忠犬蔵
峨峨とした奥羽の山稜が連綿と連なり、雪交じりの北風が大地を荒れ狂うように吹き降ろして、全てが白一色に染まっていた。夕刻、見渡す限りの広大な雪原を、屈強な十人の男達が疾駆して行く。猛烈な寒気にも関わらず男達は裸の上半身を曝し、汗びっしょり。吐き出す荒い吐息で雲が掛かったようにそこだけが白く棚引いている。男達は真っ黒に塗られた頑丈な駕籠を担ぎ、走っているのである。駕籠の中には、息も絶え絶えで蒼白、悲壮な面持ちをした老武士が、駕籠の激しい上下動により舌を噛み切らぬよう、手拭を咥え、歯を食い縛っている。腰を浮かせ力綱を握る手が震え、衣服は脂汗で濡れていた。
「どけ、どけっ!道を明けろ!緊急の早駕籠だ。殿に火急の用がござる」
男達の前には騎馬武者が先払いをしている。村人は何事かと固唾を飲む。瞬く間に駕籠は江釣子城内、南部支藩和賀三万石城主伊藤弥ェ門和重の豪壮な館に走りこんだ。門番はただ事ならぬ様相でいち早く開門している。玄関の式台に辿り付いた老武士は、待ち構えた家臣に引き出され、荒く息を吐いて倒れそうになる。
「白湯だ。誰か白湯を持て!ご老人に飲ませろ」
「はっ、只今」
老人は差し出された白湯を一口口に含むと、噎せて吐いてしまった。
「と、と、殿に、か、火急の伝言がござる。お、お取次ぎを。早く・・」
ここまで言うと老人は気を失ってその場に倒れこんだ。老人は殿の面前に担ぎこまれる。
「し、しっかりせい。お、お前は江戸屋敷留守居役筆頭家老の秋山鉄斎ではないか。何事が出来したのだ」
多数の武士に揺すられ、顔を張られた老人はやっと息を吹き返し、薄っすら目を明けた。
「と、殿!一大事でございます。若殿一弥様、切腹仰せ付けられまして御座います」
「な、何っ!一弥が切腹とな。何があった。精しう話せ」
「はっ、五日五晩、食事も睡眠も摂らず、江戸表よりこの江釣子まで走り続けました。何卒、一杯の粥を頂戴したい。さすれば、少し落ち着いて話が出来まする」
「あい解った。直ぐに粥を持て。このものに誰か食べさせてやれ」
老人は急遽取り寄せられた粥を零しながらやっとのことで啜り、人心地つくと殿の面前に平伏し、やおら語り始めた。
「若殿様はご幼少よりご成人なされるまで、この草深い江釣子のお屋敷で過ごされました。この程、元服され江戸城に赴き、将軍綱吉公へ元服のご挨拶に罷り出たところ、思いのほか、勅使饗応役という大役を仰せ付かったのでございます。初めての役ゆえご指南役の安芸山徹之介殿について作法その他を学ぶようにとのことでした。真面目一方の若殿は早速安芸山殿へご挨拶に伺いますと、賂がないという厳しいお叱りを受けたのでございます」
「安芸山という御仁、とんでもない輩だの。あからさまにマイナイを要求するとは」
「それだけではございません。ア奴は面談に及び、大仰にふんぞり返り、高価な銀煙管で煙草を吹かしながらこう申したのでございます。『そこもと、生国は何処じゃ』『わ、わたくしは、陸奥岩手和賀江釣子の出身でござる』『ほおっ。蝦夷アイヌか。道理でバカ面しておるの。ド田舎者は肥桶でも担いでいる方が似合っておるわ』『ぶ、無礼ではござりませぬか』『ウスノロのオカマめが。失せろ!貴様な顔なぞこれ以上見たくはないわ』一弥君は憤慨で顔を赤くし、ブルブル震えて屋敷に戻りました。心配して待っていた私は、若殿にお諌め申しあげました。『一弥様。我慢でございます。耐えねばなりませぬ。勅使饗応を無事終えたならば、絵里姫様との婚儀が待っております。ア奴の暴言など聞き流せばよいので御座います』
「それで殿は、次の日已む無く南部裂地で拵えた家宝の袴を持参したのでございます。しかしこれを見た安芸山は、大勢の家臣達の面前で斯く申したのでございます」
「なんと言われたのだ。あの品は伊藤家伝来の秘宝にして名品」
「はい。『このようなボロ切れを縫い合わせた袴なぞ、昨今は乞食でも履かんわい。田舎侍が』と声高に嘲笑ったのでございます」
「無礼な。卑しくもこの伊藤の家は彼のアテルイが血を引く、由緒正しき旧家。その安芸山とやら、聞けば一介の大工から身を起こし、飽くなき賄賂と胡麻摺で高家筆頭に成り上がった空け者。そんな男に嘲弄され、さぞや一弥は憤懣やるかたも無かったであろう」
「しかし、殿。若殿はご立派でございました。その場はじっと堪え、ひたすら教えを請うたのでございます。すると安芸山曰く。この度の勅使は梨絵様と申される大層身分の高い、高貴な貴族のお姫様で言葉を誤れば、大変なことになると言うのです」
「ふむ。それは難題。一弥は今日まで、岩手弁以外は話せぬ」
「それで家臣一同、若君に江戸言葉の猛特訓をさせていただきました。勿論若殿の許婚であらせられる絵里姫君も一緒に言葉を唱和され、ご心労でお窶れ遊ばされておりました」
「ふむ。絵里もか。そちらも気苦労が多かったであろう。江戸言葉はとても一日にして成るものではない。早口で語尾が定かでなく、独特の言い回しがあるからのお」
