第5話:最終決戦、国税局。勇者は剣を捨て、電卓と六法全書で「鬼」を殺す
決戦の朝、空は皮肉なほどに晴れ渡っていた。
俺とアリエルは、王都の中央区画にそびえ立つ、威圧的な灰色の建物の前に立っていた。
『王国財務省・国税局 合同庁舎』
その巨大な石造りの門は、魔王城のブラックゲートよりも重苦しく、行き交う人々は皆、生気を吸い取られたゾンビのように青ざめた顔で書類を抱えている。
「……ここが、ラストダンジョンか」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
腰に聖剣はない。
今の俺の武器は、アリエルが一週間かけて作り上げた厚さ5センチにも及ぶ『確定申告書・決算報告書(控)』と、大量の証憑書類だけだ。
「行きましょう、勇者様。9時の開庁と同時に突入します」
アリエルは戦乙女のように凛とした表情で、眼鏡の位置を直した。
彼女のリュックには、予備のインク、電卓、そして万が一のための「判子(認印・実印・銀行印の三点セット)」が装備されている。
「作戦通りに。余計なことは喋らないでください。質問には『はい』か『いいえ』、あるいは『税理士に任せています』とだけ答えること。いいですね?」 「あ、ああ。分かってる」
俺たちは深呼吸をして、自動ドア(魔法駆動)をくぐった。
◇
窓口は戦場だった。
確定申告期限の前日。駆け込みでやってきた冒険者や商人たちが、怒号と泣き言を叫びながら職員に詰め寄っている。
「だから! ダンジョンの罠にかかって壊れた鎧の修理代は経費だろ!?」 「領収書の日付が3年前ですねー。これじゃ落ちませんよー。次の方ー」
無慈悲な事務処理で屍が積み上がっていく。
俺たちはその列を掻き分け、特別窓口へと向かった。
「所得税の申告に参りました。レオ・アークライトです」
俺が名前を告げると、窓口の空気が一変した。
ざわめきが止まる。職員たちが顔を見合わせ、奥の部屋へ内線連絡を入れる。
「……お待ちしておりました、勇者様」
数分後、奥の重厚な扉が開き、あの「黒いスーツの二人組」が現れた。
国税局特別調査部門・統括官のヘルガと、部下の眼鏡男だ。
ヘルガは俺の手元にある分厚いファイルを見ると、薄い唇を微かに歪めた。
「期限ギリギリですね。てっきり、納税資金を持ってこられるものと思っていましたが……まさか、『悪あがき』をしにいらしたとは」
「悪あがきじゃない。正当な申告だ」
俺はファイルをカウンターに叩きつけた。
「これが俺の、1年間の収支報告書だ。納税額は6億5000万じゃない。……1億1800万ゴールドだ!」
1億1800万。
当初の5分の1以下。
その数字を聞いた瞬間、周囲の職員たちが「馬鹿な」「そんな無茶な」とざわめいた。
だが、ヘルガだけは眉一つ動かさなかった。
「……拝見します」
彼女はファイルを手に取り、恐ろしい速度でページをめくり始めた。
パララララッ、と紙が擦れる音だけが響く。
1ページあたり0.5秒。まるで高性能なスキャナーだ。
「ほう」
5分後。ヘルガが初めて声を漏らした。
彼女の視線が、俺の隣に立つアリエルに向けられる。
「なるほど。素人の仕事ではありませんね。……『元』魔王軍主計課長、アリエル・フォスターさん。まさかあなたが勇者の顧問税理士になっているとは」
「お久しぶりです、ヘルガ統括官。平和になったので転職しました」
アリエルが不敵に微笑む。
女同士の視線がバチバチと火花を散らす。覇王色の覇気がぶつかり合っている。
「いいでしょう。書類の形式は整っています。……ですが」
ヘルガはファイルを閉じ、冷徹に告げた。
「中身の精査は別です。これより『即時税務調査』を行います。別室へどうぞ」
◇
通されたのは、窓のない無機質な取調室だった。
パイプ椅子と長机。机の上には、俺たちの申告書だけが置かれている。
「では、一つずつ確認させていただきます」
ヘルガが赤ペンを取り出した。それはまるで、処刑執行人が持つ剣のように見えた。
「まず、最大の減額要因となっている『聖剣エクスカリバー』の減価償却について。……勇者様、この剣は王国の国宝級文化財に指定されるべき『美術品』ではありませんか?」
来た。アリエルの予想通りの攻撃だ。
「美術品であれば減価償却は認められません。よって、1億2000万は全額、家事上の支出(個人的な趣味の買い物)として否認します」
「異議あり」
