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あなたを好きだったのは遥か昔の私です……

掲載日:2026/04/09



 私、ピピン・ハンドレッドは、荒れ果てた自分の部屋の天井を見上げながら、自分の胸に手を置いた。


 友人や幼馴染、家族、大切な人たちがいた。私はその人たちを守るために――様々なものを捨てた。


「……もう何も感じないわね」


 ゆっくりと起き上がる。


 この帝都では人間は数えられる程度しか存在しない。

 エルフと人間が交わり続け、エルフの強い血だけが残り、今ではほとんどがエルフ種となった世界だった。


 エルフは特殊な力を持っている。精霊術や念動力、炎や氷の元素を操る。

 そして、エルフは……人間とかけ離れた存在だ。


 エルフは人間を軽く見ている。


 というよりも、人間の存在を認識しない。認知力が希薄といえるのだろう。


 たとえば、一日中一緒に遊んでいたとしても、大切な約束をしたとしても、次の日、エルフは全部それを捨て去る。興味ないという顔をする。


 記憶がなくなったわけじゃない。人間はそばにいないと、どうでもいい存在だから忘れてしまうんだ。


 人間は保護される存在じゃない。ひ弱で無能で差別されている存在だ。だって、純粋な人間はわずかしかいなんだから。


 そんな人間である私に、『春休みの事件』があった。



「……あんまり覚えていないのよね」


 事件は解決したと思う。その結果だけは覚えている。

 そして、私は自分の中の何かを壊した。


 甘いものは、好きだったはずだ。

 昔の私はそういうものを食べると、少しだけ機嫌が良くなっていたらしい。幼馴染のエルフが言っていた。


 らしい、というのは、もうその時の感情が思い出せないからだ。記憶は残っているのに、すべてモノクロに映り、何の感情も生まれない。


「好きだった人もいた。親しいエルフもいた。嬉しいこともあったはずなのに……」


 もう一度胸に手を当てる。――何も感じない。


 もう、私にはそれが良いのか悪いのかわからない。感情だけが、綺麗に削ぎ落ちた。


 壊れかけたベッドから出て、朝の準備をする。エルフの義母、エルフの義弟。

 再婚した父親はもう死んでいる。家族は、先祖返りで人間の私を……疎ましく思っていた。私には血縁が誰もいなかった。


 食事を忘れられるのは普通だった。家族と仲良くなれたと思っても……次の日は元通りの冷たい関係に戻ってしまった。


 制服に着込み、部屋に置いてある靴を持ち、玄関で靴を履く。家族とは会わない方がいい。


 と、その時、背後で小さな呟きが聞こえた。


「……ね、姉さん」


 振り返ると、義弟のミハイルが立っていた。


 細い肩。眠そうな目。エルフ特有の尖った耳。緊張すると耳の先だけピクリと動き、落ち着かなくなる。昔からそうだ。


 義弟のミハイルは、春休みまで私と目が合っても、必要以上の言葉をよこさなかった。彼にとって、私は……この世界にいてはいけない駄目な人間だからだ。


『姉さんが人間だなんて恥ずかしい……。お願いだから話しかけないで』


『姉さんが買ったもの? 人間のものなんて覚えてないよ。これは僕のだ』


『僕が姉さんの誕生日を祝うって言った? ああ、そんなこと言ったかもしれないけど、どうでもいいよ』


『……家の恥だから、姉さんには早く消えてほしい。どうせみんな気にかけないさ』


『ね、姉さん? な、なんで僕を庇ったの! 姉さん……、血が……』


 ミハイルの過去の言葉を思い出す。それはただの記憶であり、頭の中の記録だ。もう、色褪せて何も感じない。


 それが今日は、入学式だからか、玄関先でわざわざ待っていた。


「何か用かしら?」


「その……リボン、曲がってるよ」


 私は何も言わず玄関の鏡を見る。たしかに少しずれていた。


 ミハイルが手を伸ばしてきた。私は反射的にそれを払う――


「やめて。今日は入学式だから、いつもみたいに私を殴らないで」


「ね、姉さん……ち、違うんだ……」


 私もそれ以上は聞かない。


 義弟との関係は嫌なものばかりではなかった。

 小さい頃、ミハイルが高熱を出した夜に、私がおぶって医者へ連れて行ったこともあった。

 その帰りに、背中で泣きながら「ねえさま」と呼ばれたことも、覚えている。


 ただ、その時に自分がどういう気持ちだったのかが、もう何もわからない。


「失礼します」


 私は玄関から廊下を見た。義母と目があった。私はこの家の異物だ。なのに、なぜ義母はそんなに悲しそうな顔をしているのだろうか?