「その日は徹宵して言葉を習い次の日の勅使饗応に備えました。ところが一夜漬けの習い。全ての言葉を網羅出来るもなく、言わばぶっつけでその場に臨まざるを得ませなんだ」
秋山は此処まで言うと大声を上げ泣き崩れた。一頻り泣いて落ち着きを取り戻し、再び口を開く。
「その日のこと、鉄斎、生涯忘れ得ませぬ。一弥様は早暁より衣服を整え、指南役の安芸山の屋敷に罷り出ました。すると安芸山はこう申すのでございます。お前のような田舎侍にはそのような裃は似合わぬ。岩手の犬皮の衣服を身に着けよ。さすれば勅使饗応の座興になろう。早速着替えて姫君の面前に罷り出ろ。とこう命じ自分はさっさと姫君のところへ出向いてしまいました。一弥様は安芸山の指南を受けねばならぬお立場。この屈辱を敢えて受け入れませぬと、将軍家の覚えも愛でたからず。涙を拭い、大犬の毛皮に身を包み、御本丸の勅使御座所にまかり越したのでございます」
叉鉄斎は号泣する。家臣達がこぞって宥め、背中を摩ったり、もらい泣きをした。漸う小半時もして秋山は話を続ける。
「御座所は西の丸御殿の松の廊下の奥、帝鑑の間に設えられ、上段に梨絵姫様が御簾の奥でご休息中でございました。
『安芸山より聞いた。そなたが今年、わらわの世話をする伊藤だな。近うよれ』
『はっ、はっ。て、おら、イヤ手前、きょ、饗応役バ仰せ遣ったい、伊藤だす、イヤ伊藤で御座います』
『むっ、なんじゃこのムクツケキいやな臭いは?け、獣の臭いじゃ。な、なんとお前、犬の毛皮を纏っておる。汚らわしい!去ねっ!即刻出て失せろ!ここをナント心得る。神聖なる天子様間近で使える中宮、梨絵の面前である』
梨絵様は怒りのあまりその芳しい眉間に青筋を立てられている。伺候する安芸山徹之助も得たりと面罵する。
『なんという無礼な所業。帝鑑の間の高貴なお座敷に獣のなりをして、参上するなど言語道断。それにあれほど申し付けた言葉も方言交じりの聞きにくいシロモノ。お前如きド田舎の犬侍に姫君ご饗応の大役など勤められるわけもない。消え失せろっ!』
かくして若君は安芸山に謀られ、悲痛と憤懣でワナワナ震えながら、已む無くその場を辞去したのでございます」
「むう、さぞや無念だったであろう。徹宵で言語を学び、血の滲むような努力の果てが、このような結果を迎えるとは」
「一弥様のお怒りは到底収まるわけもなく、松の廊下隅でじっと安芸山退出を待ち構えておりました。凡そ武士にとって己の名誉と体面を保つことが、何より大切な事。若殿は面罵された悔しさより、こ、この江釣子の伊藤家の名誉の為、屈辱を晴らそうと致したのでございます」「さもあろう。この伊藤家は二百五十年以上続く東北屈指の名家。無礼極まりなき恥辱。安芸山とはなんという卑劣な極悪人だろう」
「左様でございます。安芸山はその地位を利用し、あらゆる関係になったものから賄賂をせしめ、その賂を遣って梨絵姫様に取り入り、日夜豪華な物品を姫君に贈るなど、悪辣な人非人。態度物腰も上には卑屈にへつらい、下には居丈高に振舞う目に余る、悪党で評判な男。こんな男に掴まった若君が、お気の毒で、お気の毒で・・」
また鉄斎は声を詰らせる。家士、郎党より必死の励ましを受け、やっと鉄斎は語り継ぐ。
「松のお廊下と申すは、江戸城ご本丸の深奥にあり中庭に面し、帝鑑の間より鉤型に折れた広い廊下でございます。そのお廊下隅に身を潜めておられた若君は、安芸山が退出しこちらへ向かっているのを窺うと、即座に愛刀備前包平を引き抜き、駆け寄って切り付けました。しかし無念にも後ろより駆けつけた高取昭之守殿に押さえつけられ、僅か一太刀、安芸山の眉間を切り裂いたのみでございました。若殿はこう叫びました。
『武士の情けでござる。手を離して下され』
『殿中でござる。刃傷はご法度。お静まり下され』
その間、憎っくき安芸山は家臣達に運び出され、逃げ果せました。無念で御座いまする。若殿の心中お察しするに煮え湯を飲まされたる思いであったに相違ございません」
「悪運強き男。狡賢い奴ほど逃げるのも早い。一弥。さぞ無念だったろう」
殿様以下家臣一同、全ての人々は号泣した。
「つぎの日でございます。謹慎し揚がり屋にて一夜をお過ごしになった一弥様は、大目付川田晋左衛門殿に呼び出され、将軍綱吉公の命により『城内での狼藉、不図届きにつき切腹申しつくる』とのご沙汰が下ったと知らせがございました」
「むっ。では一方の安芸山の処罰は如何相成った」
「そ、そ、それがでございます。安芸山は梨絵姫様のお口添えもありお構いなし。無、無罪でございます」
「な、何っ!喧嘩両成敗が法度。一方の一弥が切腹、方や悪を為した安芸山がお構い無しでは、まるで道理が通らぬ。許せぬ!」
「将軍家の命に逆らえるわけも無く、哀れ若殿は僅か二月の後にお腹を召されるのでございます。更にご嫡子である一弥様が廃嫡されますと、この伊藤の家は断絶、お取り潰しにあいなります」
「なんと無体な。たった二月しか猶予はないのか」
