魔王のいる町①
世界は概ね平和だった。小さな紛争がそこかしこで絶える事こそなかったが、世界を巻き込むような戦争は、もう何百年も起きていなかった。
それもそのはず。世界はたった一人に支配されているのだ。ただ一人の、魔王と呼ばれる存在に。
世界を支配している魔王は、各地に己の息の掛かった者を配置し、それぞれの国の動向に目を光らせていた。つまり人々は、戦争を起こす権利を持たないのである。魔王は、己の所有物である人や国をやたらに失う事を嫌っていた。自分抜きの戦争を起こされるのは面白くないらしい。勝手に殺し合いを始めるなど、己の所有物を勝手に奪う事と判断しているのだ。
つまり、世界は魔王のもの。それぞれの国で自治は許されているものの、所詮は魔王に「間借り」させてもらっているだけなのだ。
それでも多くの人々にとっては、平和は有難いものだった。魔王は滅多に姿を現さず、配下の者達に担当する地域を任せている。その者達も、大抵は平和主義だった。
魔王という元凶を除けば、これ程安心して暮らせる世界はなかった。
その魔王が、はじめなのである。面倒臭がりで遊び好き、日向ぼっこと昼寝が大好き。悪戯や冒険はもっと大好きという、子供のような魔王であった。が、それは下手な暴君に支配されるより、余程マシな現実だった。
その世界の、東南の地方にある小さな島国「日渡国」。年中温暖な気候のその国は、観光と農業で主な収入を賄っていた。人々はその気候に似つかわしく温厚で、平和そのものの、ごくごく普通の国を形成していた。
その日渡国の更に南の端にある、陽昇県香草市の中心街に近い町「都瀬町」。その町に二人の従者を連れて、魔王は住んでいた。
いつからこの町に住んでいるのか、覚えている者は誰もいない。ただ町中の老若男女は、必ず幼少時に魔王に遊んでもらった記憶を持つ。それだけ長く、魔王はこの町に存在していた。
従者の一人が、眼鏡の似合う容姿端麗な、鮮やかな銀髪をさらりとまとめた護。この男、ただ魔王の側にいるだけではなく、この町を含む周辺の町の警備隊を指揮していた。そのせいか、武勇伝には事欠かない。この間も、酔っ払いを投げ飛ばしてあっという間に正気に戻して迷惑行為を未然に防いだとか、隣町に現れた強盗団をたった一人で片付けてしまったとか。見た目も相まって、密かにファンクラブまであるらしい。
もう一人は、闇のような黒髪をこざっぱりとまとめた、護とは別タイプの二枚目で、どこか怪しげなレイクという男。この男は、魔王に付き従うというより好き勝手に動いていて、いつもどこにいるのか魔王も知らないという、魔王以上に自分勝手な性格だった。いつも口元に笑みを刻んでいるが、それがかえって危険な雰囲気で、とても信用できない男である。
そして魔王。それがはじめだった。と言っても、魔王だからといって何をするわけでもない。町外れに一軒家を構え、常に子供達と遊んで暮らしている。一応町の代表者を指名したりしているという噂はあるが、政治といった難しいな事はすべて任せきり。祭りなどの遊び事にだけ口を挟み、税金の中からいくらかお小遣いをもらって暮らしている。…という噂だ。もっとも真偽の程は確かではない。風体は先に述べた通り、どこにでもいる朴訥としたティーンエイジャーで、特徴と言えば、尻尾のようにいつも揺らしている髪と、常に身につけている鈴のイヤリングぐらいだ。
だから魔王といっても恐れるような者はいない。むしろ遊んでもらった記憶もあるから、親しげに声を掛け合い、仲良く共存しているのが現状だ。
はじめも人懐っこく、一人暮らしのお年寄りが困っていたりすると進んで手を貸したりしている。特に子供が大好きで、町中の子供達は、一度ははじめと遊ぶのだ。最初は無理矢理引きずり込まれた子供も、その日のうちに、はじめと一緒に泥だらけになって遊んでいる。
つまり魔王に支配された町、というよりは、魔王と共存している町、と言えるだろう。
