✦ 書かれた物語 ― 終 ―(最終話・後編)
※この章は作中作です。
読んだあとで、同じ場面が違って見えます。
本編だけでも追えます。
本編は第十一話で完結します。
『ルビー・イモータル、時を奪われる前に』
✦✦✦ 終わりの形 ――ルビー
あれから、書庫の窓に手をかけることはなかった。
逃げる道を断ったあと、ルビーは長く考えた。
正しかったかどうかは、分からなかった。
外へ出ること自体は、怖くなかった。
ただ、外に出た自分の姿を想像してしまった。
次に生まれる砂時計の子の存在を知りながら、何もせずに生きている自分を。
刻砂の儀の前夜だった。
ノックの音がした。
「明日です」
扉越しに、ゼットの声がした。
「ええ」
「では、失礼します」
足音が遠ざかる。
計画が動き出したのだと分かった。
それでも、朝はいつもと同じように始まった。
手の甲の砂の粒だけが、昨日より早く落ちていた。
ルビーは用意された衣に袖を通した。
それは何度も着たはずのものだった。
神殿へ向かう馬車の中には、ルビーとゼットだけがいた。
二人とも揺れに身を預けていた。
前夜に、迷いは消えていた。
行かない、という気持ちだけが残っていた。
それでも、ゼットが何かを言えば、話は変わるかもしれなかった。
だが、彼はその機会を、最初から差し出さなかった。
刻砂の儀の後の巡行に紛れて逃げる。
それが、ゼットの用意した道だった。
ただ、それは選ばなければ、何も起きない道でもあった。
立ち入りを禁じられた一帯が、前方に近づいてきた。
その奥に、神殿がある。
馬の歩調が、わずかに乱れた。
ゼットは、迷わず腰を浮かせた。
その直後だった。
馬が、怯えたように嘶いた。
ゼットの名を呼ぶより先に、身体が沈んだ。
床に伏せたゼットが、扉に背を向けるようにしてルビーを抱え込む。
頬に、ゼットの衣が触れた。
馬車の扉が、外から開いた。
刃が、ゼットの肩越しに見えた。
それは、防ぐには近すぎた。
ゼットの動きが、一拍、止まった。
刃が、突き立てられたのだと分かった。
硬いものが当たった感触が、抱えられた腕越しに伝わってきた。
「お前」
今日、合流するはずだった、ゼットの仲間の一人だった。
刃先が、引かれた。
間合いは、まだ危険なままだった。
ゼットは、振り返りざまに男の手を押さえた。
乾いた音を立てて、刃が床に落ちた。
外で、声が上がる。
男は、すぐに取り押さえられた。
血の気が一瞬で引いた。
「ルビー様、お怪我は」
「大丈夫よ」
自分の声が、震えていることに、ルビーは気づいた。
胸の奥で鼓動が早まり始める。
ゼットの背が近い。
衣が、濡れている。
ルビーはゼットの脇に腕を差し入れ、崩れかけた体を支えようとした。
だが、そのまま床へ倒れ込む。
ゼットは、肩で息をしていた。
その呼吸が途切れる瞬間を、想像してしまった。
この人が、ここにいなくなる可能性を。
ルビーは、ゼットから目を離せなかった。
狙いは、砂時計の子だった。
それは、疑いようがなかった。
偶然ではない。
わたしがこの国で、この役割を担っている限り、何度でも起こり得る。
なぜそう思ったのか、言葉で説明することはできない。
ただ、あの門で祈るたびに、いつも同じ感覚があった。
ここで受け止められなかったものが、外へ流れていく。
何を差し出しているのかは、分からなかった。
けれど、その分、どこかで誰かが引き受けている気がしていた。
いまの出来事が、あのときの違和感に、形を与えてしまった。
本を読んで知ってしまったことがある。
この国の外には、病があり、飢えがあるということ。
ゼットも、その仲間も。
その後ろにも、何かを奪われてきた人間が、連なっている。
その仕組みの中心に、自分がいることを、いまになって突きつけられただけだった。
「わたしがここにいる限り、終わらないのね」
ここまで来てしまった以上、もう関係ないとは言えなかった。
「もし、終わらせられるとしたら。それを望みますか?」
ゼットの声は、途中でわずかに掠れた。
ルビーは、すぐには飲み込めず、問い返した。
「何を?」
「この永遠をです」
そんなことは、考えたこともなかった。
「わたしが望んでいいものなの?」
ルビーは、唇を結んだ。
「望んでる顔だ」
その一言が、二人の距離をあの頃に戻した。
「終わらせたいわ。でも――」