「は、はい。此処に一弥様の辞世を頂いております」
鉄斎が懐深く大事に忍ばせた畳んだ懐紙を取り出す。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん』
雄叫びのような激しい怒りの声が充満し、やがて啜り泣きに変わって一同夫々朋輩同士抱き合い、肩をだいて項垂れ、怨嗟の言葉と悲痛な叫びで城内は騒然となる。翌朝、泣きはらし目を真っ赤に染めた鉄斎は、殿様弥ェ門和重より茶室に来いとの命を受けた。茶室に赴くと、殿も泣きはらした目を屡立たせ、嗄れ声で話始めた。
「江戸住まいのそちは、知る由も無かろうが、実はの、一弥は神から授かり申した御子である。正室の和江と夫婦になり、日夜あい励んだがどうしたものか、子供を授かることが無かった。このままでは、伊藤の血が途絶えてしまうと、苦悩した挙句、江釣子神社へ子を授かるよう、願掛けをしたのじゃ。和江と二人、神社へ詣でること九百九十九度。しかしなんの霊験もなく空しく引き返すのが常で御座った。ところが折から吹雪き吹き集う二月十日、これで最後と千度目の参拝に嵐を押して神社に出むいた。いつもは容易く神殿に近づけるのだが、生憎の猛吹雪。苦心惨憺して神社の裏手から拝殿ににじり寄った。そこに一抱え以上ももある、弁慶の力石と伝えられる巨岩があり、その傍らに子牛ほど巨大な黒い雌犬が横たわり、その犬の乳房を懸命に吸っている赤子の姿があった。驚いた我々は、これこそ天からの授かり物、と喜んで雌犬共々我が家へ連れ戻った」
「は、はあ。その子が長じて一弥様に?」
「いかにも。我々夫婦は母犬に弥々。赤子に犬弥と名付け、我が子として大事に大事に育て上げてきた。犬弥は元服し、一弥と名を改めた。弥々は五年後身罷ったが、弥次郎丸、弥三郎丸という頑丈な二匹の子犬を産んだ。其の後子孫が増え、今やその数、四十七頭に及んでおる。犬弥と弥次郎丸、弥三郎丸は兄弟のように分け隔てなく育てられ、いつも一緒に過ごしておった。今回の犬弥改め一弥の江戸出府の際も二匹の愛犬と離れがたく、暫し泣き叫んでおったのである」
「そんなことがございましたのか。鉄斎些かも気づかず、今聞いて驚愕致しました。道理で一弥様は犬と見ると必ず近寄り、頬擦りしたり身体を撫でておいででした。確か許婚の絵里様も戌年生まれで、犬が大層お好きでございます。若殿様の出生の秘密を垣間見た思いでございます。然しながらあとたったの二月で、そんなにお優しい、若き尊いお命を失われることになってしまいます。お痛わしい限り。なんとしてもご無念を晴らし、若殿を救い出さねば気が治まりませぬ。悪党安芸山を成敗し、その首級を揚げねばなりませぬ。斯くなる上は、伊藤家家臣一同、あい揃って安芸山の屋敷を襲い、彼奴を討ち取ろうではありませんか。もとよりこの鉄斎、殿に殉じて死ぬ覚悟は出来ております」
「嬉しいぞ。鉄斎。一弥もよき家臣をもったものだ。じゃがノ、鉄斎。事は容易ではない。安芸山と言えば手練れの家臣を多数召抱えていると評判。それにキヤツの屋敷は要塞の如く堅固に造られていると聞く。生半可な意気込みだけで為るとも思えぬ。ここは時間も無いが、綿密な作戦を立てる必要がある」
「恐れながら、家臣及び愛犬四十七頭の意見を訊く必要がござる。是より総登城を命じましょう」
「解った。よきに計らえ」
江釣子城天守閣より時ならぬ総登城の触れ太鼓が響き渡る。ドン、ドン、ドドン、ドン。繰り返し響く太鼓に昨夜非番で事の成り行きを知らぬ家臣達が続々と登城してくる。昨夜話しを知った者たちは寄り集まって早くも安芸山討ち取りの談義。大広間は家臣一同と愛犬四十七頭がぎっしりと詰め、立錐の余地もない。ワイワイ、ガヤガヤ。喧喧諤諤。その時江戸留守居役筆頭家老秋山鉄斎の大音声が響き渡る。
「ものども。殿のお成りである。静粛にお出迎えを」
「は、はあっ」
「わん、わん」
人々は平伏し、犬達はじっと座って殿の着座を見守る。座は静まりかえり、しわぶき一つ聞こえない。殿は静かに話し始めた。
「ものども。既に聞き及んでおられようが、我が後継ぎ、一弥が江戸城、松の廊下にて高家肝煎り安芸山徹之介に対して刃傷に及び、綱吉公より一弥切腹、伊藤家は断絶、取り潰しと仰せ付けられた。切腹は来る三月十五日と決まった。安芸山は高慢にして様々な嫌がらせをした挙句、犬の装束を我が一弥に強いるなど非道無類の欺きをし、ついに堪忍袋の緒を切った一弥が安芸山に切りつけた。しかし無念にも彼奴の命を絶つことは適わなんだ。悲痛、憤懣遣るかたなき辞世の句を披露しよう」
殿が「風さそう・・」の句を詠むと全ての犬と家臣は大声で泣き喚いた。鉄斎が立ち上がり、瞑目し静かに語りだした。
