朝という名の、まだ
夜は明けなかった。
◇
庭にあるのは、夜と朝のあいだの淡い光だけだった。
荒れ果てた庭に灰がうっすらと積もり、そのうえに夜明けの手前の光が滲んでいた。鳥はまだ鳴かない。風も起きない。世界が夜と朝のあいだで息をひそめていた。
アリシアはその淡い光の中に立っていた。
掌はひらいたままだった。握り潰すための拳にはもう戻らなかった。慈悲は布の下にも氷の下にもなく、ただ外にあった。冷たいまま、強いまま。けれど、ひらいたまま。彼女はもう受け止める器だった。生まれつきそうであった姿に十何年かかって、ようやく戻っただけだった。
少し離れて、灰の底に少年がいた。
ライナは静かに息をしていた。業はまだ彼の中にある。消えてはいない。彼は救われたのではなく、ただ受け止められた者としてそこに在った。これから先も、彼は拾いつづけるのだろう。けれど、もう一人ではなかった。
それだけで充分だった。
◇
そして、見届けた者が光になった。
あの聖女が淡い光のいちばん奥で、静かにほどけはじめていた。倒れたのではない。骸も、血も、痛みもなかった。ただ、そのかたちが端からほどけて、光へ溶けていった。来た所へ帰る者の静けさで。あの伝説の通り、戦わず、討たず、ただ見届けて、還っていく者の。
古い光だった。
宝石箱の底で冷えていたあの印と同じ古さの光だった。アリシアの両の小指に点った、解と希の灯と——同じ色をしていた。聖女の告げた「時が満ちれば」の、満ちた証のように。
光はひとすじになった。
夜明けの色のなかに爪のような細い光が一片だけ残った。聖女のすべてが融けたあとにそれだけが空の縁に掛かっていた。消えたのではない。かたちを変えて、まだそこに在った。いつか、どこかで、また働くために。
◇
そのとき、淡い光の端で、何かがかすかに動いた。
味方とも敵ともつかぬ、まだ像を結ばぬ何かだった。聖女でもなく僧でもない。もっと別のところから、何かがこちらを見はじめていた。それが何かは、まだ分からない。ただ、それが在ることだけが夜明けの手前の冷たさの中で、確かだった。
だが、それはまだ動かなかった。
朝は、まだ来なかった。
その一片の光があっても、夜は明けきらない。庭の外に世界の向こうに晴れぬ闇がなお残っていた。僧の起こした終わりの慈悲は、退いていない。鎮められたのは、中心の少年だけだった。
これは夜明けではなかった。夜明けの手前だった。
アリシアは掌をひらいたまま、淡い光の中に立っていた。受け止める器として。変わった芯と変わらぬ強さで。来るべきものを視ながら、まだ踏み出さずに。
朝という名の、まだ来ない朝の、その手前で。