その日は町中が忙しかった。もうすぐ大きな祭りがあるのだ。それは魔王が町に現れた記念の日だとも、自警団が組織された日だとも、町長が初めて指名された日だとも言われている。要するに誰も覚えていないが、とにかく町にとっては一区切りがついた日なのだ。
勿論、祭り大好きなはじめも楽しみにしているのだが、その準備期間がとにかく皆忙しいのだ。つまり、誰もはじめと遊んでくれない。子供達も、祭りの手伝いや、忙しい親の代わりに家事手伝いをしたり、自分達で出すバザーの準備で忙しい。当然年頃の若者達は、今更はじめと遊ぶわけがなく。はじめにとっては、祭りは楽しみでも準備期間はとてつもなくつまらない日々なのだ。
当然、自警団の指示役である護は、祭りが終わるまで最も忙しい日々の一つであるし、レイクはいつも通りどこにいるのかさっぱり分からない。誰も相手をしてくれず、はじめは町の忙しい空気を見て回るようにぶらぶらするしかなかった。
要するに、暇なのだ。
「あ、はじめ君だ」
暇そうなはじめに声を掛けてくれたのは、やはり小さい頃に遊んでいた、暁ほのかだった。成長してからは町でも評判の美人で、この町にある暁マジックショップの一人娘だ。肩の辺りで揃えられた小麦色の髪に、同じ色をした瞳はアーモンド型の綺麗な形をしている。昔ははじめと一緒になって泥だらけになっていたものだが、今ではことあるごとにはじめからデートの誘いを受けて、いつもちょっと困った顔をして相手をしてくれる、貴重な少女だ。
そのほのかが、はじめを見つけてくれた。勿論はじめは大喜びでほのかに駆け寄る。
「ほのかちゃん、相変わらず可愛いね。デートしよう」
「ごめんね、もうすぐお祭りでしょ。お父さんのマジックショップも出店出すから、ちょっと忙しいの」
「えー、そんな事言わないでさー。俺に面白いアイデアがあるんだよ」
「はじめ君の案はとっても魅力的だけど、本当に忙しいの。ごめんね」
するとはじめは、急に情けなさそうな顔になって、ほのかにちょいちょいと手招き。つられたほのかが近付くと、そっと何かを耳打ちする。するとほのかが苦笑した。更にはじめが耳打ちを続けると、興味を示したほのかが何かを囁き返す。それはまるで、恋人同士がささやかな秘密でじゃれあっているようにも見えた。
そこへ現れたのが、望月衛里である。彼もまた、子供の頃ははじめと遊んだものだが、今では何の興味も示さず、むしろ胡散臭そうに眺めている一人であった。まるで貴公子のような整った顔立ちと、少し気障で格好つけた所が町の少女達を騒がせている。しかも頭脳明晰で、末は勇者か賢者になるのではないかと、町でも一目置かれた少年だ。
この衛里とほのか、将来を誓い合った仲であって、いつも衛里の隣にはほのかがいるのが当たり前の光景になっている。唯一の反対者は、当然ほのかの父親、暁霧斗ただ一人。障害と呼べるようなものはその程度で、二人の未来はもう決まっているようなものだった。だからはじめにほのかがいくら言い寄られようと、それは彼らにとって単なるコミュニケーションであって、何の問題もない。
そのはずだった。
だが、その日の衛里は違っていた。勿論はじめとほのかの距離が通常よりずっと近くて、親密に笑い合っているせいもある。
とにかく衛里はカチンときた。
「何やってんだ、ほのか」
「あ、衛里」
衛里はそのまま無言でずかずかと二人の間に割って入り、強引にはじめから彼女を奪い返した。
「お前なあ、ほのかが忙しいのは分かってんだろ。まして今は祭りの準備真っ盛りだ。人の迷惑、ちっとは考えろよな」
すると今度ははじめが膨れた。まるで子供そのものだ。幼稚園の大好きな先生が他の幼児にかまけていたら、多分こんな表情になるのだろう。
「あー、知ってるよ。でも忘れてるだろ。俺、魔王なんだぜ」
「ガキ相手にマジで遊んだり喧嘩したり大泣きしたりする魔王なんて、聞いた事ねえな」
「甘いな。俺が本気になったら、この町滅ぼすなんて簡単だ」
「あぁ?」
