真夏の夜の夢もどき
*注意
本作品はフィクションです。実在する個人団体その他とは関係ありません。
なお全編付け焼刃の知識でお送りしています。こんな警察官いねーよっていうツッコミはなしの方向でお願いします。ただし、実際こんなんらしいよ、くらいの情報提供ならありがたく受け取らせていただきます。
*ちなみに
ファンタジー警察シリーズとは、読んで字のごとく警察官が主要キャラクターになってるファンタジーです。毎回違う人が主人公になるのでオムニバスと言ったほうがいいかもしれません。
もし興味を持っていただけましたら、前作「ツキエコー」前々作「亡目奇談」もよろしくお願いします。
(※先に読んどけよって意味ではありませんよー)
↓では本編をどうぞ。
暑い夏の夜だった。冷蔵庫を開けたところ、豆腐が絹ごしはもちろん木綿でさえも入っておらず、五十嵐は思わず落胆の声を上げる。これでは無意味に冷風を逃しただけだ。
かといってコンビニへ行く気分にはなれなかった。この日はたまたま妹に車を貸していたし、歩いていくのはどうにも面倒なのだ。近いところならせいぜい十五分ほどなのだが、途中どうしても通らないといけない竹林があり、五十嵐は昔からその陰鬱な場所が嫌いだった──昼間でも近寄りたいとは思えないのにこんな夜ではなおさらだ。
仕方なく彼の中で夏の定番である冷ややっこ・枝豆コンボを諦めて、ビールとくんさきいかだけを抱えて大窓から庭に出た。風呂上がりのほてった身体を生温い夜風がざわざわと撫でていく。
なにか蹴ったような気がして足許を見ると、割れた蚊遣り豚が転がっていた。
「ち、またあの犬か」
五十嵐の家ではこれはよくある現象だ。というのも、近所の犬がときどき勝手に侵入しては、毎度その記念のつもりで彼の自宅から適当なものを置いていくのだ。その「土産」の大半が壊れたものであるためすぐにわかる。
もちろん五十嵐も最初は飼い主に文句を言うようにしていたが、相手が典型的な飼い主馬鹿で、さっぱり話にならないのですぐに諦めてしまった。
ひとまず蚊遣り豚を危険物用の黒いごみ袋に突っ込み、嫌な気分を誤魔化すように、ビールの缶をアウトドア用テーブルに置く。木製のテーブルには先客……木の葉や役目を終えたおしべが載っていた。夏は屋外で一杯、が五十嵐のやりかたなので、この時期は出しっぱなしにしているのだ。
缶ビールを開ける前に携帯電話を確認した。これはほぼ癖のようなものだが、五十嵐は職業病だと思っている。
幸いにして連絡のあった痕跡はなく、そのまま非番前夜を楽しめそうであったので、五十嵐はいそいそとプルトップに爪をかけた。じつに三日ぶりのビールだ。俺は断じて発泡性リキュールなんぞ認めんぞ、と日ごろから豪語しているほど缶ビールを愛好する五十嵐にとって、缶を開けるというのは至福の瞬間だった。
が、プルトップが少しめりっと音を立てたところで五十嵐の手は止まった。
五十嵐の家は親から譲り受けた庭付き一戸建てで、とくにしっかり手入れを怠ってきたため、庭の南西部はジャングルのように鬱蒼としている。そもそも五十嵐は植物のたぐいにあまり興味を持ち合わせていなかったので、そこに居住している常緑樹の名前すら知らない。ただ幼いころから彼がこの庭のボスであるということだけは察していた。なぜならその木はひときわ大きく立派で、毎年よくわからない色をした実をもっさりと生らせ、とにかく存在感では庭じゅうのどの木にも勝っていたからだ。
問題は彼の根元にあった。五十嵐にはそこに、爛々と輝く光が見えたのだ。光源の乏しい夜の庭で、暗闇にぽっかりと浮かぶ、ふたつならんだ金色の灯。
不気味ではあるが、五十嵐にはその正体がわかる。
「こらクソ犬! 勝手に人んちの敷地に入ってくんじゃねえっつてんだろうが、おい!」
そう。不法侵入で定評のある、三軒隣でぼろっちい金物屋を営む小池沢さんちの愛犬、マリリン(三歳・♂)である。
