魔王のいる町④
衛里が落とされたのは、彼が踵を返した場所…暁マジックショップの出店の前だった。
驚いたのは霧斗だ。突然背後から異様な音が聞こえたと思ったら、追い出したはずの小さな衛里の身体が落ちてきたのだから。
「何やってんだ。ほのかは返してもらったのか?」
落ちた衝撃で身体が痛むのか、衛里はしばらく何も答えなかった。ただ顔をしかめて痛みが過ぎるのを待っている。さっきと明らかに様子が違う。何というか…深刻なのだ。衛里の表情も、まとう空気も。
「どうした。何があった」
再度の問いかけに、やっと衛里は霧斗を見た。そこには、決意なのかショックなのか。底光りする眼光があった。
「はじめはマジだった。今までとは違う」
「どういう事だ?ほのかは?」
「もし俺が日暮れまでにはじめを倒さなければ、ほのかはあいつの側に置かれる。おっちゃんでも返さない。そう言われた」
「嘘だろ?!」
相手が衛里でも付き合うのは大反対なのだ。なのに、はじめが伴侶だなんて認められるわけがない。霧斗の驚きは本物だった。
「おっちゃん、俺ははじめを倒す。あいつをこのままにはしておけない」
「た、倒すってお前…」
「分かってる。あいつはこれまで何だかんだ言いつつ、この町を守ってきた。それを倒すとなりゃ、反感も買うだろう。でも、それでも俺はあいつを倒さなきゃならない。ほのかを取り戻すために」
強い決意で固められた想いが、全身からあふれ出している。下手をすれば、町中を敵に回す事になりかねない。それでもほのかを取り戻すためには、はじめが提示した条件を呑まなければならないのだ。
即ち、邪悪な魔王を倒す事。
それがはじめの出した条件だった。
しかし町の人々は、それを知らない。いつものはじめの悪ふざけとしか取らないだろう。だから、もし衛里がはじめを倒したりしたら、町中が反発するだろう。彼らの知るはじめは、子供と遊んでくれるお兄ちゃん、困った人を助けてくれる好青年。
決して「魔王」ではないのだ。実際に魔王と認識している人はいないだろう。「魔王」ははじめの肩書きの一つでしかないのだ。
はじめ兄ちゃん。はじめ君。はじめちゃん。
それがはじめだった。うちの町には魔王がいるのよ、なんて話のネタにされるぐらいで、実際に魔王らしい事をした事など一度もないのだ。子供達との悪戯だって、いかにも子供らしいものだし、その後は子供達と一緒に叱られるのも常だ。ちょっと魔法を使ってみせれば、はじめちゃんにもあんな事できたのね、とか、おっ、やってるな、魔王!とか、声援を送られる程なのだ。
「おっちゃん、はじめを倒せるアイテムをくれ。ほのかを取り戻す」
「俺が行く!ほのかは俺の娘だ」
そう言い放つや、霧斗はすでに店頭に並べられていた一本の杖を手に、はじめ宅に向かって走り出した。
結果はすぐに出た。どうやってそれを知ったのか、はじめの魔法が発動したのだ。霧斗は見えない力に横っ面を張り飛ばされ、更に手にしていた杖でしたたかに殴られて、その場に倒れ伏したのである。
「おっちゃん!」
衛里が駆け寄ると、霧斗は肩で息をしながら、何もない空間を睨みつけていた。
「はじめと戦う資格があるのは、衛里一人だとよ…。くそっ、俺にゃ何もさせねえつもりか」
はじめは、町に異変があればすぐに駆けつけられるのだ。家にいながらにして町を見渡す術を持っている。どこからか、衛里を見ていたのだろう。それこそ魔王の底力だった。
「…頼む、衛里。ほのかを取り戻してくれ」
「分かってる」