「ご家中の皆々様。お犬様達。皆、若殿一弥様をこよなく慕ってお出でだろう。常に冷静沈着な若殿が、斯くも激高し安芸山に切り付けたのは、あ奴の粘りつくような執拗にして卑劣極まる言動に悲憤をかられたからでござる。見るからに悪相にして低劣、下品な人相は忘れることが適わない。実に極悪人とはこのような者を指す。自ら賄賂を公然と請求し、有り余る資金をもって高貴な姫君に取り入る言語道断の輩である。このような者を成敗したとて、喝采を叫ぶものはいても非難する人間はいようはずがない。私は若殿にお遣えして、日も浅いが、若殿から受けたご恩は生涯忘れられぬ尊いものであった。今私は若殿の仇を討つ。謂うまでも無く、仇敵安芸山の首級を揚げる所存である。我に賛同される御仁は、立ち上がり我のもとへ参ぜよ。これはご公儀に弓引くことである。家族郎党とも離別せねばならぬ。俸給も無論期待できぬ。相当な覚悟が無ければできない。良くお考えの上、決断遊ばされよ」
皆には夫々様々な事情がある。親が病身で金を稼せがねば為らぬ者、嫁を向かえたばかりで故郷を離れがたき者、安芸山を討つ可能性が低いと見る者、公儀に楯突いたら、昔の貧窮な生活に戻ると考える者、様々な事情が家臣達を懊悩させた。一方犬達にはそのような事情もなく四十七疋全頭が鉄斎のもとに寄り添った。家臣の内、森井健悟衛門、石山博乃丞、石原佳乃輔、勝又俊兵衛、大坂由紀、宮里千恵女の六人が鉄斎に血判の誓詞を差し出し、復讐を誓う。
「筆頭家老秋山鉄斎、江戸におわす絵里姫君を加え、都合八人。忠犬四十七頭と共に、一弥様の敵、憎き安芸山徹之介の首揚げようではないか。陣の指揮は不肖この鉄斎が取らせてもらう。老いたりと雖も若殿をお慕い申す気持ちは海より深い。即刻謀議に入ろうではないか。殿。これで宜しゅうございますな」
殿様に異論があるわけもなく、その日から志士と忠犬達は安芸山邸討ちいりの謀議に入る。弥次郎丸、弥三郎丸は賢く、言語を解するのみでなく、積極的に協議に参加、配下の他の犬達に伝える。その十日後、江戸厩橋蔵前の広小路、鳥越神社の大鳥居脇に、黒装束、黒頭巾、黒覆面で固めた武士があたりを伺っていた。傍らには子牛ほどの巨大な黒犬が鳴き声一つたてず、じっと扈従している。武士は声を潜め黒犬に話し掛けた。
「良いか、弥三郎丸。この先に安芸山の屋敷がある。二間ほどの高塀が巡らされておる。手前の石灯籠を足がかりにして、塀を飛び越えろ。向う側に着地したら、構わず真っ直ぐ進め。この時間お書物蔵の扉が開き、定時の点検に入るはず。その時見誤らず、蔵に潜入、一番豪華な巻物を咥えて持ち帰れ。決して警備の武士と争ってはならぬ。密かにやり遂げるのだ」
「う、う。うわん」
弥三郎丸が低く唸る。「行け!」鋭く黒づくめの武士が命ずると、巨大な黒犬は敏捷に身を翻し、瞬く間に高い塀を飛び越し中に潜入した。物音一つ立てていない。数瞬後、弥三郎丸が、早くも邸内の絵図を咥え持ち帰った。一陣の風が吹きぬけたような、疾風怒涛、俊敏な名犬の働きに、安芸山の屋敷の者は誰一人気づく者はいない。
「でかしたぞ。弥三郎丸。これで我が作戦も綿密に立てられる」
これは二日前、野菜売りに変装した大坂由紀が安芸山の屋敷に野菜を売りにいき、奥女中から聞き出した貴重な情報に依って為すことが出来た。犬を連れ、厩橋の隠れ家に戻った黒装束の男は頭巾を脱ぐ。謂わずと知れた鉄斎その人。隠れ家には大坂、宮里の両名が女中姿で控えている。
「これを見ろ。安芸山の屋敷の絵図だ。ヤツの寝所もはっきり解る。写しを取り弥三郎丸に託して江釣子に運ばせる」
「鉄斎殿。ご油断召されるな。彼の屋敷には韓の国より渡来した李承福と申す棒術の達人がおります。他に二天一流の奥義を極めた遣い手、牧長路と申す武芸者も潜んでいるらしい」
「ふむ。敵もさる者。復讐を恐れているとみゆる」
「報告がございます。若殿一弥様、江戸城ご本丸揚がり屋にて謹慎しておられましたが、この程、岡山五十一万石領主、高取昭之守様お屋敷にお預けとなり、無念乍座敷牢に収容され、ご不便な毎日をお過ごしとのことでございます」
「座敷牢?それは罪人を閉じ込める場所。卑しくも江釣子三万石領主のご嫡男をそのような牢に閉じ込めるとは。又しても安芸山の差し金だな」
「左様にござります。高家肝煎りとは申せ、実権の丸でない腐れ貴族の端くれ。然しながら取り入りたる梨絵姫君の権力は侮れません。姫君は大奥深く権威を伸ばし、将軍家ご正室やご側室を意のままに動かしております」
「由紀、千恵女。これより安芸山と梨絵姫の動向を探ってくれ。わしの調べたところ姫は広尾に広大な屋敷を構えておる。安芸山は夜毎その屋敷に伺い諂っている。時には高名な茶屋に姫を連れ出し、大盤振る舞いの末、姫君に迫っているようだ。二人が真に同衾しているかどうかを確かめるのだ。大層困難な探索と解っておる。が、二人がデキているか否かで、今後の復讐の遣り方が、大いに違ってまいる。解っておろうが、隠密に探るのじゃ」
「はい。ご家老。それでは私は姫の奥女中に成りすまし潜入しましょう。由紀殿は茶屋の方頼みます」
「先般の探索で、次は青山、比呂という茶屋に出向くと安芸山が吹聴していると、彼の屋敷の飯炊き婆が漏らしているのを小耳に挟みました。私はその茶屋の女中に雇ってもらいます」