マリリンと思しきその獣は五十嵐の怒声にびくっと身体を緊張させた。日ごろからさまざまの人間を脅……いや尋問している五十嵐だからこそ可能な発声だ。もっとも最近ではそういった恫喝じみた取り調べでは成果が揚がりにくいだとか、人権侵害だとか、冤罪の原因になるとか言われるようになったので、五十嵐とてあまり怒鳴らなくなってきてはいたのだが。
しかし計算違いがあった。五十嵐の予想では犬(仮)はここで驚いてすぐに庭を飛び出すはずだったのだ。ところが実際には身体を硬くしてその場に居座っている。
……侵入者は強制的に排除せねばならない。小池沢があとで文句を言ってくると鬱陶しいから、怪我をさせないようにはしなければならないが。五十嵐は腰を落として戦闘態勢に入りつつ、犬(仮)にじりじりと歩み寄った。相手はぴくりとも動かずこちらをじっと見つめている。
およそ一分かけて半径一メートル半に漕ぎつけたところで、やっと相手が中型犬のマリリン♂にしては大きいことに気づいた五十嵐は、少しぞっとして相手を睨んだ。とにかく人(犬)違いのようだ。暗くてよく見えないが、大型犬だろうか。
いや、大きな……その……猫のような……?
そんなわけあるか。そんなでっかい猫がいたらライオンや虎の立場がなくなるじゃないか。若干ずれた発想だが五十嵐は真剣にそう思った。だいたいなんでそんな未知の巨大生物が自分ちの庭にいるんだ、まだ小池沢マリリンのほうが理解できる。
相手はそこで、うう、と威嚇するような声を発した。
そこではっと気がついた。未知の巨大猫科生物Xを相手に丸腰の五十嵐がどの程度対抗できるだろうか。相手はたぶん猫科だから牙やら爪やら瞬発力やらを持ち合わせているに違いないし、五十嵐はこのとおりデスクワークと取り調べに明け暮れるしがないノンキャリア警察官で、一般市民よりは戦闘力を持っているとは言えるが猛獣との戦闘経験は当然ながら皆無である。
武器を取ってこよう。丸腰で食われるのは嫌だ。
そう思った五十嵐が無防備な背中を相手に向けた瞬間のことだった。奇声とともに相手は力強く大地を蹴り、突然のことに振り向きかけた五十嵐に向かって、まるでラグビーのタックルのように全身で飛びかかってきたのだ。
「わーっ卑怯だぞ!」
五十嵐は咄嗟にそう叫んでいた。
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これは警察を呼んだほうがいいんだろうか。五十嵐は混乱しきった頭でそんなことを考えた。自分自身も警察関係者だと思いいたるには数分の時間を要した。
彼の目前には今、大型犬よりは少し大きいくらいの、だがセントバーナードよりはいくらか小柄であろう、とりあえず人間の女の子の姿をしたものがいる。はっきり人間だと断定しきれないのにはいろいろ理由があった。まず彼女の頭には耳のあるべき場所に耳がついておらず、翡翠色の双眸は獣のように光を取り込んでは反射し、なぜかぼさぼさした黒髪のうち妙に長いひと房だけがぴよぴよと上下に動く。五十嵐の知る限りこんな人間は今まで会ったことがない。
彼女(たぶん♀なので)はテーブルのそばにある木製の椅子にちょこんと座って、興味深そうにくんさきいかをすんすん嗅いでいる。行儀悪く折り曲げた脚は裸足だ。
じつはこの妙ちくりんな生物こそが、先ほど五十嵐の背中にフライングボディアタック(のような技)をかました猛獣あるいは犬(仮)の正体だ。まあとりあえず犬でも猛獣でもないことは確かだろう。
「えーと」
日本語、通じなかったらどうしよう。
「きみ、名前は? あと住所と連絡先は?」
話しかけた直後に(耳がないから聞こえないんじゃ)という不吉な考えが脳裏をよぎる。しかしそれも杞憂だったようで、ぼさぼさ頭はぱっと五十嵐のほうを向いた。……どこに耳がついてるんだ?