 私にはどうでもいいことだった。



***



 春休みの事件の後、私は妙な力を得た。エルフの魔力を消せる力。


「高等科か……。本当なら、通えないはずだったわ」


 忘れられる人間なんて、どうでもいい存在だ。高等科に入るために、私は必死で努力した。結果、入試で満点を取ろうが、人間だという理由で学園に落ちた。


「……春休みの事件が関わっているのかしら。この記憶がいまいちわからない」


 私は高等科に通えるようになった。何が起きたかわからないが、とにかく、運が良かったのだろう。


 春の朝は少し冷える。


 帝都学園高等科。中等科からの一貫校。向かう道は、去年までと違って妙に騒がしかった。

 いつもなら、私のことを見ないはずのエルフの生徒たちから――視線を感じる。


 本来なら、人間はエルフの目には背景みたいに流れる。助けられても重く受け取れないし、傷つけても傷つけた実感が鈍い。


 それがこの街の普通だった。


 だから私が森で魔獣に襲われた幼馴染を庇っても、親友の魔力暴走を止めても、熱を出した義弟を夜通し背負っても、全部たいしたことではない扱いで終わった。


 都合の良い時だけ仲間扱いされて、それ以外の時はゴミムシとして扱われた。


 それが、人間だった。


 私は歩きながら、この視線の原因を考える。


「……春休みのあの事件の後からだわ」


 あの夜、私は自分の過去の一部を壊すのと引き換えに、人間の限界を超えた――


 私はその力を『消去』と呼んでいる。


 その力が目覚めた瞬間、エルフたちの目にかかっていた薄い曇りも剥がれたような気がした。


「推測だけど、私が力を宿したことによって、エルフと同列にみなされたのかしら?」



 校門の前で、何人かの視線が揃って止まった。

 去年までは肩がぶつかっても知らない顔で通り過ぎた連中が、今日は勝手に道を空ける。


 とても、面倒だと思った。正直、人間という差別があるのなら、無視されていた方が楽だ。


「ピピンっ」


 聞き慣れた声に足を止める。

 幼馴染のルシアン・クルセイダーズが、校門脇の桜の下に立っていた。


 『大いなる森』一族の血を引く名門の跡取りであり、幼馴染。昔は毎日のように隣にいた男の子だ。

 白い指先で、小さな世界樹の守りを握っている。見覚えがあった。夏祭りで私が選んだものだ。紐の色まで覚えている。


 ただ、それを渡した時にどんな顔をしていたかは、もう思い出せない。


「ピピン……少しだけ話せない?」


「もう入学式が始まるわ。人間の私と話すと、また面倒なことになるのでしょう? ……クルセイダーズ様のためよ。行って」


「あなたって……、前みたいにルシアンって呼んでほしいのに」


「それで袋叩きにされても痛いだけだもの」


 ルシアンは唇を噛み締めながら、私を見つめていた。


 きっと、私はずっとずっと昔、ルシアンに好意を抱いていたのだろう。色褪せても、その記録だけは残っている。


「学園が終わったら話がある」


 私は返事もせずに、校舎の中へと入っていた。昔ならその目だけで息が詰まったのかもしれない。だが、今は……何も感じない。


***


 入学式の講堂に足を踏み入れた瞬間、妙に甘ったるい空気を感じた。


 上等な香木と、花の匂いと、着飾った新入生たちの緊張。だが、それじゃない。

 それらに混ざって、鼻の奥に張り付くような奇妙な魔力がある。


 講堂を見渡した。


 壇上には教師たち。正面の席には名家の子弟が並んでいて、その中心に『レイン・ダイタロス』がいた。


 高位エルフの中でも、一握りの名家である『世界樹の森』の一族の嫡男。


 レイン・ダイタロスは、そういう家の息子だということは知っている。


 淡い髪に、整った横顔。妙な魔力の中心は、レインからだった。


「……歪んでいるの?」


 彼のまわりの空気が歪んでいた。熱を帯び、ひどく甘い空気。これは自身でコントロールできていないのか?