「うむ。わしはこれより江釣子に戻り、作戦を練り上げ、十日後に全員を引き連れて参る。ご両人。ゆめゆめ、油断なさるな。ヤツらも探索の目を光らせていると見なくてはならぬ」
「私共の探索の結果はどうお知らせすれば宜しいか?」
「一弥様の愛鷹、隼ハヤト号に書状を託し送れ。その日の内に届く筈」
「畏まりました」
かくして三人と一匹は夫々与えられた任務を全うするため、散っていった。
千恵女の忍び込んだ、広尾梨絵姫様宅では今宵も饗宴が開かれていた。
「のお、安芸山。先ほどそなたに苛め抜かれた挙句、切腹の詰め腹を負わされた田舎者が居たノ。アレはどおした?」
「姫君。あんなド田舎の犬メに心を煩わせては勿体無い。あ奴はもうじき死ぬ定め。思えば汚らわしい男であった」
「田舎者ならではの濃密な主従関係があろう。あ奴の家臣が復讐せぬとも限らぬ」
「なに、心配ご無用。手は打ってござる。伊賀の忍者達に探らせてある。ナニ、大したことはありません。奴の家の家老に鉄斎という頑固爺がおるようですが、もう耄碌した老いぼれ。何も出来ますまい。それより、姫。今宵はもそっと近しゅうして宜しいかな」
「火鉢を五つも入れ、少々暑くなった。失礼して着物を脱ぐとしましょう」
「それは重畳。透き通った襦袢姿、見とうござる」
「はい、はい。わらわの身体が見たいのじゃな。良いとも。存分に見やれ」
姫君の目を欺く真っ白な、スベスベの肌が火鉢の熱気で桜色に染まっている。透けた襦袢の奥に芳しい艶やかな双の乳房が疼くように張っていた。
「安芸山。わらわの乳が疼いてならぬ。そっと摩ってくだされ」
「はい。姫様。畏まりましてございます。ではご無礼ながら摩らせていただきます」
安芸山が両手を襦袢の袖に差し入れ、ゆるりと姫の胸を撫でまわす。姫は目を閉じ、気持ちよげな、遣る瀬無い吐息を漏らしている。
「今宵は二月十四日で御座います。訊くところに依れば、南蛮人はこの日をばれんたいんと申し、女子が恋する殿方にかかお豆から調する、しょこらと申す甘い菓子を渡す習いがあるそうです」
「知らいでか。無論そちにも用意してある。白耳義国の名品しょこら、ごでぃばなる品。わらわが口移しで食べさせてやろう」
「有り難き幸せにござる」
千恵女は座敷の襖の陰に身を寄せ、この様子をつぶさに伺っていた。
「ふむ。傍目にはいちゃいちゃしているように見えるが、その実二人は出来ていないと私は見る。うぶな慣れぬ手つきが物語っている。早速この事態を江釣子で待ち構えておられる鉄斎殿に知らせ送るとしよう」
隼ハヤト号は千恵女のしたためた密書を矢のような飛翔で遠くみちのく、江釣子城に帰った鉄斎のもとへ運んだ。
「おう。ハヤト。遠路遥遥良くぞ飛んでまいった。ご苦労であった」
「けェ〜ん、けェ〜ん」
「うむ。千恵女よりの密書だ。ご同志方。良く聞け。千恵の命を掛けた必死の探索により、安芸山と姫君は未だ出来ておらぬことが判明した。然らば、安芸山を討ち取った暁に、姫よりお咎めは無く、綱吉公に我ら義士の処罰を訴えることもないと信ずる。いや、待て。今由紀殿が青山の茶屋に潜入し、更なる探索を行っている。暫し待とう」
千恵女からの密書が届いてから三日後、由紀からの書状が届く。千恵女の報告同様、安芸山と梨絵姫は懇ろなれど、同衾に及ばずとのこと。
「お二人の活躍、目を瞠るものがござる。両人とも若殿のお手がついていたから、無理からぬが」
「そうか。二人は若殿にお情けを頂戴していたのだな。両名とも可愛き顔をしてござっしゃる。身を賭してコトに励んでおる訳じゃ」
「若殿、一弥様は真面目一方の純真な心の持ち主でございます。男ぶりも中々で、家中の女達は無論のこと、領内の村の女達も、若殿が通りますと、目を輝かせ熱い視線を送っておりました。由紀殿は呉服商の一人娘、千恵女は豪農の娘でしたが、若殿に出会い一目で好意をもって、自ら奥への出仕を申し出、そこでお手がつきました。ですから、若殿のため命を投げ出す覚悟はとうにできております」
「それは心強い。ワシも見習わなくてはならぬ。これより、討ち入り作戦の要諦を話して聞かせる。もとより主君の仇を討つのが目的だ。探索を終えた由紀、千恵女の二人には、一旦この江釣子に戻って貰う。全員揃ったら、各自武器、装束を調え一斉に、我が江戸藩邸に向かう。藩邸で絵里姫君と合流、時期を見計らって厩橋、安芸山の屋敷を急襲する。キヤツの寝込みを襲い討ち取るのだ。指揮の総大将は私が取る。副将はお犬軍団首領、弥次郎丸が勤める。各自はワシの打つ一打三流の山鹿流陣太鼓を良く聞いて行動を取れ」