彼女は少し考えるようにしてから、人間の女の子だったら標準的であろう高さの声で
「名前もないし、おうちもないよ」
と答えた。
「ね、れんらくさきってなーに?」
どうも五十嵐の日本語は中途半端にしか伝わらなかったようだった。そこで今度は家族のことを尋ねてみたところ、彼女は拙い喋りで、ずっと昔にばらばらに別れた……というようなことを話した。
それはどこの世界の話だ。ここは現代日本だぞ!
と憤慨したい気持ちがないでもなかった五十嵐だが、しかし家族のことを話そうとする彼女の表情が真剣で、なおかつ寂しげだったので、とりあえず一旦怒りを呑みこんだ。相手のことをもっとよく探り出すべきだ。そして然るべき機関に保護を要請するしかない。
「お母さんは?」
「たぶん死んじゃった」
だが話題はいきなりクライマックスだ。
「えっとね、お兄ちゃんと、お姉ちゃんがいたの。でももうみんないないの」
「ふたりとも?」
「うん。連れてかれたの。だからあたしだけ残ったの」
「連れていかれた……って、どこに?」
「んー? 連れてったひとのおうちだと思う。あたし、そのころ眼が開いてなかったから、拾ってもらえなかったんだ」
おまえはハムスターか。小学生ごろだったかに妹が飼っていたジャンガリアンハムスターの赤ん坊を思い出し、あれは不気味だった……と思いを馳せる。全裸の鼠は赤かった。瞼が薄い桃色で、その下に眼球らしい黒い物体が透けて見えていて、正直かわいくはないと思った覚えがある。ハムスター以外でそういう動物を五十嵐はよく知らない。
「ねえ、おじさん、これなーに?」
「なにってくんさきいか……あ、食いたきゃ食っていいよ」
「うん!」
その許可を待っていましたとばかりに彼女はくんさきの袋をばりっと破いた。あまりにもワイルドな開けかたをしたので、テーブルに少量こぼれ落ちる。木の葉まみれになったいかを、しかし彼女はとくに気にすることもなく、つまんでひとつ口に入れた。
「うへ」
第一声が芳しくない。
「すっぱい」
どうも彼女はくんさきいかを食べた経験がなかったようだ。あぐあぐと口内で弄びながら「なにこれ噛めないー」とぼやいている。思わず、はしたないから口を閉じなさいなどと幼い子の母親のような説教をする五十嵐。
あれ、俺なんでこいつと馴染んでるの。冷静に考えてみると、仮にこの女の子(仮)が人間だったとして、どう考えてもこの歳(外見から推定すると十二か十三くらい)でこの時間にひとりで出歩いているのはおかしい。いや、そのそもうちの庭に出現したことがおかしい。まずどこから入ったんだ?
これはあれか、家出娘ってやつか。そういうのはもっと都会にいるのだと思っていた(ここは大概田舎である)。それにしては鞄も何も持っていないのが気になるが。
「おい。もう一度訊くが、名前は?」
今度は少し語気を強めて尋ねる。
「だからあ、名前はないのー。まっくろだから、くろちゃんって呼ぶ人は、いるけど」
「おいこら騙されんぞ、おまえどっかの家出娘だろ」
「いえでー? あたしはもともとおうち持ったことないんだってば。のらだもん」
「のら?」
ってイギリス人の名前か?
