魔王のいる町②
もう一〇年以上も昔になる。衛里は本を読むのが好きな子供だった。他の子供達と遊ぶより、分厚い書物を読んでいるのが好きだった。幼馴染みのほのかは、そんな衛里が大好きで、でも他の友達も大好きで。何とか衛里を外に連れ出して遊ばせようとしたが、歳の割に頑固な衛里が聞き分けるはずもない。自分の好きな事を放って遊び回るなどするわけもなく、ほのかはいつも板挟みになって、泣き出しそうな顔をしていた。
そこへはじめが通りかかった。
「よう、子供達。今日も元気に遊んでるか~」
懐いている子供達が、一斉にはじめに駆け寄る。その勢いに押されて尻餅をついたはじめを、子供達が全力で甘えにかかった。だがほのかだけは、ぽつんとその輪を見ているだけで、近付いてこない。
「どした、ほのかちゃん」
一通り子供達の背の洗礼を受けてもみくちゃにされたはじめが、ほのかに優しく視線を合わせ、頭を撫でる。その瞬間、ずっと我慢していた気持ちがあふれて、ほのかははじめに抱きついて大声で泣き始めた。
「あのね、あのね、衛里がね、ほのか、仲良くしてほしいの。一緒に遊んでほしいの。でも衛里、本が好きなの。衛里は本が好きだから、本を読んでほしいの。でもね、ほのか、衛里に遊んでほしいの」
しゃくりあげながらやっとそれだけを言ったほのかは、いつも遊んでくれる「お兄ちゃん」に抱きついて離れなくなってしまった。
「うん、ほのかちゃんは衛里も皆も大好きなんだな。優しいな」
あやすように背を撫で、はじめはほのかを抱き上げた。
「皆、ちょっとはじめ兄ちゃん、ほのかちゃんを笑顔にしてくる。それまで俺抜きで遊べるか?」
「子供扱いすんなー!」
「はじめ兄ちゃんなんかいなくたって、ちゃんと遊べるよーだ」
「このタラシー!」
子供達が口々に憎まれ口を叩くと、はじめはにこにことその様を眺め、まだ泣いているほのかを抱いて子供達の輪を離れた。
そうして二人は、衛里の邸宅まで来たのだ。
衛里の両親はトレジャーハンターをしていて家にいる事は少ない。しかし衛里は少しも淋しいと思った事がない。ハウスキーパーが来てくれるから生活に支障はないし、たまに帰ってくる両親も放任主義だから、基本衛里は放置される事が多いし、常に衛里の主義主張を尊重してくれる。誰にも邪魔されず、家の書庫にある膨大な本を読んでいられるのだから、むしろ誰もいない状況が有難いぐらいだ。
衛里お気に入りの窓際で、今日も衛里は本人の頭程もある大きさの本を読んでいた。
が、突然その静寂は破られた。
「邪魔すんぞー、衛里ー」
聞こえてきたはじめの声に、衛里は不快げに眉をひそめた。
衛里ははじめが苦手だった。いつもにこにこしていて、何を考えているのか分からない。自称魔王というこの少年は、衛里が生まれる前からこの町にいて、ずかずかと家の中のみならず衛里の心の中にまで踏み込んでくるのだ。
「マジ邪魔。帰れ」
「やだねー」
姿を見せた魔王に吐き捨てると、あっさり却下してきた。
「お前なぁ、こんな可愛い幼馴染み泣かせるなんて、どうかしてるぞ」
「俺は本が読みたいんだ。遊んでる時間なんかもったいない」
するとはじめは、衛里の読んでいる本を覗きこみ。
「んー、何々…」
しばらく文字を目で追うと、はじめはにやりと衛里を見やった。
「俺、これ昔読んだ。犯人、教えてやろうか?」
「ざけんな、誰がミステリー逆読みしたいかよ」
「じゃあ遊びに行こうぜ」
「おめーの悪ふざけに付き合う程、俺は暇じゃない」
衛里ははじめの出任せだと思っているのだ。衛里を外に連れ出すための嘘だと。
それははじめにもすぐ伝わった。
「それ、ラッキーストーンシリーズだろ?ドルド兄弟が出てるって事は、4巻あたりか?岬の古い洋館で起きる、連続殺人だったよな」
驚いた衛里が顔を上げる。
「俺、知っての通り魔王ね。永い事生きてると、娯楽に餓えるんだよ。で、暇つぶしに読んだのが、ラッキーストーンシリーズ。他にも、安楽椅子探偵シャーリーの事件簿シリーズとか、涙雨シリーズとか、謎解きは亡霊まかせシリーズとか。いろいろ読んでるわけ。で、当然結末もトリックも犯人も分かっちゃってるの。それ、ここで暴露しちゃってもいい?」
はじめの言ったシリーズ本は望月家の書庫にもあって、衛里も夢中になっているミステリーだ。