三月を迎えた。北国江釣子に遅い春が訪れようとしていた。奥州街道沿いに植えられた松並木に若葉が芽生え、江釣子城周囲の堀脇の梅の老木から芳醇な香りが漂ってくる。小さな野花が花開いてきた。うきうきとする陽気にも、伊藤三万石の家臣達の表情は暗い。あと十日で若殿が切腹、其の後旬日をおかず父祖代々築いてきた江釣子伊藤の家が無くなってしまうのだ。正に江釣子という麗しき里が消滅するのと同じである。育んできた美しい自然と人為が渾然一体となった、この故郷が壮麗な城と共に破壊される。人々はその恐ろしい災厄に震え、押し黙る。伊藤弥ェ門和重はその苦悩に押しつぶされそうになった。たった一人の悪党のため、五千世帯もの人間が路頭に迷う。城主は老齢の鉄斎に賭けている。忠義を絵に描いたような、あの男なら、きっと倅の仇を討ち、助け出してくれる・・・瞑目した和重は天を仰いだ。
「各々方。愈々明後日早暁、城を出立する。行路は敵の目につきにくい間道を行く。山地はまだ雪が深く積もっている。犬橇隊を仕立てこれにて行軍する。隊は七編成、各七頭、但し大坂、宮里両名は体重が軽いため雌犬を含め六頭立てと致す。一番隊は副将弥次郎丸を先頭に残り六頭、これには総大将、筆頭家老秋山鉄斎騎乗。二番隊同弥三郎丸以下六頭、乗り手大坂城代森井健悟衛門、三番隊側用人石山博乃丞、四番隊見廻り組石原佳乃輔、五番隊御徒歩頭勝又俊兵衛、六番隊奥女中大坂由紀、しんがり同宮里千恵女以上である。糧食、武器弾薬の類は各自自分の橇に積み込め。討ち入り装束は鎖帷子に火事場衣装。犬達にも厳重な鎖を巻き、鉄冑を被せる。最後の点検だ。皆抜かるな」
家老の飛ばす檄に皆顔を引き締め、武者震い。各自糧食の確保や武器の手入れに走った。時に元禄十四年三月十日、夜の開けやらぬ早暁、面々は江釣子城大手門に参集した。城主弥ェ門和重始め見送りの家臣一同が見守る中、整然と隊列を組み、揃いの装束、武具に身を固めた志士達と、不思議な縁で結ばれた猛犬四十七頭が雄叫びを上げ出立した。
「頼んだぞ。鉄斎、健悟、博乃丞、佳乃輔、俊兵衛、由紀、千恵女。お前達はこの国の誇りである。仇敵徹之介の首級、この江釣子に持ち帰れ」
「えい、えい、おうッ」
どどっ、どどっと地響きを上げ、軍団が遠ざかっていく。先頭の鉄斎は高々と濃紺地に海老茶の羆を染め抜いた長三角形の軍旗を靡かせている。沿道全てに村人が並んでこの壮行を見守り、口々に応援の叫びをあげている。「頑張れよオっ」「しっかりやってケレっ」
「はいやぁっ!」雪道に入ると、橇は猛然と速度を上げ、激しい雪煙を立てながら、見る間に小さな点となり、やがて見えなくなった。夜陰に乗じて間道を進み、三日後の三月十三日、志士達は一人の落伍者も無く、無事芝狸穴の伊藤江戸屋敷に到着した。屋敷では一弥様許婚、絵里姫君以下家臣、郎党に出迎えられる。
「待ちかねたぞ。鉄斎」
「はっ。姫君。愈々明日が決戦の日。一同意気盛んでございます」
「遠路、大儀であった。今日は存分に飲み且つ食らって、ゆるりと休息してくだされ。犬様達には大量の肉が用意されている」
「此処より厩橋の安芸山邸まで凡そ二里半。一刻を要す。明日丑三刻の出立じゃ。それまで姫君に甘え、休息し士気を高めておく。江戸には最早雪が無く、橇は遣えぬ。徒歩で走りぬく。姫様は馬が必要であろう」
「なんの。不要である。愛する殿を救うためじゃ。わらわも皆の衆同様、武具を着け走りぬく覚悟。この日のため日夜、甲冑を着け、疾走する鍛錬をしておる」
絵里姫は白い肌を輝かせ、柳眉を逆立てて、きっと鉄斎を見据えた。
「見事なるお覚悟でござる。さればおなごとて容赦は致しませぬ。由紀。千恵女。姫を援護し疾りぬくのじゃ」
明けて元禄十四年三月十四日。増上寺の梵鐘が重々しく丑三刻を告げた。時ならぬ春の雪が舞っている。きりりと真新しい白絹の鉢巻、ずっしりと重い黒光りする鎖帷子、白地に袖口は山切りの文様。襟には各人の役職姓名を書いた名札。犬はランランと目を青白く光らせ、低い唸り声。総身に赤銅の太い鎖が巻かれ、目と口を刳り貫いた銅兜を付けている。どん。どオ〜ん。どオ〜ん。どオ〜ん。一打三流。山鹿流陣太鼓の響き。各人は両刀の他、槍、鉄砲、刺股、鉞、突棒など得意の武具を手にしている。一際目を惹くのは、蒼い黛を濃く引き、朱色の紅を唇に差して、真紅の羽織り袴に鉄心金銅の鉢巻をきつく巻いた、絵里姫。勇ましくも凛々しく、流石である。
「各々方。出立じゃ」
駈けるような早足で一行は音もたてず進む。先頭は緊張から顔面蒼白の鉄斎。太い引き綱に精悍な弥次郎丸が引っ張るように前に立つ。しんがりを勤めるは、由紀、千恵女に両脇を支えられた絵里姫。弥三郎丸がしっかりと擁護し、背後を警戒している。ほぼ一刻後、一行は目指す蔵前厩橋、安芸山屋敷の堅固な長屋門の前に立った。掛け声も無く突如、千恵女が高塀前に張り出した、松枝に飛びつき、車輪の如く身体を転回させ、あっという間に塀の中に消えた。鍛えぬいた江釣子犬数頭が千恵に続き、高い塀を飛び越え侵入を果たす。復讐が有り得ると考えた安芸山は警護の武士を増やし、徹夜の警戒にあたらせていたが、忽ち猛犬に囲まれ、吠え立てられ、手足に噛み付かれ、為すすべもなく逃げ帰って行く。閂が中より開けられ、志士と犬達は易々と邸内に入った。