「おうちがないってことだよ」
彼女はまだいかをあぐあぐやっている。しかしどう見てもイギリス人ではないので、ノラというのが名前というわけでもないのだろう。確かに日本人離れした眼の色だが。
じつは日系外国人だったりしないよな、と五十嵐は改めて彼女を観察してみた。しょうゆ顔の部類に入るであろうとくに堀が深いわけでもない顔、身長は多めに見積もっても百四十センチ程度、黒のワンピースと対照的に肌は日本人らしい色白で、にょっきり伸びた脚は少し痩せすぎだろう。
こうしてまじまじ見つめていると、彼女の姿はなんとなく現実味がない。たぶん夜中に道端とかで出逢ったら幽霊だと思ったんじゃないかと思う。
「おじさんは?」
「は?」
「おじさんの名前とー、住んでるところと、れんらくさき!」
「い……五十嵐景、家はここ。連絡先は……ってなんで俺のほうが職質されなきゃなんねえんだよ」
「あ、ここおじさんのおうちなの」
ついでにしょくしつってなーに、だ。さっきからなんでもかんでもなーに、なのだ。小学生だか中学生だか知らないが、最近の子どもはそんなに無知なのか。いや職質は知らなくても仕方がないか。その歳で補導経験があるような奴はもっと見た目が面白おかしくなってるものだ。
いやそれは問題じゃない。それより彼女がいったいどこの誰なのかを突き止めなければ。
さてどうしたものか──今後の出かたを考えあぐねつつ彼女を見遣ると、ようやくくんさきいかを飲み込んだところだった。てことはついさっきまであぐあぐやってたのは同じいかだったのか。よく飽きないな。
「これもっとちょうだい」
「あー……もう勝手に食ってろ」
「やった!」
ぴょんと件の長い髪束が大きく跳ねた。尻尾みたいだ。
尻尾が長い動物ときけば五十嵐は猿がまず浮かぶ。
「おじさん……けーのお母さんはどこにいるの?」
新たないかに手を出しつつ彼女は質問を続ける。自分が訊かれた内容はこちらにも訊く算段らしい。
というか誰が呼び捨てにしていいっつった! おい!
十代前半のうら若い乙女(別名ガキ)に呼び捨てされるほど五十嵐景は落ちぶれてはいない。はず。だがここでいちいち目くじらを立てるほど器が小さいつもりもないので、なにもなかったかのように会話を続けた。もしかしたら案外解決の糸口が見えるかもしれないし。
「おふくろと親父は死んじまったよ。……あと先に言っとくがきょうだいは妹がひとり」
「ふーん」
興味がないなら訊くんじゃねえ。
彼女はじつに楽しそうにいかと戯れている。どうも彼女の中で五十嵐はくんさき以下(洒落じゃない)の存在として認定されているらしい。もう落胆する気にもならない。
やっぱりつまみはやっこと枝豆のほうがよかった。
しかしいつまでも泣きごとを言っていられないのが五十嵐の悲しい宿命だった。明日は非番で、妹が車を返しにくることになっている。すなわち五十嵐が今すべきなのは今夜じゅうに彼女の素性を暴き、明日にはできるだけ早く、彼女の身柄をこの家から更迭することだ。今夜はもう仕方がないから保護せざるをえない。そこはとっくに諦めた。
だがしかし、その後の三十分から一時間に及ぶ職務質問の結果、五十嵐の意思に反して彼女から新しい情報が入ることはなかった。早い話が何度尋ねても同じ返答の繰り返しで、挙句の果てには彼女から「けー、あたしのこと信じてくれないんだ?」と非難がましい眼で見られる始末。
悪いが警察っていうのは人を疑うのが仕事なんだよ、とはなんとなく言えずに、五十嵐は頭を抱えた。
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熱帯夜、すっかり温くなったビールを啜るように呑むのはくたびれたひとりの警察官。五十嵐は木の椅子にぐったりともたれがら、ビールの不味さと食い尽くされたくんさきいかを嘆いていた。あいつ全部食いやがった。塩分の過剰摂取だ。
正体不明の少女(自称くろちゃん・推定十二歳)は反対側の椅子に座ってそんな五十嵐を眺めている。
「おい、とりあえず仮名はくろでいいか」
「うん」
「とりあえずだぞ、今夜だけはここに泊めてやる。明日になったら否が応でも警察に連れてくからな」
すると彼女はきょとんと眼を揺らす。
「あたし悪いことしてないよ?」
だそうだ。