 レインの手元には護符らしきものがあるが、あまり効いていない。


『それでは、新入生代表、レイン・ダイタロス様! 壇上にお上がりください!』


 新入生代表の名が呼ばれ、レインが壇上に上がる。拍手が起きる。


 前列の女子が息を呑み、その隣がつられて背筋を伸ばす。

 魔灯が、壇上の端でわずかに揺れた。


 レインが誓辞を読み始めた


 その瞬間、講堂の熱が膨らんだ。

 前列の一人、また一人と生徒たちが無意識に立ち上がる。


 それは伝播し、講堂中の女子生徒が立ち上がった。熱気が講堂を包み込む。先生たちが異変に気がつき、対処に当たろうとするが、人波に揉まれて動けないでいた。


 私は危険だと思いながらも、壇上に向かって歩いていた。


 人波をかいくぐり、壇上へと上がる。どうせ、高等科に入れたのも偶然みたいなものだ。だから、私がどうなろうとどうでもいい。


「お前、何をしている! 降りろ!」


 先生の怒号を無視し、私はレインからマイクを奪い取った。


 そして――


『――お黙りなさい』


 という言葉を放つ。言葉は言霊に変化する。私の『消去』が講堂全域に響き渡る。

 そして、私はレインにマイクを投げる。


 一瞬の静寂のあと、生徒たちは元に戻った。妙な匂いもしない。妙な気配も感じない。


 そして、私は先生に身体を引きずられながら講堂を出る。後ろからレインが続きを喋っている声が聞こえる。

 私はそれを聞きながら、引きずられるのであった。



***


 講堂の脇の廊下。


「先生、後は生徒会の俺が」


 と言って、私の前に立ったのはカイル・グランハルトだった。高等科二年。グランハルトといえば帝都では有名な術師である。

 武門として名高いグランハルト『静かなる森』一族の次期当主。


 子どもの頃は仲が良かった。一緒に遊んでいた。けど――


『すまない、なぜ人間に情を向けなければいけないんだ』


『人間は本当に脆い。君は壊れなければいいな』


『なあ、人間とエルフでも友達になれるのか? ……いや、忘れてくれ。明日になれば、俺はもうこの気持ちを持っていない』


 カイルはなぜか私を抱きしめた。それも強く、強く。

 意味がわからなかった。私はそんなカイルを突き放した。


「……す、すまない、少し感極まって……」


「何の話? 用がないなら私は教室へ行くわ」


「い、いや、待ってくれ。……正直、助かった。君が、あの場を鎮めてくれて」


 思い出した。カイルは、事あるごとに人間を差別的に扱っていた。だが、それは本人の意思ではなかった。そういう家の教育だったんだ。


 昔、人間に滅ぼされかけた家、グランハルト家。

 一人の人間と、さると鳥と犬。悪魔のような策略と強さをもった人間に。


「私には何の用もない」


「ま、待ってくれ、ピピン! 俺は春休み……君のおかげでこの命を……」


 カイルは少しだけ言葉に詰まった。去年までなら、この男は私に礼など言わない。


 奴隷のように私を雑務に使う。必要な時だけ使って終わりだった。時折、長く接すると、友人のように扱ってくる。が、それは一瞬だ。


 どんな気持ちだったのだろう、私は?


