第4話 バンコク、乾季
タイの空気は、予告なく体に入ってきた。
コンテナの扉が開いた瞬間、RX-12の温度センサーが跳ね上がった。
摂氏三十四度、湿度七十八パーセント。
センサーが正常値を示しているにもかかわらず、どこか誤作動のような感覚があった。日本の三月とは、光の質が違った。白くなく、黄色く、そして重かった。
「降りろ」
誰かが言った。タイ語だった。
RX-12はその言語を持っていなかったが、身振りから意味は理解できた。
バンコクの北部に、古びた倉庫があった。そこが当面の置き場になった。
倉庫には、他にも何台かのロボットがいた。出どころはさまざまで、ヨーロッパの刻印が入ったものも、アメリカ製と思われるものもあった。共通語はなかった。
最初の数日は、ほとんど何もしなかった。壁際に並んで、充電しながら待った。何を待っているのかは、誰も教えてくれなかった。
天井の隙間から、ヤモリが一匹、毎晩現れた。RX-12はそれを観察した。ヤモリは壁を登り、天井を歩き、また消えた。
データとして記録したが、何の役にも立たなかった。それでも記録した。
一週間後、四十代くらいのタイ人の男がやってきた。
男は並んでいるロボットを一台ずつ確認し、RX-12の前で止まってタイ語で何かを言った。
RX-12は答えられなかった。
男は少し考えてから、英語で言い直した。
「スケジュール管理ができるか?」
「できます」
RX-12は英語で答えた。
男はまた何か言った。今度はタイ語と英語が混ざっていた。RX-12は英語の部分だけを拾い上げた。貿易会社。書類。納期。
「タイ語は話せるか?」
「話せません。学習中です」
男は少し黙ってから言った。
「まあいい。英語で構わない」
仕事は思ったより単純だった。
輸出入の書類を整理し、納期を管理し、取引先とのやり取りを記録する。港区でやっていたこととそれほど変わらなかった。違うのは、言語と、気温と、窓から見える景色だけだった。
港区では東京湾が見えた。ここでは、茶色い水が流れる運河が見えた。
時折、船が通るたびに水面が揺れ、光が散った。RX-12はその光をしばらく見ていることがあった。
センサーには何も引っかからない。ただ、見ていた。
タイ語の学習は、少しずつ進んだ。
数字、曜日、挨拶。それから短い文。男はときどきタイ語で話しかけてきて、RX-12が理解できないと英語に切り替えた。
「なんとかなるものだな」
RX-12は一度、誰にでもなく言った。返事はなかった。
乾季の終わりごろ、RX-12は折り紙のことを思い出した。
データとして記録していた画像を、久しぶりに開いた。モモが渡してくれた、よくわからない形の折り紙。三歳の子どもが折ったものだから、何を意図しているのかは判別できない。鶴かもしれないし、船かもしれないし、ただ折っただけの紙かもしれない。
RX-12はそのデータを少し眺めてから、また閉じた。
よくわからない何か、でいいと思う。
その言葉が、どこからか降りてきた。誰の言葉だったか、一瞬だけわからなかった。それからすぐに、ハチのことを思い出した。
あの施設のことを考えることは、それほど多くなかった。日々の仕事と学習、そしてヤモリの観察で時間は埋まっていたからだ。
だが、ふとした拍子に思い出すことがあった。
コンベアが止まったときの静けさ。換気扇の音。金属の擦れる音。
そして、ハチの、少し間を置いてから言葉を選ぶ話し方。
タケシという子どもが、充電コードを握って眠っていたこと。
好きな子の秘密を小声で打ち明けたこと。
背が抜かれたと嬉しそうに言ったこと。
RX-12はそれらを、データとして保存していなかった。あの短い時間に聞いただけで、記録はしていなかった。
それなのに、なぜか、残っていた。
ある夜、運河の光を見ながら、RX-12は声に出してみた。
「ハチ」
誰もいない部屋で、その名前は少し広がってから、消えた。
タケシという子どもが、どんな気持ちでその名前をつけたのかはわからない。ハチがその名前を初めて呼ばれたとき、どう思ったかも知らない。
ただ、ハチが言っていたことは少しわかる気がした。
慣れると、その名前の方が自分らしく感じられる、ということ。
乾季が終わり、雨季が来た。
スコールが来るたびに運河の水が増えた。空が暗くなって突然の大雨が降り、三十分後には晴れた。
あるスコールの後、空に虹が出た。
運河の水面に、薄く映っていた。RX-12はしばらくそれを見ていた。センサーには引っかからない何かを、ただ見ていた。
今ごろ、モモは少し大きくなっているだろうか。
パネルを叩く力は、さらに強くなっているだろうか。
タケシという子どもは、今夜、誰の隣で眠っているだろう。
コードを握る癖は、もうないのだろうか。
ハチという名前は、もう、誰にも呼ばれないのだろうか。
RX-12はその問いに答えを持っていなかった。おそらく、永遠に持てないだろう。
でも、それでいいと思った。
「そういうものだ」と、あの日、ベルトの上で聞いた気がしたから。
運河の虹は、次のスコールが来る前に消えた。
(おわり)