他人の住居に不法侵入しておいてそれはないだろう。面倒なので突っ込むのは控えるが。
そういう問題じゃない、とだけ言うと、とりあえず彼女を室内に連れていく。とてて……とこれまた特徴的な歩きかたで五十嵐のあとについてくる姿は軽鴨の雛だ。フローリングの床には裸足の足跡がばっちり続いている。あとで拭いておかないと明日来る妹に怒られるだろう。下手をするとこの小さな足跡の主について妙な勘繰りをされかねない。
とにかくくろ(仮)をキッチンテーブルに着かせた五十嵐は彼が食べるはずだった炒飯を与えた。くろは例によってそれをすんすんと嗅いでいる。ややあって、それが食べられると判断した(ように見えた)。それから次は横にあるスプーンをじっと見つめ、手に取る。
それらを横目で眺めつつ五十嵐はせっせと床を拭う。
「食ったら風呂入れ」
くろは口の中を炒飯まみれにしてもごもご言っていたが、たぶん了解したのだろうと勝手に受けとめた五十嵐は、テーブルから風呂場までの道すじにタオルを敷き始めた。これ以上汚されると面倒だ。
先ほど散々くんさきいかを食べていたせいか、くろは炒飯を食べ残した。そして気まぐれなのかわざとなのかぴょこんとタオルのない場所に飛び降りた。五十嵐はコンマ二秒で駆けつけると、素早く少女を抱きあげて適当な位置へ移動させる。びっくりするほど軽かったが、それより抱きあげた瞬間にくろが挙げた「ふきゃあ」という妙ちくりんな悲鳴のほうが、五十嵐としては心臓に悪かった。
ところがそこでくろは佇んだまま動かない。
「……濡れるのきらい」
まさかの風呂ボイコットを決行せんとしているらしい。
もちろんそういうわけにもいかないので、当然ながらくろは即座に担がれてそのまま風呂場に連行された。およそ十五分ほどの葛藤と睨みあいののち、五十嵐の必死の懇願の賜物であろうか、くろは恨みがましい眼で五十嵐を睨みながら扉を閉めた。数秒後ぺっと吐き出すようにして黒いワンピースが放り出される。
五十嵐はついつい安堵の溜息をもらしつつ、食器の片付けと彼自身のつましい食事を済ませることにした。その間浴室からは奇怪なうめき声が止まなかった。そんなに嫌か。
しばらくして嫌がらせのように全身びしょ濡れのくろが台所にぬっと顔を出した。当然ながら彼女は一糸纏わぬ姿であり、「ううう……」とやっぱりまだ呻いている。
とりあえず大判のタオルを被せて上からがしがし拭いてやると、それがまた不快だったらしく、くろはぎゃあぎゃあ喚いて暴れた。職業柄暴れられることには慣れている五十嵐は構わず続ける。すると手の甲を引っ掻かれた。前言撤回、やっぱりこいつは猛獣だ。大型の珍獣だ。
乾いたくろに妹の古いパジャマを着せる。案の定少しだぼついていたが、本人は気にしていないふうだったのでそれでよしとしておいた。五十嵐家の人間は、もちろん妹もその例に漏れないわけだが、背が高くなる傾向にある。
「ふーっ」
身体はこれでいいとして、タオルで拭いただけでは髪がまだ生乾きなので、威嚇するくろにドライヤーを向ける。彼女は少し怖がるようにそれを見た。五十嵐はじりじりとにじり寄る。背後は壁なので、くろには逃げ場はない。
「ふはははは、観念しろ」
なんだか楽しくなってきた。
とりあえずその後の結果だけ言うと、濡れてぺしゃんこのくろの頭はふんわりと乾き、五十嵐の手の甲には引っかき傷が増えた。けだものめ。
くろはというと乾いたらそれはそれでご満悦で、ぱたぱたと家の中を動き回っている。自由すぎる生物だ。監視するのも面倒なので放っておいた(その間、五十嵐はびしょびしょになった台所の床を拭いていた。本日二度目)が、しばらくするとフライングボディーアタック(やはり本日二度目)を五十嵐の背中(またか!)にかましつつ戻ってきた。探検は終わったらしい。興奮したようすで髪束をぱたぱたさせるくろだが、とくになにか報告してくるでもない。なんとなくそんな気がしていたのだが。
五十嵐はちょっとだけ拍子抜けしたが、まあ物を壊されたりするよりはいい。ということにしておく。ここでほんとうに物的被害がなかったのかは考えないでおこう。
とにかく猛獣くろとの肉体的精神的格闘によって五十嵐の疲労はそろそろピークに達しようというころだったので、ここは早めに就寝することにした。くろにはとりあえず妹の部屋で寝るように指示を出す。まったく今日はなにからなにまで妹の世話になりっぱなしだ。ありがとう妹。