俺が口を開く前に、アリエルが即座に切り返した。
「国税庁基本通達に基づけば、美術品かどうかの判定基準は『希少価値』だけでなく、『実用性』と『使用状況』にあります。統括官、現物をご覧ください」
アリエルは俺に目配せする。
俺は鞘からエクスカリバーを抜き放ち、机の上にドンと置いた。
「見てくれ。この刃こぼれを」
俺は切っ先を指差した。
「ここは大亀の魔獣を叩き割った時に欠けた。こっちの柄の汚れは、ドラゴンの返り血が染み付いて取れないんだ。……これが『床の間に飾る美術品』に見えるか?」
「…………」
ヘルガはルーペを取り出し、刀身の傷をじっくりと観察した。
「確かに、損耗は激しいですね。……ですが、これは『王家への献上品』としての価値があるのでは?」
「使い潰した古道具を王家に献上しろと? それは不敬罪に当たりませんか?」
アリエルが畳み掛ける。
「これは明確な『業務用の切削工具』です。耐用年数は金属製工具に準じて10年。定額法による償却は適法です」
「……認めましょう」
ヘルガが赤ペンを置き、小さく頷いた。
勝った。第一関門突破だ。
「では次です。……パーティメンバー3名への『外注費』6億ゴールドについて」
空気が凍りついた。これが本丸だ。
「彼らとは雇用関係にあったのではありませんか? 勇者様がリーダーとして指揮命令系統を持ち、報酬を支払っていた。であれば、これは『給与』であり、源泉徴収漏れです。重加算税を含め、追徴課税の対象となります」
ヘルガの目が光った。
「実態として、彼らはあなたの『部下』だったのでは?」
俺はアリエルの「余計なことは喋るな」という忠告を思い出した。
だが、ここは俺が言わなきゃならない気がした。
「……部下じゃない」
「はい?」
「あいつらは、部下なんかじゃない。対等な『パートナー』だ」
俺はヘルガの目を真っ直ぐに見据えた。
「魔法使いのマリサは、俺が指示する前に敵の弱点を解析して魔法を撃っていた。僧侶のガインは、俺が傷つくより早く回復魔法を構えていた。……俺が指揮して動かしていたんじゃない。それぞれがプロフェッショナルとして、自律的に動いていたんだ」
俺は懐から、アリエルと作成した(捏造ではなく再構成した)『業務委託基本契約書』を取り出した。
「俺たちは、魔王討伐という一つのプロジェクトのために手を組んだ、個人の集合体だ。だから、これは給与じゃない。成果に対する報酬だ」
ヘルガは契約書を手に取り、条文を指でなぞった。
「……契約書の日付は3年前になっていますが、筆跡が新しいですね。インクの成分分析をすれば、最近書かれたものだと判明するでしょう」
ギクリとした。
バレている。やはりこの女、甘くない。
アリエルの顔色がサッと変わる。万事休すか。
「……ですが」
ヘルガはふっと息を吐き、契約書を机に戻した。
「『契約は口頭でも成立する』というのが民法の原則です。書面はあくまで確認のためのもの。……勇者様がそこまで強く『対等なパートナーシップ』を主張し、メンバーの方々もご自身の申告でそれを認めているのであれば、実態を尊重しましょう」
彼女は手元の資料に『外注費として認容』と書き込んだ。
「た、助かった……のか?」
「形式上は、ですね。……ただし!」
ヘルガの声が鋭くなった。
「この領収書。……『酒場・竜の髭亭』での飲食代、300万ゴールド。但し書きは『会議費』となっていますが」
彼女が突きつけたのは、魔王を倒した後のどんちゃん騒ぎのレシートだった。 一晩で高級ワインを開けまくった、あの狂乱の夜だ。
「これは明らかに『個人的な慰労会』ですよね? 経費にはなりません」
「い、いや! あれは反省会だ! 次なる魔王の出現に備えた、建設的な議論の場であって……!」
「参加者にバニーガールが含まれていますが?」
「そ、それは……コンパニオン的な……」
「否認します。これは勇者様の『交際費』ではなく、個人的な『給与(賞与)』とみなします」
ズバッ! と赤ペンで線が引かれる。
「ああっ! 俺の300万が!」
「次。この『ドラゴン用高級おやつ(霜降り肉)』10トン分。飛竜の餌代としては高額すぎます。通常の肉で代替可能であるため、超過分は否認」
「ヴォルカンはグルメなんだよ! 安い肉だと飛ばないんだ!」
「認めません。贅沢は敵です」
そこからは泥沼の戦いだった。
ヘルガは容赦なく「無駄遣い」を切り捨てていく。