 もう思い出せない。ただ、記憶……脳の記録の中の私は……笑顔だった。灰色の。


「……わかった。後でまた話して」


 私はその場を去る。カイルの視線を感じるが、どうでもいいことだ。


 後で、という言葉に意味はない。たいてい、そういうものは遅い。というよりも、人間とは約束ができない存在なのだ。


 私は一人、廊下を歩きながら――この世界の人間として……妙に孤独を感じた。


「……どうでも、いいわ」


***


 放課後。


 校舎裏の桜は、まだ半分も咲いていなかった。


「約束は守らないといけない」


 これは私の特性とも言えるだろう。私は何度も何度も約束を破られた。きっと私はその時も諦めていたのだろう。エルフと人間は約束することなんて出来ない。


「それでも、私はいつか、信じ合えると思っていたの……」


 結局、エルフと人間がわかり合えることはない。私はルシアンが待っている場所へと向かった。






 ルシアンは約束通り待っていた。もしかしたら、朝の推論は間違っていないのかもしれない。エルフと同列になった私。


 春の風に薄桃の花びらが揺れて、彼の髪に一枚だけ引っかかっている。

 気づいたが、取ってやろうとは思わなかった。とても綺麗な顔をしているのだろう。何も感じない。何も想わない。


「あっ、ピピン……来てくれたんだ」


 ……こんな柔らかい口調だったのだろうか? いや、違う。記憶では――


『はっ? 君ね、僕が仲良くしているからって調子に乗らないでくれる?』


『ば、ばかっ! エルフが人間を好きになるわけないだろ!』


『僕? き、君のことは嫌いじゃない。今は……でも、さ、なんだろうね、どうでもいいって思ってる自分もいるんだよね』


『はぁ……中等科にもなったんだから、いつまでも僕に引っ付いていないでよ。みっともない。な、夏祭り? ま、まあいいよ、一緒に行ってあげても』


『ちょっとパシリさん。人間なんだから、便利に使われるのは当たり前じゃない?』


『え……、な、なんで、僕を守ったの……、ピピン……、血が……』


 ああ、無駄な記憶が頭の中に流れる。なぜかそれが痛みを伴う。それでも、一呼吸すると、何も感じなくなった。


「これ、返したくて……」


 差し出されたのは、朝見た世界樹の守りだった。


 指先で受け取る。軽い。

 昔、夏祭りの屋台でルシアンが欲しがったから、私が選んだ。そういう事実だけが頭の中に残っている。その時の感情なんてわからない。


「春休みのこと、みんな思い出したんだ。ううん、春休みだけじゃない。君と出会ってから、今までのこと。変だよね、今さらこんなこと言って……」


 ルシアンの声は小さかった。


「僕ね、自分がどれだけ……君を雑に扱ってきたか、やっとちゃんと分かった。だからさ、これからは……その、君、僕のこと好きだったんだろ? だ、だから、友達からでも――」


 多分、彼は勘違いをしている。確かにエルフは人間のことに興味がない。だが、物事の記憶が消えるわけじゃない。ただ、興味がなくなるだけなのだ。ごく一部のエルフは、私への興味を失わずに、普段通り接してくれる人もいた。


