中一くらいの年頃のひょろい系の男の子が好みだな。でもひょろくてもジャ○ーズ系のイケメンはダメ」

「気が合いますね。アタシもイケメン過ぎるのは苦手なんだ。英太お兄ちゃんは親しみやすいよ。乃々絵お姉ちゃん、漫研ってことは、マンガも描けるんですよね? 乃々絵お姉ちゃんの描いたマンガ読んでみたいな」

「ちょっと恥ずかしいけど、いいよ。これ、最新作で一応、学園コメディ物なの。その、学年一冴えない男の子が、休み時間中に教室に現れたゴキブリを退治して、多くの女の子達からモテモテになるというお話で」

 育歩は机の引出から自作マンガ原稿を取り出し育歩に手渡す。

「やっぱ絵がとっても上手。どれどれ」

 育歩は全三十一ページ熱心に読んであげた。

「イクホちゃん、どうだった?」

 乃々絵はちょっぴり照れくさそうに感想を尋ねる。

「なかなか面白かった。特に主人公が廊下に出てゴキブリ全速力で追っかけてる時に、強面の生徒指導の先生にぶつかっちゃうところ」

「ありがとう」

「これ、ジャ○プとかの新人賞に出すの?」

「いえいえ。賞に出すなんて、まだまだ実力不足だと思ってるから。これは漫研の文化祭展示用よ」

「そっか。乃々絵お姉ちゃんのマンガなら受賞出来ると思うけどなぁ」

その後も好きなアニメやマンガ、ラノベなどの話をしていくうちにあっという間に時間が過ぎていき、まもなく日付が変わろうという頃に。

「これから見たいアニメ始まるのに、このテレビじゃ番組が見れないのは残念」

「大学生になったらアンテナ繋いでもらうってお母さんと約束してるけど、まだ少なくとも二年近くは先よ。今は深夜アニメ、リビングのテレビで録画してるの。リアルタイムでこっそり見たらお母さんに叱られるし」

「アタシんちも同じ状況だよ。ネット配信でも見れるけど、やっぱテレビでリアルタイムで自由に見たいよね」

 育歩が苦笑いしながら嘆いたその直後、

「乃々絵姉ちゃんも育歩ちゃんも、夜更かしはしないようにな。俺はもう寝るから」

 英太が廊下から眠たそうにしながら伝えた。

「イクホちゃん、やっぱりエイタのお部屋で寝た方がいいよ。ワタシもジュンコお姉さんも寝相が悪いから、イクホちゃんを蹴っちゃう可能性高いし」

「それじゃ、そうしようかな。乃々絵お姉ちゃん、おやすみー」

 育歩はこのお部屋から出て行き、

「英太お兄ちゃん、添い寝しに来たよ」

 まっすぐ英太のお部屋へ。

「乃々絵姉ちゃんか潤子姉ちゃんの部屋で寝て欲しかったんだけど……」

 その時ベッドに腰掛け、携帯電話をいじって遊んでいた英太は迷惑がる。

「寝相が悪いからって言ってたもん」

「俺もそんなに良くないと思う」

「べつにかまわないよ」

「俺が気まずいんだけど……あの、俺、トイレ行って来るから」

「英太お兄ちゃん、アタシも行きたーい」

「じゃ、先にどうぞ」

「いいの? サンキュー英太お兄ちゃん、心優しい」

 育歩は嬉しそうにこのお部屋から出ていった。

 その直後、パサッと何かが倒れる音が。育歩のマイバッグからだった。

(あれ、何だろう?)

 中から飛び出たものを確認してみると、

(……イクメンミライ部活動レポート、Vol.1)

B5サイズ五〇枚綴りのキャンパスノートだった。

(どんなことが書かれてあるんだろう? ……見ちゃいけないよな)