「伊藤一弥家来口上。安芸山徹之介儀、高家肝煎の立場に有りながら、収賄の限りを尽くし、この度の勅使饗応に際し、我ら主人伊藤一弥に対し奉り、無礼非道の振る舞いの数々、堪忍の限度を超す言動に、去る一月十五日殿中松の廊下にて、一弥、安芸山を討ち果たさんと切り掛りしが、無念にも僅かに傷を負わせたに過ぎず。ご公儀において主人一弥のみ切腹仰せ付けなるも、安芸山は無罪放免。我らは天に変りて不義を討つの所存である」
鉄斎が声を嗄らして叫ぶ。どん。どオ〜ん。どオ〜ん。どオ〜ん。夜陰に重く陣太鼓が響き、わぁっと歓声が揚がり、忽ち騒然となった。巨大な老犬に率いられた獰猛な犬の大軍団が暴れ回り、吠えまくる。物音で目覚めた徹之介配下の家臣達は、驚きながらおっとり刀で雨戸を蹴破り、雪の薄っすらと積もった庭先に踊り出る。
「がおうッ」
「な、なんじゃ。銅鎧を纏ったけだものの群れ。切り殺せ!」
武士達は刀を振るって、犬を切り殺そうとするが、厚い鎧に阻まれ、弾き返されてしまう。
「て、手強いぞ。火だ。火を浴びせろ」
縦横無尽に走り回る犬軍団は、忽ちのうち安芸山家臣達に噛み付き、耳や鼻を食いちぎり、瀕死の痛手を与えて行く。そのころ弥次郎丸と麾下の猛犬七頭は、鉄斎、健悟衛門、絵里姫と共に、広大な安芸山屋敷深く侵入していた。次々と襖を開け、部屋を調べて行く。
「絵里姫。お気をつけ召されよ。敵は何処に潜んでいるか解らぬ」
「承知仕った」
書院らしき広間に入った時である。びゅっと風鳴りがして、鋭い鉄棒が繰り出された。「な、ナニ奴?」
「安芸山殿の用心棒を勤める、韓の李である。返り討ちにしてやる」
筋骨質と精悍な体躯、敏捷な身のこなし。相当な武芸者だ。健悟衛門の耳元が衝撃で震えたと思った直後、刀を持つ右手が強かに打ち据えられ、がらっと刀を落とす。絵里姫も叉、胴に鉄棒を突き入れられ、苦悶し膝を折る。
「え、絵里姫。大事ないか」
八方に素早く繰り出される鉄棒。竜巻のような音。犬も次々殴り倒されて行く。と、その時、頭上を遥かに越え、天井すれすれ迄飛翔した弥次郎丸がどおっと斜めに跳び、李の喉笛に喰らいついた。
「ぎゃあっ!」
怯んだ李に得たりと鉄斎が切りつける。すると今まで押し入れに潜んでいた、男が二刀を持って立ち塞がる。
「李殿。助太刀致す。牧長路でござる。安芸山家剣術指南役、二天一流免許皆伝。老いぼれ。お覚悟召されい。刀の錆にしてくれる」
「で、出来る。各々方。三人で束になって歯向かおう」
「ふん。小癪な。両断にしてくれる。とあっ!」
切っ先鋭く左手の小刀が繰り出されるとほぼ同時に右手の大刀が、鉄斎の腹を薙いだ。
「なんの。おうりゃっ!」
ちゃりーんと瞬時に交わった刀が鳴り火花が散る。鉄斎は晴眼の構えから、逆手に刀を下げ、一気に飛び上がり牧の頭上から深々と差し切った。どおっと崩れ落ちる牧。李は健悟衛門と絵里姫が討ち取った。
「強敵は屠った。あとは安芸山を探し出し、首を獲る」
「おうッ。ご家老。流石でござる」
隈なく屋敷内の探索を続けるが、何処へ消えたか、安芸山の姿は見えぬ。
「由紀。おぬしの探索では、必ず邸内にいるのだな」
「間違いありません。昨夜遅くまで梨絵姫様お屋敷で酒を飲み、夜半過ぎ駕籠でこの屋敷に戻った、ア奴の姿、この眼にしっかり留めております」
「者共、訊いたか。奴は必ずこの邸内のいずれかに潜み隠れている。草の根分けても探し出せ。もうじき夜が開ける。そうなれば面倒なことになる。急げ!」
中庭に集合した志士と犬達は四方に散り、虱潰しに邸内、長屋、小屋の隅々を捜し歩く。
「こっちはいないぞ。そっちはどうだ?」
「おらん。野郎何処へ隠れたか」
空が白み始め、志士達の焦りの色は濃くなっていく。米倉、味噌倉、漬物蔵など全ての小屋という小屋を探し尽くしても尚、安芸山の姿は掻き消すように消え、痕跡さえ留めていない。軍団内で最も鼻の効く弥三郎丸に、安芸山が寝ていた布団の臭いを存分に嗅がせ、鼻が利くように被せた冑を取り去る。弥三郎丸は走り去る。暫くするとけたたましい弥三郎丸の鳴声。すわっと皆声のした方角に走る。薄汚い今にも倒れそうな小さな小屋の前で、弥三郎丸が激しく吠えている。戸をこじ開けると堆く炭俵が積み上げられている。炭小屋らしい。炭俵の奥に白髪の老人が蹲って震えている。
「各々方。お出合い召されい!ここに安芸山がいる。引っ立てい!」
佳乃輔と俊兵衛が縮こまる老人を容赦なく引きずり出して、打ち据える。鉄斎は持ち来たった呼子を高々と鳴らす。邸内を探索していた志士全員が続々と集結してきた。
「老いぼれ!貴様、安芸山徹之介に相違ないな。神妙にせい!」
「お、お、お許しを」
「この後に及び何を抜かす。各々方。良く聞け!只今悪の権化、仇敵安芸山徹之介を絡め獲った。これより成敗致す。首差し出せえっ!」
「わ、わ、わたしは何も知らぬ。一弥殿に突然切りつけられた被害者。哀れな老人でござる。こんな爺の皺首獲ってもなんの益もござらぬ。何卒ご放免を」
「我ら八剣士、四十七頭。若殿のご無念晴らす為、死を賭して参った。御免」