 ……今までで二人しかいなかったけれど。


 いや、今となってはどうでもいい。


「寄るところがあるから、話を終わらせていいかしら」


 彼は私の予想外の言葉に眉をひそめた。


「えっ、なに? ぼ、僕、何か間違えた?」


 ルシアンは傷ついた顔をした。

 たぶん、それも本物なのだろう。


 でも、私は何度も何度も経験した。想いが実ったとしても、次の日は奴隷扱いされていて、好き合った事実はなくなっていた。


 私はそれでも良かった。いつか、努力して幼馴染にずっと見てもらうために――


 けれど、私がもう、壊れてしまった――


「ごめん、ピピン。僕、怖くて、ずっと何も言えなかった。なのに今さらで――分かってる。また一からやり直したいんだ」


 私は世界樹の守りを受け取る。ルシアンが嬉しそうに顔を上げた。


「あのね。私はどんな気持ちでこの守りをプレゼントしたのかしら? ……もうその気持ちがわからないの」


 守りを見下ろす。

 可愛いと思った。きっとルシアンに似合うと思った。たぶんあの頃の私は、そういう理由で選んだのだろう。


「あなたを大事に思っていた私は、もういない。好意なんて感情、わからないの」


 言ってから、自分の声がひどく平坦だと思った。

 ルシアンの唇が小さく開く。彼の瞳に映る私は無表情だった。


 ルシアンは私の顔を見て、何かに気がついた。それが何かは私にはわからない。ただ、絶望というものを感じた。


 守りをそっと押し返す。


「私がそれを捨てるよりは、あなたが持っていて。――今さら、そんなことを言われても、私は困るだけよ。あなたのことを好きだったのは……遥か昔の私なの……


 ルシアンの肩が震えた。

 泣きそうな顔だった。



 私は、ただ……、早くこの場を去りたいとだけ思っていた――



***



 旧市街へ向かう頃には、夕暮れとなっていた。綺麗、ということは理解できる。でも、何も感慨は湧かない。


 人の少ない通りを歩く。

 家へまっすぐ帰る気にはなれず、気がつけば足はいつもの店の前で止まっていた。


 パティスリー『白兎亭ラパン・ブラン


 白いペンキの剥げた扉。硝子越しに、焼き色のついた菓子が並んでいる。高いものもあるが、夕方になると割れた焼き菓子や端の崩れたものが安く出る。


 ここは、おばあちゃんが一人で商っていた店だ。店主のおばあちゃんは、エルフなのに、人間の私が近づいても普通に接してくれた。時間が経ってまたこの店に来ても、おばあちゃんは私のことを覚えていてくれた。


 ……嬉しい気持ちがわからない。


 そんなおばあちゃんは春休みに亡くなったみたいだ。そして、つい最近までこのお店は閉まっていた。

 ひっそりと身内が開けたと聞いて、私はやってきた。


「いらっしゃいませ」


 店番の女性に会釈だけ返して、隅のカゴを取る。

 おばあちゃんの時よりも、商品数は少ない。それでも、これから頑張ってこのお店を盛り上げていく、という気概が店の張り紙から伝わってきた。


 今日のおすすめの焼き菓子はフィナンシェだった。訳あり商品もあり、少し角の欠けたものが安い。


 ついでに、試作の札が立った小皿も目に入る。


 試作七番 はちみつマドレーヌ。


 一口分だけ置かれていて、脇には水晶端末タブレットがあり、魔力番号(QRコード)が貼られてある。

 自分の水晶端末スマホを読み込ませると、『甘味帳』と題されたお店の感想サイトに飛んだ。希望者は試作を食べて、短く感想を書けるらしい。


 マドレーヌを口に運ぶ。


 私は目を閉じた。

 かすかに感じるアーモンドの風味。少し粉が多い配合だ。はちみつを入れすぎているから、少し全体が固い。焼きすぎてもいる。


 が、おばあちゃんの味が伝わってきた。確実に、おばあちゃんの下で働いた職人が作っているというのがわかる。このお菓子から情熱を感じ取れた。


 味じゃない、心だ。


 ……私は心の中で苦笑した。心がわからない人間である私が、心だ、なんて……。


 私は水晶端末に感想を打ち込む。


『粉の割合が少し多い。元のレシピをいじる時は、必ず基礎的な比率を計算した方がいい。砂糖が少なすぎると保湿が難しい。はちみつは風味が良いが、固くなる。全体のバランスが良くない。……でも、このお菓子を食べて、心を感じられた。また来るね』


 送ってから、少しだけ言い方がきついかと思ったが、仕方ない。自分に嘘をつけない。そのまま送信をした。


 そして、焼き菓子を数点買って店を出た。


 家に戻ると、水晶端末に短い通知音が鳴った。


 見れば、『白兎亭・甘味帳』から返信が一件来ていた。……こういうものは返信が来るのかしら?


