第2話:「レシート? なんですかそれは」と言った瞬間、俺の資産が3億溶けた
「ろ……6億、5000万……?」
俺の喉から、ひび割れたような声が出た。
王都の一等地に建つ豪邸の玄関。朝の爽やかな日差しが差し込んでいるはずなのに、俺の視界は真っ暗だった。
目の前に立つ、喪服のような黒スーツの美女——国税局の女性官吏は、表情ひとつ変えずに頷いた。
「はい。正確には、所得税と復興特別所得税、および住民税の合計額です。端数は切り捨てておきましたが」
「端数とかどうでもいい! 半分以上だぞ!? 10億の半分以上を持っていこうってのか!?」
俺は叫んだ。
魔王との最終決戦の時ですら、こんな大声は出さなかったと思う。
「おかしいだろ! 俺は命懸けだったんだぞ! 断崖絶壁を登り、毒の沼地を越え、ドラゴンに焼かれそうになりながら、やっとの思いで世界を救ったんだ! その対価がこれか!? 国は俺からカツアゲしようってのか!?」
俺の剣幕に、隣にいた眼鏡の男——部下らしき調査官が少し怯んだように肩を震わせた。
だが、氷の女官吏は眉一つ動かさない。
彼女は懐から分厚い書物を取り出した。『王国六法全書(最新版)』だ。
「お気持ちは察しますが、勇者様。感情論で税額は変わりません」
「ぐっ……」
「法律に基づき説明させていただきます。まず、あなたが国王陛下より受領された10億ゴールド。これは労働契約に基づく給与ではなく、突発的な『報奨金』という扱いになります」
彼女はページをパラパラと捲り、ある一行を指差した。
「したがって、これは所得税法における『一時所得』に該当します。一時所得の計算式はご存知ですか?」
「し、知るかそんな呪文!」
「『(総収入金額-その収入を得るために支出した金額-特別控除額50万ゴールド)×1/2』。これが課税対象額となります」
彼女はすらすらと謎の数式を唱える。魔法の詠唱よりも恐ろしい響きだ。
「つまり、10億から経費を引き、その半分の額に対して、最高税率が適用されるのです。この国では、課税所得が4000万ゴールドを超えると、その超過分には一律45%の所得税がかかります。さらに住民税10%が加算され——」
「あーっ! わかった、わかったから!」
俺は耳を塞いだ。数字を聞いているだけで頭が痛くなってくる。
要するに、「いっぱい貰った奴からは、いっぱい奪う」というルールなのだろう。
なんて理不尽な世界だ。
魔界の方がまだ弱肉強食というシンプルなルールで分かりやすかった。
「……待てよ?」
俺はふと、彼女の言葉の一部に引っかかりを覚えた。
溺れる者は藁をも掴む。俺の脳細胞が、かつてない速度で回転を始める。
「おい、アンタ今言ったよな。『収入を得るために支出した金額』を引くって」 「はい。いわゆる『必要経費』ですね」
「それだ!!」
俺は勝利を確信して指を鳴らした。
「あるぞ、経費! めちゃくちゃある! 俺はこの旅で散財したからな!」
そうだ。10億丸々儲かったわけじゃない。
この戦いには、莫大なコストがかかっているのだ。
「まず、この聖剣エクスカリバー! これ、伝説のドワーフに打ってもらうのに1億ゴールドかかったんだ! さらにミスリルの鎧で5000万! あと旅の間の宿代、飯代、ポーション代! 世界各地への馬車移動費! 全部合わせれば……そうだな、3億か4億は使ってるはずだ!」
俺は勝ち誇った顔で彼女を見た。
4億が経費になれば、税金とやらはもっと安くなるはずだ。
「なるほど」
女官吏は初めて、少しだけ興味深そうな顔をした。
彼女はクリップボードに何かを書き込みながら、さらりと手を差し出した。
「では、それらを証明する『領収書』のご提示をお願いします」
「…………はい?」
時が止まった。
俺と彼女の視線が交差する。
沈黙。
小鳥のさえずりが聞こえる。
「りょう……しゅう、しょ?」
「はい。いつ、どこで、誰に、いくら支払ったかが記載された証憑書類です。当然、保管されていますよね?」
嫌な汗が背中を伝う。
領収書。
その言葉の意味はなんとなく分かる。店で金を払った時に、「書きつけは要りますか?」と聞かれるアレだ。
「い、いや……その……」
「まさか、お持ちではない?」
「……だって、世界を救う旅だぞ? 『ドラゴンが出たー!』って逃げ惑う武器屋の親父に、『すみません、宛名は勇者で、但し書きは武器代としてお願いします』なんて言ってる暇、あるわけないだろ!?」
「では、レシートでも構いません」
「レシート? なんだそれは」
「……支払いの明細が印字された紙切れです」
「そんなもん、貰っても邪魔だからその場のゴミ箱に捨ててたわ!!」
俺が開き直って叫ぶと、女官吏の目が、絶対零度まで冷え込んだ。
まるで汚物を見るような目だった。
「勇者様。証明できない出費は、経費として認められません」