「あ、俺長生きしてっから、古文書なんかも多少は読めるぞ。この家の書庫はすげえなあ。古文書から娯楽小説まで、ずらりと揃ってる。俺だってこんな宝の山を前にしたら、引き籠もって読みふけりたくなるってもんだ。けど、本は逃げないけど、時間は待ってくれないぜ?」
「……俺に何をさせたい」
渋々衛里が負けを認めると、はじめは満面の笑みを浮かべて、空いている手で頑固な子供の頭を撫でた。
「遊びに行こう。将来は勇者か賢者なんだろ?体力とか連係プレイとかコミュニケーション術とかも身につけとかないと、邪悪な魔王をやっつけられないぜ」
「子供の遊びでそんなもん…」
「あっ、子供の遊びを馬鹿にすんな。すげーんだぞ、子供の結束って。この魔王を参らせるんだからな」
「どうせ転がされてもみくちゃにされてるだけだろ」
「それが凄いんだって。一人や二人じゃ絶対にできない。タイミングを合わせてポジションを決めて、一斉に掛からなきゃならないんだ。しかも事前打ち合わせなしで」
勇者志望の衛里は考えた。確かにはじめは魔王としてこの町に存在している。将来勇者になったとして、たった一人でこの呑気な魔王を倒せるだろうか。
答えは否だ。いくら知識を増やそうと、いくら腕を鍛えようと、パーティーがなければ魔王に挑戦する権利すら与えられない。
そこへ魔王が甘い囁きを注ぎ込んだ。
「ミステリーでも古文書でも冒険小説でも、俺が話し相手になってやる。楽しいぞ、一人で読むミステリーより、論戦できる相手がいるって。いろんな解釈で読み解け合える」
負けた。完全に衛里の負けだった。
確かにはじめの言う通りなのだ。本を読むのは好きだ。外で遊ぶ時間なんか、邪魔でしかなかった。でも時折、ふとこのトリックの可能性や、冒険の可能不可能や、いくら辞書で調べても出てこない古文書の文字。それらを語り合う相手が欲しいと思った事があるのだ。
しかし、このままはじめの言う通りにするのは癪だ。衛里ははじめを試すつもりで、一冊の古文書を持ってきた。衛里がどんなに調べても辞書には載っていなかった、遠い異国の古い文字だ。
そこまで言うなら読んでみろ、と挑戦的にはじめに突きつける。
するとはじめは、ずっと抱いていたほのかを床に降ろし、本をぱらぱらとめくった。
「ああ、これね。これ書いた奴知り合いだったから、よく分かる」
「は?」
知り合い?古文書の著者と?
「えーと、この箇所は…。『邪悪な怪物を倒せし光の武人、その身を御玉と変え、永らく世界を見守るべし』…。あはは、これって護さんの事書いたやつだ」
「はい?」
「いやね、まだ世界を放浪してた頃、東の果ての国にすっげえ馬鹿でかいドラゴンがいてさ。もうやることなすこと滅茶苦茶で規格外で。時の勇者でも返り討ちにされた代物でさ。で、たまたま俺達が通りかかって、見かねた護さんがそのドラゴン退治しちゃったって話。多分護さんも覚えてるから、本で読むより本人に聞いてみたら?」
護さんて無駄にキラキラしちゃってるから、光に例えられたんだな、と魔王はカラカラと笑った。
「な、衛里。護さんもよく言ってるけど、晴耕雨読って言葉がある。晴れてる日はお日様の下で思いっ切り遊ぶのも重要な事だぞ。雨の日は、俺と本読もう。いろいろ議論だってしてやる。どうだ?」
そこへとどめとばかりに、ほのかが衛里の手をぎゅっと握って潤んだ目を向けてきた。ずっと心配で、でも大好きで、大好きな事をしてほしくて、でも遊んでほしくて。そんないろんな色の混じった感情をまともにぶつけられて、さすがの衛里も怯んだ。自分はこんなに幼馴染みを困惑させ、心配させ、悲しませていたのかと。
「よーし、決まり!遊びに行くぞー!」
太陽みたいに明るい笑顔で、明るい声が響き渡った。そのまま有無を言わせず、二人の子供を肩に抱え上げる。
「ちょっ…降ろせ!」
「やだねー、めでたい衛里のデビュー日に、特別な事してやらなくてどうすんだ。なあ、ほのかちゃん」
「有難う、はじめお兄ちゃん」
泣き虫の小さな少女は、すっかり晴れ渡った満面の笑顔だ。それを見て、衛里もどこかほっとする。これで幼馴染みを心配させずにすむ。小さいなりにずっと悩ませていたのに今更ながら気付いて、衛里は少し後悔した。