二人が険悪な空気をまとい始めると、周囲にいた人々は「またか」という顔をした。何しろこの二人、仲が良いのか悪いのか。つるんでいる日もあれば、本気と呼べるような言い合いをする日もあるのだ。今日もいつもの事だと思っている。
「衛里君、はじめ君、喧嘩も程々にしときなよ」
「そうよ、困るのはほのかちゃんなんだからね」
すると二人、口を揃えて言い放った。
「ほっといてくれ!」
「相変わらず仲いいなあ」
休憩なのか、顔馴染みの大工がしみじみ声を掛けながら通り過ぎていった。
と、突然はじめが指を弾いた。その一瞬で、ほのかは衛里の側から消え、はじめの腕に抱え込まれていた。
「てめ…っ、気安くほのかに触るんじゃねえよ!」
衛里が手を伸ばすと同時に、またはじめが指を弾いた。今度ははじめとほのかの体が衛里の前から消え、上空に現れる。
「衛里。勇者と魔王ごっこだ」
「俺はガキの遊びに付き合う程ガキでもねえし、暇でもねえ!」
するとはじめが、今まで見た事もない笑みを浮かべた。いつもの人懐っこい笑顔ではない。魔王、と言われれば信じてしまう、そんな笑みだった。
「ただの遊びじゃない。マジが入ったごっこ遊びだ」
「何だと?」
「日没までに俺の家に来い。そしてほのかちゃんを奪い返してみろ。それができなければ、ほのかちゃんは俺がもらう」
「ッざけんな!!」
「勿論ふざけてなんかいない。大事なお姫様を、邪悪な魔王から奪い返してみせろ。それが今日の勇者と魔王ごっこだ。どうだ?マジにならなきゃ始まらない遊びだろ?」
はじめの腕の中のほのかは、信じられないといった顔をして、見慣れた魔王の顔を見つめている。
「そうだ、このままじゃ面白くないな。ちょっとハンデをつけようか」
ほのかを抱えた反対の指を、パチンと鳴らす。
すると、衛里の身体を違和感が包んだ。浮遊感が体中を包み、衛里自身をかき回しているようだ。あまりの気持ち悪さに、たまらず衛里が膝を突く。そのまま視界が反転する。
次に目を開けた時、衛里は己が目を疑った。見える景色が違うのだ。
いつもの町。いつもの馴染みの人。いつもの自分の…。
「ちょっと待てーっ!!」
衛里の虚しい叫びがこだました。
「待て待て待て、これおかしいだろ、どう考えても!!」
「何が。ハンデつけるって言ったじゃん」
「ハンデって普通、強い方につけるもんじゃねえのか?!力均等にするもんじゃなかったっけ?!」」
「へー、じゃあ衛里は俺より弱いって認めるんだ」
挑発的なはじめの一言。衛里は簡単にプチンとキレた。
「ッざけんな!!オメーぐらいこの程度で充分だ!!」
そう言い返す衛里の声が、これまでよりかなり高い。完全にボーイソプラノというやつだ。ついでに身長も体格も、全てが小さくなっている。
そう。衛里ははじめの呪いで、七年程時間を巻き戻されたのだ。
それをたまたま目撃していた人達は、慌てるどころか感心しきりである。はじめが魔王らしい呪いを使った現場に出くわして、感激している者さえいる。はじめ君にもあんなことできたのね、あらあら、服までちゃんと縮んでいるわ、なんて声まで聞こえてくる。
「俺に勝ったら、その呪いも解いてやるよ。そうそう、一つだけ教えてやる。霧斗のおっちゃんちにあるアイテムの中に、役立つ物が一つある。それを見つけてこい。じゃなきゃ瞬殺だぜ」
「衛里、私は大丈夫だから!」
「ほのか!」
届かないと分かっている距離に手を伸ばそうとした衛里を嘲笑うかのように、はじめはほのかを連れ去ってしまった。魔王の顔をしたまま。
はじめの事だ、いくら魔王本来の姿に変貌しようとも、言った事は守る。
何故か、確かな確信があった。
言いなりになるのは癪だが、他に手はない。衛里は駆け出した。ほのかの家、暁マジックショップへ向かって。
はじめの言う「唯一のアイテム」が何なのか見当もつかないが、それを手に入れなければ魔王を倒す事は不可能だろう。
これが今回の「勇者と魔王ごっこ」の始まりだった。