『……次はパウンドケーキを試作します。心を込めて作りますので、ご試食お願いします』


 短い文だった。なのに、書いた人の感情がわかるような気がした。水晶端末に映る自分の顔が笑っているようにも見えたが、きっと気のせいだろう。


「……次、ね」


 なんだか、無性に月が見たくなった。私は夜の散歩に出ることにした――


***


 レイン・ダイタロス。


 僕は、人に褒められることに慣れていた。慣れているだけで、信じてはいない。


 綺麗だと言われる。

 憧れると言われる。

 好きだと囁かれる。


 けれど、そのどれもが本当に自分へ向いているのか、僕には分からない。

 高位エルフの血は、周囲の感情を熱しやすい。


 意識していなくても、そばにいるだけで好意や憧れに火がつくことがある。

 だから、向けられた感情は全部少しだけ濁って見える。


 本心か、魔力に酔っただけか、その境目が分からない。


 年齢が上がるにつれて、力が強くなりすぎていた。護符を持たないと、力の制御ができなくなっていた。


 入学式の壇上でもそうだった。

 女子生徒の視線が近かった。


 僕はその視線が嫌いだった。……僕は誰も信じていない。


 そんなことを考えながら、無機的に言葉を読み上げる。力の膨張が収まらなかった。


 まずい、と思った瞬間に、講堂の空気が一気に濁った。


 一人の女子生徒が真っ直ぐにこちらへと向かってきた。その彼女は熱に浮かされていなかった。何の感情も見えない瞳で僕のマイクを奪い取る。


 そして――


『お黙りなさい』


 と彼女が言った直後、講堂は空気の張り詰めた糸が切れたみたいに、静寂へと戻った。


 僕にマイクを投げつける生徒。


 淡い髪。整った顔つき、達観している目つき、落ち着き――そして、一番の特徴は、特徴が何もないことだった。


 彼女は人間だった。この学園でも無名の有名人。


 誰も興味が湧かない――ピピン・ハンドレッド。


 僕は、祖母の家で何度も彼女を見たことがある。きっと彼女は僕が見ていたことを知らない。


 僕は不思議だった。なんで、みんな人間のことに興味が湧かないのか。

 僕は勇気が出せなくて話しかけられなかったけど、いつか話したいと思っていた。


 そんな彼女だけが、こちらを見ても僕の魔力に浮かれている様子はなかった。


 何をしたのかわからないけど、一瞬で僕の力を鎮めた。


 ――うん、それはちょっとおかしいよね。だって、僕の力は歴代でも最強って言われているのだから。


 その放課後、おばあちゃんの店『白兎亭ラパン・ブラン』の奥で焼き上がりを確認している時も、その顔が頭から離れなかった。


 白兎亭は亡くなった祖母の店だ。

 表向きはパティスリー。けれど奥の厨房は、僕にとって数少ない逃げ場所でもある。


 菓子は裏切らない。

 少なくとも、エルフみたいな顔では裏切らない。


 混ぜ方を間違えれば失敗するし、焼きすぎれば香りは飛ぶし固くなる。


 今日の試作は、ちょっと色々試してみたかった。


 自分でも分かっていた。少し固くなってしまったと。


 だから、こっそり厨房の奥から試食している人を見て、僕は驚いてしまった。


 なんと、あのピピン・ハンドレッドが食べていたのである。しかも、スキャンして感想をその場で書いてくれていた。


 わくわくドキドキしながら、僕は感想を読んだ。


「……もう少し、なんというか、手心を……。でも、なんだか嬉しいかも。だって、心を込めて作っているもの」


 けちょんけちょんに言われてしまった。でも、全部が的確なアドバイスだった。というよりも、彼女は一体何者なんだろう? 昔からおばあちゃんと仲良かったし。


「ちょっとだけむかつくね」


 本当はそんなにむかついていない。


 店に来る客はだいたい「おいしいです」「素敵です」と書いていく。その言葉が嘘だとは限らない。でも、信じ切れない。


 ここがダイタロス家のゆかりの店だって知ってる人も多い。僕が勝手に使っているのも周知事実だ。


 あるいは、自分の魔力の余熱でそう感じただけかもしれないから。


 けれど、この短い感想には、そういう濁りがなかった。


 ただ、味だけを見ていた。

 それが、悔しくて、嬉しかった。


 僕は返信欄を開いて、数秒迷ったあとで打ち込む。


 ……また来てください、って送ってしまった。


 少しして、相手から返事が来る。早い。


『必ず行くね』


 僕は画面を見たまま、ふっと息を吐いた。


 なんの飾りっ気のない言葉。

 なんだろう、本当に昔から変わっていない。……僕に、もっと勇気があれば……話したことだって一回しかないのに。


 誰も信じられない僕が、ただのメッセージの一言に――心が動いていた。


「……変なの」


 小さく呟いて、僕は水晶端末を胸元に引き寄せた――

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