これで本当に勇者や賢者になる技術が身に付くかは疑問だったが、はじめやほのかに乗ってみるのも悪くない。そう衛里は結論づけた。
こうして衛里の公園デビューが始まった。勿論最初からうまくいくわけではない。衛里は生意気だし、なまじ知識があるから威張っているようにも取られるし、俺様体質だし、同世代の子供達とはなかなか噛み合わなかった。喧嘩もした、小さないじめもあった。ほのかを泣かせた事もあった。いろんな事があった。そのたびに、はじめがとりなしたり、話を逸らしたり、ふざけを装って本人達をけしかけたり、見守ったり、と、年長者ならではの計らいを見せていた。
そしてもう一つ、衛里が気付いた事がある。はじめが率いる集団は、何も子供に限ったものではなかったのだ。休日の大人や、現役を退いたお年寄りや。それこそ男女年齢問わず、遊んでいた。子供達はお年寄りから昔の遊びを教わったり、お年寄りは子供達からパワーをもらい、大人達はお兄さんお姉さんぶったりしていた。
そして遊びだけではない。悪戯もたくさんした。それも、はじめを先頭としたものだけではなく、お年寄りや大人達が主導を握ったりした事もあったのだ。毎日を一生懸命遊んでいた。
近くの山に入って冒険ごっこをしたりした。洞窟で探検もした。それが乗りに乗って行きすぎて、日没を過ぎても山からなかなか下りなくて。遭難と間違えた町が大騒ぎになって、呑気な顔をして帰った一団が、大人達に次から次へと叱りつけられた事もあった。
そして重要な事がもう一つ。それは「命」を知る事だった。昨日まで元気に遊んでいたお年寄りが、次の日急に亡くなる事がないわけではなかった。美味しいお菓子を差し入れてくれていたお姉さんが、事故で亡くなった事もあった。人だけではない。動物も虫も、「命」を教えてくれる大切な存在だった。皆で世話していた子猫が、心ない人の毒入り餌で亡くなった事もあった。生まれたばかりで放置されていた子犬が、手当ての甲斐なく旅立った事もあった。夏に入って虫を標本にする際、それは命を奪う事だと教えられた。そして、どこそこで赤ちゃんが生まれる、生まれたと聞きつけると全員で押し掛け、生まれたばかりの命を目の当たりにもした。
本当に、いろんな事を教わった。それこそ読書だけでは手に入れられないものばかり。
そして雨の日は約束通り、はじめが衛里の話し相手になってくれた。トリックや推理につて議論したり、冒険小説を興奮して語り合ったり、古文書に書いてある事を古文書よりも詳しく教えてくれたり。伊達に長生きはしてないよ、とはじめは笑っていた。
はじめはいつも全力だった。全力で遊んで、全力で悪戯をして、全力で話して、全力で喜怒哀楽をしていた。
小動物が命を散らした時も、誰かが亡くなった時も、はじめはいつも一番に泣き出して、一番最後まで泣いていた。一緒になって泣いていた子供達が、はじめの慰めに入る程に。
毎日が忙しく、楽しかった。いつしか衛里は、あれだけ面倒だった子供達の輪の中に、どっぷりと浸かっていた。子供達のリーダー格になる程に。
子供達が最も熱くなり、人気のあった遊びは、今も昔もやはり「勇者ごっこ」だった。何せ本物の魔王が仲間にいるのだ、配役には事欠かない。誰もがやりたがる勇者役はジャンケンで決められ、後は適当にその場その場で配役が決まっていった。衛里とて例外ではない。勇者、賢者志望の衛里も、村人Bなんて日もあった。いきなり魔法使い役を振り当てられた日は、どうしていいか分からなくて、訳の分からない「魔法」を使って、仲間達の爆笑を買った事もあった。
その日も、彼らは勇者ごっこに熱が入っていた。衛里は賢者の役で、勇者役は別の子供がやっていた。
「おのれ、悪い魔王め。この勇者ワタルが退治してやる」
「はっはっは、ちょこざいな。今時の魔王が勇者如きにやられると思ったら大間違いだぞ」
いつも通り魔王役のはじめが、大げさに笑ってみせる。
そして「勇者ワタル」が振るう、剣代わりの丸めた紙の棒を、ひょいひょいと軽々かわしていく。
「逃げるな、卑怯だぞ!」
「だって当たったら痛いじゃん」
少しも悪びれずに言い返すはじめは、いつもの笑顔だ。
「動きが悪いぞー、勇者ワタルー」
「はじめ兄ちゃんが早すぎるんだ!大人げないぞ!」
