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魔王の旅立ち①

 衛里の家の中は、緊張に包まれていた。

 ベッドに寝かせられたほのかの周りには、治療を続ける護と、その回復を願い続ける衛里と霧斗、そしてはじめ。

 ほのかは青い顔をしたまま、呼吸は苦しげでさえない。完全に虫の息だ。

 一通りの治療を施した護が、息をつく。

「大丈夫なんだよな。ほのか、助かるよな」

 途端に霧斗が、怒ったように護に問いかけた。言葉こそ発しないが、衛里も同じ気持ちだ。護が悪いわけではないが、つい怒ったような口調になってしまう。

 だが護は咎めたりしない。彼らの気持ちがよく分かるから。大切な人が死の間際にいる事が、どれほど不安で辛い事か。護には痛い程分かっていた。

 だから。

 今から自分が伝える事が、どれほど彼らを絶望に追いつめるか、よく分かっていた。それでも伝えないわけにはいかない。今ここで気休めを言う程不誠実な事はないから。

「すみません」

 ほのかの傷は、肩から胸に掛けてざっくりと斬られていた。骨を断ち、内臓を傷付ける程に。いくら護の治癒魔法が他人より優れていようと、とても助けられるような傷ではなかった。

「俺が斬られるべきだったのに…」

 衛里が呆然と呟いた。

 ほのかは衛里を庇って斬られたのだ。本来ベッドで虫の息になっているのは、衛里のはずだった。

「てめえがそんな事言うな!!」

 霧斗が今度こそ激高して、衛里の胸倉をつかんだ。

「ほのかはてめえを庇ってこうなったんだろうが!助けられたてめえがそんな事ほざいたら、ほのかの行為はただの馬鹿になっちまうんだぞ!」

 絶叫のように怒鳴り散らすと、霧斗は脱力して側の椅子に座り込んだ。頭を抱え、今度は呟くように言う。

「ほのかは分かってたんだ。だからてめえにそんな事言われたら、救われねえじゃねえか…」

 娘の命が今にも消えそうだというのに、霧斗は娘の命を汲んでいた。娘が可愛いからこそ、彼女の思いを無駄にはしたくなかったのだ。

 衛里には何も言えなかった。ほのかの気持ちも霧斗の気持ちも、とても受け止められなかったら。

 重い空気が満ちる。誰も何も言わない。ほのかのか細い呼吸だけが、場を埋めていた。

 その時、はじめが口を開いた。

「ほのかちゃんを助ける方法がある」

 護がはっと顔を上げた。確かに一つだけある。しかしそれは、禁断ともいえる方法だ。

「はじめ君!」

 咎めるような護の声に、はじめはまた泣き出しそうな笑顔で答え、衛里達に伝えた。

「俺の呪いで、俺の残り時間をほのかちゃんに譲る。そうすれば、ほのかちゃんは助かる」

 それは、衛里達にとってまさに救世主のような申し出だった。だが、護の咎める言葉が気になる。何かはじめにとって不利益になるのではないのか。はじめはほのかが大好きだから、そんな自己犠牲に走ってもおかしくない。だから護は止めようとしているのではないのか。

 それに。

「け、けどオメー、呪いって…」

 戸惑ったような霧斗の声が、全てを代表していた。

 呪い。魔王の掛ける呪い。そんなもので命を永らえて、何の影響もないのだろうか。

 するとはじめは、初めていつもの悪戯っ子の明るい笑顔を見せた。

「あ、誤解してるな。呪いってのは、何も悪い事ばかりじゃないんだぞ。そもそも呪いと魔法の違い、分かってる?」

 まるで学校ごっこの先生役みたいな顔をして、はじめは指を立て、ゆっくりと室内を歩き出した。

「いいかぁ?魔法ってのは、人や精霊にできる事だ。できてもしてはいけない事をするのが呪いだ。例えば、空を飛ぶ。これは魔法。でも、命をやり取りする事。これはどう足掻いても、人にも精霊にも許されない事。だから呪い。分かるぅ?つまり、魔王が使うから呪い、勇者が使うから魔法、なんじゃなくて、その用途によって魔法か呪いかは区別されるんだ」

 つまり、とはじめは続ける。

「俺は、俺自身に呪いを掛けてる。俺の時間は、一定時間をループしている。つまり、時間の繰り返しだな。その呪いを少ぉし変えて、俺の時間を完全に止める。その上で、俺がこの先生きる予定だったはずの時間を、ほのかちゃんに譲る。だから、もし俺の寿命が明日で終わりだったら、ほのかちゃんも明日死ぬ事になるわけだけど、そんなとこまで責任取れないしね。それでいいなら、ほのかちゃんに呪いを掛ける。そうすれば、ほのかちゃんは助かる」

