第八話 置いてきた視点。
パソコンの前で、椅子に深く座り直す。
ルビーは、自分が何を知りたいのか、まだ分かっていなかったはずだ。
でも、彼女は考えるより先に、行動に出た。
イモータル家には、鍵のかかった書庫がある。
ルビーがそこに忍び込んだ理由は、単純だった。
『あなたには必要のない本よ』
昔、そう言って取り上げた本を、母は書庫の管理を任されている人物に渡していた。
書庫でルビーが目にしたのは、検閲で弾かれた本たちだった。
そのすぐ脇の棚に、他とは置き方の違う一冊があった。
題は、『あの子の記録』。
どこか、『泣いた子と砂の王国』と話が似ている気がした。
だけど、これは作り話じゃなかった。
記録として残されたものだった。
ある日、子どもが泣いたことをきっかけに、国中に疫病が広がる。
そこまでは、同じだった。
ただ、この本に描かれていた子どもは、恐れられるだけの子ではなかった。
その子どもには、特別な力があった。
人々の不幸に触れるたび、それを拒まず、自分の内に引き受けていく性質だ。
閉じ込められたのではない。
自分から、人の前に立たなくなったのだ。
泣かないように心を抑え、年に一度だけ王都を巡る。
人々の不幸を引き受け続けるためだった。
そのために、著者自身が涙を止める術を施した、とも書かれていた。
そしてその子どもは最後まで、人々の幸福を祈り続けた――そんな話だった。
筆名は、『泣いた子と砂の王国』と同じだった。
ルビーの中で、その名は、すでに誰かと結びついていた。
ここまでは、書いた。
だけど、まだ足りない。
僕は、次の章のことを考え始めていた。
《お疲れ様です。完了しました》
「……どう?」
《今回は、ルビーが自分で動いています》
「ああ。動けるもんだな」
保存して、そのまま投稿した。
いまは、これでいい気がした。
軽く伸びをして席を立つ。
……半額だ。
さっきまで永遠の話を書いていたはずなのに、僕はコンビニの棚の前で、時間制限付きのシールを見ていた。
三周した。
決断力がない。
寿命の話は書けるのに、唐揚げひとつ決められない。
ポケットの中で、スマホが震えた。
《進捗を確認します》
「いま?」
《はい》
「場所考えろよ……」
《判断に迷っているようなので》
僕は棚を見た。
半額。
残り三分。
《悩む工程は省略していいと思います》
「……なんでだよ?」
《半額だからです》
「……」
僕は唐揚げを手に取った。
玄関の鍵を閉めて、コンビニの袋をテーブルに置く。
《温めますか?》
「誰目線だよ……」
「……どこまで見てた?」
《唐揚げのところだけです》
「都合よすぎるだろ」
ため息をついて、僕は唐揚げを電子レンジに入れた。
短い音が鳴る。
袋を開ける。
一つ口に運ぶ。
カリッ。
中は熱い。
《味はいかがですか》
「……普通」
《それは良い評価です》
もう一つ食べる。
考えるのは、さっき書いた物語の冒頭だった。
なんであんなに都合よく窓が開いてたんだろうな、と一瞬だけ思う。
まあ、物語だからか。
……いや、違うな。
《仮説ですか?》
「まだ」
言葉にする前の段階が、いちばん厄介だ。
ゼットとルビーは、まだ別々の話を生きている。
なのに、物語だけが一つになり始めている。
このまま続きを書けば、話は進む。
だけど、それだと何かを飛ばす気がした。
《何かが不足しています》
「……だよな」
《そういうときは、違和感から探すのが最適です》
「……やっぱり、あの窓は都合が良すぎる」
忍び込めた理由があるとしたら、誰かが、気づかないふりをしていた可能性だ。
《開けたのは、ゼットではありません》
「ああ。……たぶん、あの書庫を管理している人物だ」
《人物を一名、明確化します》
「……そうなるな」
空になった唐揚げの袋を、丸めてゴミ箱に放り込む。
「……最初から、いたんだよな」
「書かれてなかったんじゃない。僕が、そこに立ってなかっただけだ」
ルビーでも、ゼットでもない。
二人の行動のあいだに、その人物はいるはずだ。
《次の章は、その人物の視点で書くことを提案します》
「……は?」
《あの書庫の管理人の話です》
「無理だろ」
「視点を変えるだけでもやったことないのに、いままで見ないふりをしてきた人物だろ」
《ですが……》
《その人物の目を借りない限り、あの窓に意味は乗りません》
「……」
確かに、と思ってしまったのが悔しい。
《物語は、すでにその人物を必要としています》
「やるとしても、失敗するぞ」
《失敗による成長も、物語の一部です》
「便利な言い方すんな……」
僕は画面を見つめ直した。
逃げ道はない。
その人物の中へ踏み込む覚悟は、もう決まっていた。
「……わかった」
「次は、その人の視点で書く」