 手に取った英太は気にはなったが、ページは開かずに元の位置に戻してあげた。

    ☆

「お待たせ英太お兄ちゃん」

 それから十分ちょっとして育歩が戻ってくる。

「長かったけど、う○こか?」

 さっきと変わらず携帯をいじっていた英太が問いかけると、

「もう、英太お兄ちゃん、年頃の女の子にそんなこと聞くのは失礼よ」

「いてててっ、ごめん育歩ちゃん」

「怒ってはないけどね」

 照れ笑いした育歩にほっぺたをぎゅーっとつねられてしまった。

「それじゃ俺、行って来るよ」

 英太が立ち上がって扉の方へ向かうと、

「こら英太お兄ちゃん、女の子が行ったあとすぐに入るのはマナー違反よ。あと三分くらいしてからにしてね」

「うわっ!」

 育歩に背後から両腕を固められ、身動きを封じられてしまった。

「お姉さんからも言われてない?」

「べつに言われてないけどな」

「でもちゃんと気遣ってあげた方がいいと思うよ。英太お兄ちゃん、アタシと腕相撲勝負しよう」

「いや、負けたら嫌だからやめとくよ」

「男のくせに情けなーい。一回だけでいいからやろう。ねっ♪」

「……分かった。一回だけだぞ」

 ウィンクされてお願いされると、英太はついつい引き受けてしまった。

 英太と育歩はこの部屋に置かれてあるローテーブルに向かい合い、肘を乗せて右手を握り合う。

(育歩ちゃんの手触り、やっぱ幼い女の子だな。まあこれなら勝てる、よな?)

 マシュマロのようにふわふわ柔らかい感触が、手のひらにじかに伝わって来て英太はちょっぴり照れくさい気分にもなったがそれに浸る間もなく、

「それじゃ英太お兄ちゃん、いっくよ」

「ああ」

 すぐに勝負開始。

「んっ、英太お兄ちゃん、思ったより力あるじゃない。やっぱ男の子だね」

 育歩は必死に踏ん張っているような表情を浮かべる。

 瞬く間に英太の方が有利な状態になったのだ。

「これは勝てそうだ」

 もうあと二センチほどで育歩の右手の甲がテーブル上に付きそうになり、自信がついた英太はさらに力を振り絞った。

 そして、

「英太お兄ちゃん、これが本気?」

「あっ、あれ?」

 英太の勝利、かと思いきや一瞬のうちに育歩にぐいっと跳ね返され、育歩の勝利に終わった。

「英太お兄ちゃん、力弱過ぎ」

 育歩はにっこり笑う。

「育歩ちゃん、本気出してなかったのかよ」

 英太は唖然とすると共に少しショックも受けたようだ。

「演技してたの。英太お兄ちゃん、そろそろおトイレ行っていいよ」

 育歩から許可を得ると、

「……なんかなぁ」

 英太はしょんぼりした様子でトイレへ向かっていった。

二分ほどして戻って来て電気を消して布団に潜ると、

「英太お兄ちゃん、アタシのおっぱい触ったり、パンツの覗いたりしないでね」

 育歩はお構いなく英太と同じ布団に包まって来た。

「するわけないって。育歩ちゃん、もう少しだけ、離れて欲しいな」

「そうしたらアタシ、ベッドから落ちちゃうよ。ねえ英太お兄ちゃん」

「何?」

「聡葉お姉ちゃんって子もけっこうかわいいと思うでしょ?」

「まあな。あの子は俺が小中学校の時、ほとんど同じクラスで理科のモーターカーや技術のラジオ製作や家庭科のエプロン作りとかでなかなか出来なくて困った時、いつも助けてもらってたよ。わたしがやったげるよって。親友の秀道もよくお世話になってた」

「クラスに一人はいる誰にでも優しい女の子ってわけね」

「まあ、そんな感じの子だな。望実ちゃんもいろいろ助けてもらってたみたい」

「やっぱ学級委員長や生徒会役員に積極的に立候補するタイプ?」

「いや、リーダーシップはないからってそういうの一度も引き受けたことがないみたい」

「そうなんだ。ちょっと意外。英太お兄ちゃんが将来結婚したいのはどっちかな?」

「それはまあ、望実ちゃんの方だな。村越さんは真面目過ぎて俺にはきついと思う」

「そっか。望実お姉ちゃんに伝えとこっと」

「それは絶対ダメだ」

「冗談、冗談。聡葉お姉ちゃん傷付いちゃうかもしれないもんね」

「俺はもう本当に寝るぞ」

「あーん、アタシもう少し英太お兄ちゃんとお話したいのに。おーい、英太お兄ちゃん」

「……」

「無視かい。そりゃっ!」

「おっ、おい、わき腹くすぐるなよ」

 ビクンッと反応してしまった英太はかかとで育歩をボカッと蹴る。

「んぅんっ! いったぁーい、もう英太お兄ちゃん、女の子の大事なとこ蹴らないでよ」

「ごめん育歩ちゃん、俺、本当の本当に寝るからな」

「英太お兄ちゃん、あと一分くらいお話を」

「……」

「んもう! おやすみ英太お兄ちゃん」

これにて会話をやめると、育歩は五分も経たないうちにすやすや眠りについた。

(……緊張して眠れない)

 英太はそれからさらに三〇分以上してからようやく眠りつけたのであった。

こうして笹島家の夜は、今日も平和に更けていく。


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