アリエルも負けじと「これは将来への投資だ!」「勇者のメンタルケアに必要な福利厚生だ!」と反論する。
電卓を叩く音と、六法全書を叩く音が交錯する。
剣戟よりも激しい、数字と論理の応酬。
俺はただ、その攻防を呆然と見守ることしかできなかった。
◇
そして、2時間が経過した。
「……ふぅ」
ヘルガがペンを置いた。
アリエルも肩で息をしている。眼鏡が少しズレていた。
机の上には、修正された申告書が置かれている。
「……審査は終了です」
ヘルガは事務的な声で告げた。
「いくつかの経費は否認しましたが、大筋において申告内容は適正と認めます。……修正後の納税額は、こちらになります」
提示された紙を見る。
『納税額:1億3500万ゴールド』
当初の申告(1億1800万)よりは増えた。
だが、最初の6億5000万に比べれば、劇的な勝利と言っていい。
「……払います」
俺は震える声で言った。
「今すぐ、一括で」
俺は小切手にサインをした。
1億3500万。
これで、俺の10億ゴールドの物語は、税金という名の結末を迎えた。
手元に残った金は、経費(実際に使った金)を差し引くと……。
「……あれ? 俺の手元、あといくら残ってるんだ?」
俺は頭の中で計算した。
10億もらった。
装備や旅費で4億くらい使ってた。
仲間に6億配った(あれ? この時点で赤字か? いや、配ったのは俺の取り分も含めた全体からか)。
アリエルが素早く電卓を叩き、俺に耳打ちした。
「勇者様。現在の残高は、約200万ゴールドです」
「……は?」
「納税のために4000万ほど借金も返しましたし、私の報酬(節税額の20%)も頂きますので……差し引き、手残りは200万ほどかと」
「に、200万!?」
一般市民の年収の半分くらいだ。
一生遊んで暮らす?
10億の夢? 全部、消えた。
「……ぷっ」
絶望する俺を見て、目の前のヘルガが、吹き出した。
あの鉄仮面のヘルガが、笑ったのだ。
「ふふ……あはははは!」
彼女は腹を抱えて笑った。
「傑作ですね。世界を救った勇者が、税金を払って素寒貧になるなんて」 「わ、笑い事じゃないぞ!」
「いいえ、笑い事です。……ですが」
ヘルガは涙を拭い、スッと表情を整えた。
そして立ち上がり、俺に深く頭を下げた。
「納税、ありがとうございました。貴方が納めた1億3500万ゴールドは、復興のための道路整備や、孤児院の運営費として、正しく使われます。……貴方の剣と同じくらい、このお金は世界を救うでしょう」
「…………」
そんなことを言われたら、文句も言えないじゃないか。
俺は頭を掻いた。
「まあ、いいさ。金はまた稼げばいい」
「ええ。それに、今の貴方には最強の『顧問』がついているようですしね」
ヘルガはアリエルに視線を送り、ニヤリと笑った。
「また来年も、お待ちしていますよ。……次はもっと厳しくチェックしますから」 「望むところです。次は1ゴールドたりとも否認させません」
アリエルも不敵に笑い返した。
奇妙な友情……いや、好敵手関係が芽生えた瞬間だった。
◇
国税局を出ると、空はやっぱり青かった。 俺の懐は真冬のように寒いけれど、心は不思議と晴れやかだった。
「さて、勇者様。終わりましたね」
アリエルが伸びをした。
「ああ。終わったな……俺の財産もな」
「何をおっしゃいます。借金がないだけマシです。それに……」
アリエルは俺の顔を覗き込んだ。
「これからが本番ですよ? 手持ち200万ゴールドでは、来年の住民税すら払えません」
「……えっ?」
「無職のままでは破産です。さあ、次は『職探し』です!」
彼女は新しい羊皮紙を取り出した。
そこには『ハローワーク(冒険者ギルド再就職支援課)』の地図と、『国民年金免除申請書』と書かれていた。
「あと、年金の手続きも忘れてはいけません。未納期間の追納もしないと、将来の受給額が減りますよ」
「勘弁してくれ……もう数字は見たくない……」
「ダメです。勇者レオの戦いは、まだ始まったばかりなのですから!」
俺は天を仰いだ。
魔王よ、お前が羨ましい。
死んでしまえば、確定申告も年金も関係ないんだからな。
でもまあ、生きていくってのは、こういうことなのかもしれない。
「よし、行くか! 次はハローワークだ!」
俺は新たな戦場へと歩き出した。
かつて世界を救った勇者は今、ただの「求職中の若者(21歳)」として、リアルすぎる社会の荒波へと漕ぎ出したのである。