何を持っていけば、はじめに対抗できるのか。まずはそこからだ。出店に並べられているアイテムを見繕ってみる。駄目だ。お守りや縁起物といった、何でもないアイテムが並べられているだけだ。
あくまではじめは衛里との一騎打ちを所望している。何か「特別」なアイテムがあるはずなのだ。
そして、ふと気付く。何か違うアイテムが存在している事に。衛里の神経に引っ掛かったのが何なのか、まずはそれを見つけ出さなければならない。自分はいずれ魔王を倒す勇者となるのだ、感覚までも鋭くしなければ。
衛里はじっと、展示されているアイテムを睨む。どれが引っ掛かった、何が琴線に触れた。それがきっと、今自分が必要としているアイテムに違いない。衛里の感覚がそう言っていた。
手をかざしてみる。何かに軽く引っ張られるような感触がある。アイテムが自分を呼んでいるのだ。アイテムも、衛里を待っていたのか。それともどこかで見ているはじめがそのアイテムに気付くよう、手を出しているのか。
この際何でもいい。今は魔王を倒し、ほのかを助け出す事が一番重要だ。後の事など知らない。町の嘆きなど知った事ではない。先に手を出してきたのははじめだ。魔王としてちょっかいを出してきたのははじめだ。だから俺は、未来の勇者として、魔王を倒す。
その時、ふと衛里に迷いが生じた。魔王を倒す。それははじめを殺すという事ではないのか。はじめを殺すのか?あのはじめを?幼い頃から遊んできた「お兄ちゃん」を?ずっと見ていてくれた「守り人」を?町の平安を守ってきてくれた「恩人」を?
できるのだろうか。自分に魔王を倒す事など。倒さなければ、ほのかを助けられないというのに。急に自信がなくなってきて、衛里は戸惑った。魔王に情けをかけるなど、勇者としては失格だ。だけど…魔王である前に、あれは「はじめ兄ちゃん」なのだ。
いや。やらなければならない。今やはじめは魔王としての素顔をはっきり表している。このまま放置すれば、町そのものに何らかの危害を加えないとも限らないのだ。危険を未然に防ぐのも勇者の務めだ。
再び衛里に決意が戻ると、微かな「力」は衛里を呼んだ。やはり勇者としての自分を、アイテムが呼んでいるのだ。だから迷いが生じた途端、アイテムは呼ぶのをやめた。そして再び衛里に決意が戻ると、アイテムは呼び掛けてきた。
間違いない。自分は勇者となる。魔王を倒せる唯一の勇者に。
と、衛里を呼ぶ力が強くなった。導かれるまま、衛里は「それ」をつかんだ。
それは小さな水晶玉だった。
「衛里、そりゃただのマジックアイテムだぞ」
戸惑った霧斗の声が聞こえる。だが間違いない。これが衛里を呼んだのだ。これが魔王を倒せる唯一のアイテムなのだ。
衛里には、何故か確信があった。
「おっちゃん、何の効果かは分かるか?」
「一度だけ、持ち主の願いを叶えるアイテムだ。と言っても、小さな願い事だけだ。とても魔王を倒せる代物じゃ…」
「いや。これでいいんだ」
衛里は頷いた。一度きりのアイテム。しかし、願いを叶えるアイテム。はじめを倒すのはこれしかない。
「おっちゃん、いくらだ」
「金なんかいらねえ。ほのかに換えられるものなんてない」
妻不在が多い暁家では、ほのかは霧斗にとってかけがえのない宝物だった。それをむざむざ魔王に渡すわけにはいかない。霧斗も衛里と同じだった。町の事なんて知った事じゃない。そんなものよりも、ほのか一人の方が余程大事だ。
ほのかが聞いたら怒るかもしれない。また泣き出すかもしれない。それでも、それを無視してでも守りたいもの。それがほのかだった。
「行ってくる」
小さくそれだけを言うと、衛里は進み出した。今度は走らず、しっかりと大地を踏みしめて。
魔王を倒すために。