「なっ……」
「口頭で『1億かかった』と言われても、それが真実である証拠がありません。
もしかしたら、その金は裏カジノで摩ったのかもしれない。あるいは、架空の経費を計上して脱税しようとしているのかもしれない」
「俺を疑うのか!?」
「我々は事実のみを見ます。領収書がない以上、経費はゼロです」
彼女は事務的に電卓を叩き直した。
「よって、先ほどの計算通り。6億5000万ゴールドの納税となります。納付書を置いておきますので、期限までに金融機関で納めてください。それでは」
「ま、待て! 頼む、待ってくれ!」
俺は去りゆく彼女の背中に縋り付こうとしたが、眼鏡の男にやんわりと、しかし力強く制止された。
この男、意外とレベルが高い。
「失礼いたします、勇者様。……あ、ちなみに」
去り際に、女官吏が振り返った。
「パーティメンバーの方々にも、それぞれ報奨金が配られたと聞いています。彼らにも同様の税務調査が入りますので、よろしくお伝えください」
バタン。
重厚な扉が閉まる音が、俺の心臓を潰す音のように聞こえた。
◇
その日の夜。
俺は、王都の裏路地にある薄暗い酒場のカウンターで突っ伏していた。
「うう……ちくしょう……」
目の前には、飲みかけのエールと、くしゃくしゃになった納付書。
6億5000万。
改めて見ても、吐き気がする数字だ。
残りは3億5000万。
いや、冷静に考えれば大金だ。一生遊んで暮らせるかもしれない。
だが、俺の心は折れていた。
10億という夢を見てしまったせいで、3億が「端金」に見えてしまう。何より、国への不信感が俺の中で渦巻いていた。
(魔法使いのマリサや、僧侶のガインも、今頃同じ目に遭ってるのか……)
あいつらは俺より報酬が少ない。もし税金を払えなくなったら、どうなる?
借金まみれか? それとも牢屋行きか? 世界を救った結果がこれかよ。
「……酷い顔をしていますね、勇者様」
不意に、隣から声が掛かった。
鈴を転がすような、涼やかで知的な女性の声。
「あぁん? 誰だ……今はサインならしてねぇぞ……」
顔を上げると、そこには一人の女性が座っていた。
銀色の髪をショートボブにし、知的なリムレス眼鏡をかけている。
服装は地味なグレーのローブだが、仕立ては良さそうだ。
どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。
「サインなど結構です。私が欲しいのは、あなたの『署名』と『捺印』だけですから」
「……新手の詐欺か? 悪いが、俺はもう金がないぞ」
「存じております。国税局のヘルガ統括官に、こっぴどく絞られたそうで」
なぜそれを知っている。
俺が警戒して身構えると、彼女はカクテルグラスを傾けながら、とんでもないことを言った。
「私なら、その6億5000万の税金……合法的に、1億以下まで圧縮できますよ」
「……は?」
俺は酔いが一瞬で覚めた。
1億以下? 6億が?
「な、なんだって……?」
「正確には、過去の取引事実を再構築し、適切な税務処理を行うことで、還付金を請求するのです。領収書がなくても、『推計課税』に対抗する手段はあります」
彼女の言っている言葉の半分も理解できない。
だが、その瞳には絶対的な自信が宿っていた。あの国税局の女と同じくらい冷徹で、しかしどこか温かみのある知性の光。
「あ、あんた、何者だ?」
彼女はふふ、と笑うと、眼鏡の位置を直した。
「お忘れですか? 半年ほど前、魔王城の中層エリアで一度すれ違っているはずですが」
魔王城?
俺の記憶がフラッシュバックする。
中層エリア……そうだ、あの時、俺たちが攻め込んだ時、重要書類を抱えて逃げ惑う事務員たちがいた。
俺は「戦闘員じゃない奴は逃げろ!」と叫んで見逃したんだった。
「申し遅れました。私、元魔王軍・第3師団管理部、主計課長のアリエルと申します」
「ま、魔族ッ!?」
俺は慌てて腰の剣に手を伸ばそうとした。 だが、彼女は動じない。
「剣を抜くのはおやめください。今の私はただの失業者です。それに……」
彼女はカウンターに一枚の羊皮紙を広げた。
そこには『税務代理顧問契約書』と書かれていた。
「今のあなたに必要なのは、剣ではなく『知識』です。勇者様、私を雇いませんか? 報酬は、節税できた金額の20%で結構です」
元敵幹部からの、まさかの提案。
だが、今の俺に選択肢はあるのか?
あの鬼のような税務官と一人で戦うか、この怪しい魔族の手を取るか。
俺は震える手で、契約書を見つめた。
「……本当に、取り返せるんだな?」
「ええ。魔王様の資産隠しに比べれば、王国の税法なんてザルみたいなものですから」
その笑顔は、かつての魔王よりもずっと頼もしく、そして少しだけ邪悪に見えた。 俺とアリエルの、仁義なき税金戦争が始まろうとしていた。