「それでおめーには何の弊害もないのか?」

「あっ、俺の心配してくれんの?おっちゃん、優しいなー。でも大丈夫。時間をループするか止めるかの違いだけ。俺には何の害もないよ」

 ただ、ほのかちゃんが呪いを掛けられたってことで、迫害されたりするかもしれないし、嫌な思いをするかもしれない。そっちの方が心配だ。そう言ってはじめは笑った。

「いい。何があっても俺がほのかを守る。だからほのかを助けてくれ」

 霧斗の懇願がはじめに届いた。

「衛里は?そんなほのかちゃんでも変わらないでいられる?」

 呪いを受けた事で衛里の態度が変わってしまうなら、それは何の意味もなくなってしまうのだから。

「なめんな。ほのかはほのかだ。俺のほのかに変わりはない」

「ちょっと待て、誰がお前のだ!誰が許した、俺は許してねえぞ!」

「おっちゃん、それ今言う事?」

「どんな時でもほのかは俺の娘だ、断じてお前のじゃねえ!」

 いつもの衛里と霧斗の掛け合い漫才だ。

 安心してはじめは笑った。これなら大丈夫。何があっても、衛里と霧斗はほのかの味方だ。何かあったとしても、それは一時のものだ。

 それを確信したはじめは、ほのかの枕元に歩み寄る。

 今にも呼吸を止めそうなほのかに、優しく囁きかける。

「大丈夫だよ、ほのかちゃん。絶対に死なせたりしない。ほのかちゃんは、生きて幸せにならなきゃ駄目なんだから」

 そっと枕元に跪き、ほのかの頬を両手で挟み、彼女の額に自分の額を合わせる。

「ほのかちゃん。衛里もおっちゃんも、皆待ってるよ。だから帰っておいで」

 微かにはじめの唇が動く。呪いを掛けるための呪文を唱えたのだろう。

 やがて治癒魔法に似た、暖かい光が繭のようにはじめとほのかを包んだ。脈打つように強弱をつけながら、光は明滅する。

 長い長い時間が過ぎた。物音一つしない、ただはじめとほのかの呼吸する音だけが聞こえていた。

 ゆっくりとだが、ほのかの呼吸が落ち着いてきた。か細い虫の息だったものが、はっきりとした眠りの呼吸に変わってきている。だが逆に、はじめの息が苦しげなものに変わってきていた。徐々に荒くなり、まるではじめの方が死んでしまうのではないかと思う程に。

 思わず声を掛けようとした衛里を、護が止める。護は分かっていたのだ。時を移す呪いがどういうものか。どれ程術者に負担を与える事であるのか。

 はじめの時間がほのかに移り、定着するまで、誰も邪魔をしてはならない。例えそれが、不安の元になるものだとしても。

 どれだけの時間が経っただろうか。はじめの手がずるりとほのかから離れ、身体ごとベッドの脇に倒れ込んだ。

「はじめ!」

 衛里が駆け寄る。

「大丈夫、心配ない。呪いは成功したよ」

 荒い息と、疲れ果てて焦点の合わない目ではじめは笑った。

「そうじゃねえ、おめーの心配してんだよ!」

 するとはじめが目を丸くした。まるで予想外の事を言われたように。

 実際、予想外だったのだ。死にそうになっていたのはほのかなのだから、まず彼女の身を案ずるのが普通だと思っていたから。

「おめーの魔法でも呪いでも、失敗するなんて事はあり得ねえ!だからおめーの心配してんだよ!」

 はじめは驚きから困惑に変わっていった。衛里からそれ程の信頼を受けていた事に、まず驚いた。そしてほのかよりまず自分の心配をされた事に困惑した。

 どうしていいのか分からない。思わず護の顔を見る。護は黙って頷いた。衛里の心配を受け入れる事を促すように。

「えっと…。ちょっと疲れただけだから…。大丈夫」

 もごもごと口の中で言い訳がましく、何とか言葉を紡ぐ。

「だっておめー、家一軒完全修復するだけで、三日は身動き取れなくなるって言ってたじゃねえか。今度の呪いはそんなもんの比じゃねえだろ、心配するのは当たり前だ」

「でも俺の時間だし、ただ移すだけだし…。呪いったって、そんな大層なもんじゃ…」

「どこが大層なもんじゃないって?どの口がそんな戯言を抜かしやがる!」

「元々動いてなかった時間だし…。それを譲るだけだし…」

「ごちゃごちゃうるせえ!てめえもとっとと寝やがれ!」

 衛里は噛みつくように怒鳴りつけると、乱暴にドアを蹴り開ける。素早く霧斗がはじめの身体を抱き上げ、衛里に続いてはじめにあてがわれた部屋へと向かっていった。

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