ゼットは、ゆっくりと指先を動かした。
衣の内側から、何かを取り出す。
「これを」
「永遠を終わらせるためのものです」
それは、指輪だった。
無色透明の宝石が、ゼットの手のひらで、光を返していた。
見覚えがあった。
昔、一度だけ、指に通されたことがある。
「これは、アンセル様の指輪ね」
「ええ。使われるときを、待っていました」
「いまなら応えるはずです」
同じ指輪なのに、見え方がまるで違った。
自分が、何を望んでいるのかを、はっきりと意識させられた。
「わたしの選ぶ道ね」
外で、医療の者を呼ぶ声が上がった。
到着は早かった。
状況を一目見て、指示が飛ぶ。
「心配はいりません」
ゼットは、そう言って、神殿とは反対の方向へ運ばれていった。
ルビーは、その姿を追わなかった。
代わりの馬車が、すぐに用意された。
揺れの中で、握った指輪の感触だけを確かめていた。
馬車は、神殿の正面で止まった。
儀式の間の扉は、すでに開かれていた。
高い天井。
光を落とすためだけに設えられた窓。
誤差というものが、入り込む余地がない。
刻砂の儀は、例年通りに始まった。
祭壇も、命脈井戸も、人々の配置も、何一つ変わらない。
ルビーの右手には、ひとつの指輪が嵌められていた。
だが、誰もその手元を見ていなかった。
人々の目は、儀式だけを追っていた。
砂時計が浮き上がり、命脈井戸の縁に収まった。
赤い砂が、落ち始める。
ザー……ザー……。
砂の音も、光脈の光も、去年と同じだった。
だが、砂の落ち方がどこか違う。
命脈井戸へ向かうはずの流れが、乱れていた。
砂が、落ちきれずに留まろうとしている。
ザー……という音が、均一さを失った。
砂時計の中で、赤い砂が、迷っているように見えた。
その異変を拾ったのは、ルビーだけだった。
ルビーは、両手を組み、胸元へ引き寄せた。
祈った。
終わらせるなら、ここで。
奪うことを続ける仕組みごと。
砂時計の中で、赤い砂が止まった。
直後、粒子は落ちることを忘れ、内部に、渦を生み出した。
祭壇の周囲で、ざわめきが起きた。
砂時計の下が、透けて見えた。
ルビーにだけ。
目の前の地面が、ほどけた。
命脈井戸の内部が、そのまま視界に現れている。
底は見えない。
だが、井戸の内壁から、光の線が伸びている。
一本ではない。
根のように。
絡み合い、分かれ、地の奥へ潜り込んでいく。
それは想像ではなく、いま見えている。
命脈井戸から始まり、神殿を抜け、街路の下へ、家々の足元へ、国境へと伸びていく。
一本一本は、驚くほど細い。
指で触れれば、容易く断ち切れてしまいそうなほどに。
それでも、そのすべてが確かに脈打っている。
この国は、巨大な建造物でも、理念でもなかった。
無数の光脈の上に、無理やり成立させられた体系だった。
ルビーは、それを見てしまった。
次の瞬間、光が、戻り始めていることに、ルビーは気づいた。
集まってきている。
国中へ張り巡らされた光脈の内側を、光だけが逆向きに走り、命脈井戸へと引き寄せられていく。
その流れの中に、喜びと呼ばれるものも、嘆きと呼ばれるものも、区別なく混じっていることが、分かってしまった。
井戸は、それらを選り分けなかった。
光はすべて、等しくその中へ収められていった。
命脈井戸は、耐えきれないほどの明るさを帯びていった。
白さを増すのと同時に、砂時計の内部まで、同じ色になっていった。
祭壇を囲む人々が、光から目を庇った。
誰も、声を上げられなかった。
起きてはいけないことが起きていると、その場の全員が、同時に理解していた。
命脈井戸に集められていた光が、一気に砂時計へ流れ込んだ。
表面に、細い亀裂が走る。
そのまま、砂時計は音もなく砕けた。
永遠は、そこで終わった。
散った光がひとつに集まり、赤い宝石になった。
それはゆっくりと落ちてきて、ルビーの手の中に収まった。
指輪の石と、寸分違わぬ形をしていた。
色だけが違っていた。
それは、かつて砂時計の子の始祖が、神々と「遊び」をしたときに渡されたものに似ていると、言い伝えられている。
神々は、勝敗には興味を示さない。
ただ、遊びのあとには、必ず何かが残る。
残るものが、祝福だったのか。
罰だったのか。
あるいは、ただの置き土産だったのか。
それを正確に語れる者はいない。