鉄斎は若殿より賜った愛刀備前包平を頭上高く振り上げ、一閃した。安芸山の首がごろんと転がった。
「討ち取ったり。この首級、江釣子に持ち帰り、伊藤家累代の墓所に掲げようではないか。勝鬨を揚げる。えい。えい。おうッ」
皆唱和し犬達は雄叫びを上げた。昨夜より降り続いた雪は漸く止んで、朝日がまぶしく差し込んできた。主なき庭の垣根は雪が積もり、鮮やかな赤い寒椿が寒そうだ。志士達は乱れた衣服を整え、髪を結いなおして、姿を整えると、軍旗の上に屠った安芸山の首級を掲げ、粛々と行進した。犬達も口を開いて荒い吐息を吐きながら、鳴声を立てず従っている。大川に架かる厩橋を渡り、荒川に出、藩の御用船、一弥丸に乗り船で帰還する。
「ご家老。我ら第一の目的は果たしました。残るは若殿の助命。如何すれば宜しいか」
「これは難題じゃ。若殿は将軍綱吉公の命により切腹仰せ付けられた。若殿をお救い申すのは将軍以上の権力が無ければならぬ。有り得ぬ・・・・」
暫し黙考していた鉄斎、ふと目を輝かせ、立ち止まる。
「貴公達、一足先に帰参せよ。わしは暫しこの地に止まる」
「ご家老。何かお考えでも」
「いや、直ぐに追いかける。なに、一日二日の辛抱じゃ。江釣子で待て」
唖然とする面々を尻目に鉄斎はもと来た道を引き返し、広尾梨絵姫の館に向かった。館近くで湯に浸かり、購った衣服に着替え、さっぱりした様子で門前に立つ。
「頼もうっ。拙者、奥州和賀藩江戸屋敷留守居役筆頭家老、秋山鉄斎と申す。姫君様に折り入って面談仕りたき儀がござる。ご開門願いたい」
威風堂々とした物言いに門番は思わず門を開けた。
「鉄斎にござる。姫君はご在宅の筈。取り次いでいただこう」
「はいっ。只今」
姫君の御座所に駆けつけた足軽は、庭先に頭をこすりつけ、声を発した。
「お、恐れながら申しあげます。只今門前に秋山鉄斎と申す男が参り、姫君様とのご面会を願っております」
「どのような男じゃ」
「は、はい。身の丈五尺九寸余り。眉目秀麗な男にて痩せて、きりっとしております。如何なされますか」
「鉄斎と申したな。以前安芸山より今時珍しい硬骨漢がいると聞いた。面白い。逢って見よう」
姫のお許しの出た鉄斎は、姫君御座所に罷り出た。
「お初にお目にかかり光栄に存じます。手前秋山鉄斎と申す不束者でございます。姫君にあらせられてはご機嫌麗しう拝見仕りました。実は今暁、蔵前厩橋、安芸山徹之介宅に討ち入り、彼奴の首、頂戴仕りました」
「な、なんと。安芸山の首獲ったとな。わらわが日頃よりその男と近しゅうしているのを知っての言の葉か」
「無論でございます。梨絵様のような誠に麗しく華麗な姫君が、あのような薄汚き老醜に僅かにも情けを掛けることは有ってはならぬことと存じます。是よりはこの私が姫君のお相手仕りましょう」
「その通りじゃ。わらわは一刻も早くあのような卑猥な男より逃れようとしていたところじゃ。そうか、死んだか、目出度いことじゃ。お前は安芸山と違い、秀麗な顔つき。親切そうだ。喜んでお前の世話になろうぞ」
梨絵姫は背筋を真っ直ぐ伸ばし、端然と座って、厳しいが優しい鉄斎に見つめられ、すっかり心を動かしてしまった。安芸山も招じ入れたことの無い、奥の茶室に案内する。
「気に入ったぞ、鉄斎。わらわが茶を一服点てて進ぜよう」
そういうと姫君は自ら茶を点て、秘蔵の茶碗に淹れて薦める。
「美味しうござる。見事なるお手前。感服致しました」
「わらわ、永らく安芸山の世話になっておった。あの男いやらしい手つきでわらわの胸を弄るのじゃ」
姫は目に一杯の涙を浮かべ泣き崩れる。鉄斎は優しく姫の背中を摩り、顔を仰向けにさせ静かに唇を合わせて吸って差し上げる。
「辛かったでしょう。もう大丈夫でございます。あの男は最早この世に居りませぬ。姫様。初めておめもじした時より、私は姫様のことを好きになってしまいました。さあ、抱いてさしあげます。叉口を合わせましょう」
「はい。貴方の口、素敵でございます。ずっとこうして欲しい」
唇を合わせながら鉄斎は囁く。
「姫様。明日切腹を仰せ付かった手前の主人、伊藤一弥の助命願えませぬか?聞くところによれば将軍家綱吉公は戌年生まれで、大層生類に哀れみを掛けておいでとか。この度の私共討ち入りに際し、犬達が大活躍したのでございます。それに一弥様は犬の乳を飲んで育ち、犬をこよなく愛しておられるのです」
愛の囁きの最中であり、うっとり目を閉じ、快感に酔っていた姫はこのことを了承し、そのまま倒れこんで、二人は結ばれた。
翌朝、梨絵姫は綱吉公に面会。あっけなく一弥無罪放免が決まったのである。しかも伊藤家は取り潰しどころか和賀・稗貫・志和三郡が加えられ、十万石の大名となった。程なく帰国した一弥は、隠居を申し出た弥ェ門和重に代わり江釣子二十六代藩主に就任。絵里姫と盛大な婚儀を行った。江戸屋敷留守居役鉄斎は、新藩主加増に伴い、新たに広尾南部坂に新屋敷を賜り、愛妾となった梨絵姫と幸せに暮らした。