「いつでも全力が俺のポリシーでーす」
「ずるい!手加減しろ!」
「手加減した相手に勝って嬉しい?」
「嬉しくない!」
「じゃ頑張れ~」
はじめは笑顔を崩さない。全力と言いながら、かなり手を抜いているのがよく分かる。ワタルを始めとした子供達も、それが分かっているから、知らず知らずのうちに声援が飛ぶ。
そこへ、賢者衛里が叫んだ。
「今だ!足元!」
勇者ワタルが反射的に棒を振るう。紙製の剣は、見事はじめの脚を捕らえた。
「痛ってー!!」
ちょうど衛里達の目の高さにある段差に立っていた邪悪な魔王は、臑を抱えてうずくまった。
「どうだ、魔王!降参するか!」
弁慶の泣き所に当たったのか、涙目で勇者を見返した魔王は、恨めしげな目を賢者に向けてきた。
勿論衛里は知らん顔。何故なら今日の勇者ごっこは賢者役なのだ。賢者は勇者の手助けをするのが役目。そして悪い魔王は勇者にやっつけられるものなのだ。
「やーだねー!まだ脚ぶたれただけだもんねー!」
どっちが子供だと言いたくなるような顔をして舌を出すと、身軽に勇者パーティーから距離を取る。
「言ったろ、今時の魔王は勇者なんかにやられないんだよ~」
「じゃあ何にならやられるんだよ!」
「はじめの場合は女の子だな」
「女ぁ?!」
「そ。可愛い女の子に可愛く『お願い、悪い事はやめて』って言われたら、即座に魔王なんかやめちまうよ」
と、それを聞きつけたはじめ。ずるそうな笑顔を浮かべて。
「衛里~。衛里がそれ言ってくれたら、魔王やめてやってもいいぞ~」
全員がずっこけた。
「やーい、できないだろ~。だから魔王はずっと魔王なんだよ~」
絶対衛里ができないと分かっているからこその台詞だった。
「ざけんな!てめ、絶対屈服させる!行くぞ、ワタル!」
「え、俺が勇者なんだけど」
頭に血が上った衛里は、もうそんな事は気にしていない。逆に勇者を引っ張って、猛然と魔王に突進していった。
「やれるもんならやってみなー。ここまでおいで~」
安っぽい挑発だったが、今の衛里には充分だった。いつの間にやら紙の剣を勇者から奪い取って、魔王に斬りかかっている。しかもワタルに指示を出してこき使っている。いつもとはまるで違う勇者ごっこに、子供達はすぐ夢中になった。
「頑張れ、衛里ー!」
「負けんな、はじめ兄ちゃーん!」
最早衛里とはじめの一騎打ち状態。それは興奮冷めやらぬまま日没まで続けられ、子供達を迎えに来た保護者達の苦笑を買っていた。しかしこのままでは埒が明かないと分かると、大人達の反応は早かった。妹を迎えに来ていたティーンエイジャーの姉が、仕方なさそうに溜息をつき、今もってじゃれ合っている衛里とはじめの間に割って入る。
気を削がれ、我に返った衛里を見るとにっこりと微笑み、まだ遊び足りなさそうなはじめを、両手を組んで見つめた。
そして。
「はじめ君、もう終わろう?お願い」
「はーい!」
それまでまったく応じる気配すらなかったはじめが、元気よく即答した。衛里の指摘した通り、女の子が頼み込めば、全ては容易いのだ。
「まだ決着がついてない!」
むしろ衛里の方が意地になっている。
「でももう帰る時間よ。続きは明日…なのかな?」
言い切れないところが、はじめ相手の実情だ。この魔王相手に明日の約束は不確かだ。だから衛里は納得しない。
「はじめ!今から家に来い!家で論争対決だ、それで決着つけてやる!」
「えー、俺、護さんが夕飯作ってくれて…」
「勝ち逃げは許さねえ」
これは駄目だ。衛里の頑固さと負けず嫌いはすでに知れ渡っている。諦めなさい、と一人の親がはじめの肩を叩く。そして、護さんにはちゃんと伝えておくからとまで言われてしまっては、はじめも衛里に付き合うしかない。
くれぐれも、護さんには事情を詳しく説明しておいてくれと念を押し、はじめは衛里宅へ向かった。
その結果がどうなったかというと。
翌日、心配したほのかが衛里宅を訪ねると。書庫で何冊もの分厚い本を散らかしたまま、半ば埋もれるように寝こける二人を発見したのだった。どうやら徹夜でも二人の決着はつかなかったようである。
そんなささやかで何気ない大切な日々は、いつまでも続くものだと疑った事はなかった。町の誰もが。
そう。衛里でさえ。