「じゃあおとなしく寝るんだぞ。おやすみ」
「……うーん、けー」
「なんだよ」
「ひとりで寝るのやだ。一緒に寝よ」
どこまで人を振り回せば気が済むんだと小一時間ほど問い詰めたくなったが、そこはぐっと我慢する。
相手はまあ、しょせんは推定十二歳の子娘だ。知らない家でひとりで寝るのは寂しかったり心細かったりするのかもしれない。幸いにして五十嵐家では布団であるため、移動は充分に可能だ。
「ったく、しょうがねえな」
五十嵐のあまりきれいではない部屋に、無理やり布団をふた組敷いて、くろと並んで寝転がる。電気を消すとやっぱり翡翠色の瞳が金の光を反射した。やっぱりくろは人間じゃあないんだろうな、と、五十嵐はぼんやり考えていた。なんとなくわかってきてはいたのだ。こんな推定十二歳が現代日本にいるとは思えない。
「おやすみ」
隣の獣にそう言うと、うんおやすみ、という返答があった。
そのくせ眼はまだきらきらと輝いていて、布団の上でなにやらもぞもぞ蠢いている。それはしばらくすると止んだ。眼を閉じたのか金色の光は見当たらない。
それからややあって、まどろみはじめた五十嵐の耳には、ごろごろごろ……という身体の奥底から響いてくるような温かい音が聞こえていた。それが夢の入口なのか、それとも現実の出口なのかはわからない。
ただ、それを前にどこかで聞いたような、気がした。
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揺さぶられて眼を覚ますと、そこには妹の顔があった。車を返してもらう約束だ、そういえばそうだった、と五十嵐は寝ぼけた頭で考える。もう朝か。
「もう昼よ」
厳しい突っ込みが五十嵐を襲う。
「こんな時間まで寝てるなんてびっくりしちゃったじゃない。非番だからってそういうのはどうかと……」
「あーわかったわかった」
「人の話は最後まで聞く!」
妹は母譲りの早口でばーっと小言をまくし立てた。それらを適当に聞き流すうち、五十嵐のほうでもようやく頭が覚醒してくる。時計を観ると十一時だった。なるほど寝坊だ。
「……あれ?」
そういえば隣にもうひとりいなきゃいけないような気がする。誰だっけ? 見るとそこには多少無理やりにもうひと組の布団が敷かれていて、くちゃくちゃに乱れていたが、乱した当人はそこにはいない。
どういうことかと考えあぐねていたところ、兄の視線に気がついたのか、妹もそのことに言及した。
「ところで兄さん、この布団は私のよね? どうして兄さんの部屋にあるのかちゃんと説明してよ。いったいどこのどなたと添い寝してたの?」
顔はにっこり笑っているが眼だけはぜんぜんそんなことなかったりして。なんという恐ろしい妹なのか……しかし五十嵐は返答に詰まったまま部屋じゅうをきょろきょろ見回して、ふいに笑った。
「猫だよ」
ああ、なんだ、それならそうと先に言えよ。頭の中でそう呟いた。さっぱりわけがわからないけれど、なんとなく腑に落ちる気がしないでもない。妹はまるでわからないというようにぽかんとしているけれど。
五十嵐の足許に一匹の黒猫がとぐろを巻いていた。たぶんメス猫で、名前は……くろ、でいいだろう。
(了)
*五十嵐さんにもちゃんと下の名前あったんだぜ。
こんにちはこんばんはズドラーストヴィチェ、実アラズです。ロシア語ってなんていちいち単語が長いんでしょうか。
前作では「五十嵐さん」とか「五十嵐警部」とかいうふうにしか呼ばれてなかったのですが、妹がいる設定にしたとき、これは妹も今後出張ってくるよな……そしたら兄だけひたすら五十嵐呼ばわりもなんかなあ……と思ったのでつけてみたのでした。景と書いてケイと読みます。わりとそのまま。
ちなみに妹は七枝さんといいます。案の定次回作では主人公です。
今回だけ短編なのは執筆時間がなさすぎたからなのでした。
そんな一日クオリティの駄文ですが、いちおうシリーズの一端を担っているのでなろうに投稿させてください。あとついでに次回作もよろしくお願いします。たぶんあと三日くらいしたら投稿してると思うので。
ではまた、どこかでお会いしましょう。
執筆時:2011年5月くらい/投稿は12年2月半ば 実アラズ