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時間はやや戻り、後ろ手に縛られて倉庫に放り込まれた頃。
俺は計画の成功ににやける口許を隠せずにいた。
台詞どころかモノローグやト書きでまで芝居を打った甲斐あって、副会長の野郎は完全完璧に己の勝利を信じ切っている。
つくづく馬鹿で愚かな男だ。
全てが自分の思う通りに運んでいると信じて疑わない、まるで中国の昔話に出てくる猿の妖怪のようで笑えてくる。
先手を打ったと思っていたらしい新入生歓迎オリエンテーションの班割りは、発表の前にAAAが生徒会のコンピュータからくすねていたから把握していた。
宇佐見に近付いたのも、そちらに目を向かせるためのブラフに過ぎない。
わざと宗太を襲わせたのも、ターゲットはあくまで俺だと知っていたからだ。
そして今。
この小屋の外では、パンダメンバーが最後の芝居を打っていることだろう。
全てはフェイク。
あの人に副会長…いや、阿部倉佳の本性を暴き見せるためだけの壮大な舞台。
本来なら力で捩伏せることなど造作もないが、それでは意味がない。
調子に乗せて驕り高ぶり勝利を確信したところで、一気にそのプライドごと叩き潰す方があぁいう手合いには効果的だ。
あの高慢ちきな顔だけの男が、あの人の前で醜く地べたに這いつくばる姿はさぞ見物だろう。
しかし、まずはやらなければならないことがある。
この忌ま忌ましい結束バンドを外すことだ。
いくら芝居だからとはいえ、あんな男に触られた腕が気持ち悪くて仕方がない。
並大抵の力では外れない、SPさえも簡易手錠として使っている結束バンドを引き千切ることは到底無理な話だ。
普通ならば。
「……くっ!」
後ろ手ということでいつもより力は出ないが、渾身の力を腕に集中させる。
ブツッという鈍い音と共に、腕にあった締め付けが消えた。
俺にかかればこれくらいどうということはない。
腕が僅かに赤くなってはいるけど、関節を外して縄抜けするくらいならこっちの方がこれから起こるクライマックスには向いているだろうと判断した。
関節を嵌めてすぐだと、上手く力が出ないからな。
パンダの実力は十分理解しているが、出来るだけ派手な方が演出上面白くなる。
自由になった腕をグルグルと回して軽くウォーミングアップすると、扉の傍に歩み寄り外の様子を伺う。
どうやら、役者は揃ったらしい。
ちなみに余談だが、俺の暗所・閉所恐怖症は本当の話だ。
とっくの昔に克服したが。
この外見のせいで、幼稚園の時にイジメられたのがきっかけだった。
一時的に暗くて狭いところが苦手になり、常にドアというドアを開けていたのは懐かしい思い出だ。
それからというもの俺はありとあらゆる格闘技や武道を習いまくり、3ヶ月でイジメてきた奴らをギタギタのメタメタにしてやって無事トラウマを克服できたというわけだ。
その頃に手当たり次第身体に覚えさせていた名残からか、今でも俺の戦闘スタイルはメチャクチャだ。
よく実験台一号に『何人もを相手にしてるみたいだ』って言われてたし。
話はズレたけど、俺が言いたいことはただひとつだ。
俺は最強だ。
別に傲慢だとかではなく、客観的に分析した結果がこれなのだから仕方がない。
外の様子からすると、みんな中々の演技を披露しているようだ。
俺ほどじゃないにせよ、今回の功労者は輪廻に決まりだな。
宗太も意外と良い役者振りだったが、何よりあの副会長に取り入り仲間の振りをして更には同じ班になるなんて、俺だったらまず堪えられない。
自分から志願しただけあって、今回の輪廻の働きは何か褒美を与えてもいいくらいだろう。
『副会長が言ってることは、本当だよ…輪廻君が黄金を…ッ』
おっと、そろそろ俺の出番かな。
『ふふ…、ハハハッ! いい気味だなっ、篠宮黄金ひとりを手に掛けただけで、こうも目障りな奴等を纏めて絶望させることができるとは! 黄金様々だな!』
ここの倉庫は閉じ込め防止のために内側にも鍵穴があることを、副会長は知らない。
そして、その鍵が俺の手にあることも。
―――ガチャリ
「……そりゃ、ありがとよ」
さぁ、幕を下ろそう。
俺の掌の上で踊っていたことにようやく気付いた副会長は、この暗がりでもわかるほど顔面蒼白になっている。
長い栗色の髪を夜風に揺らし、副会長の整った顔が段々と怒りに歪んでいく。
この場にいるのはパンダメンバーの5人と、コイツ。
そして、コイツが雇ったゴロツキ共だ。
…とくれば、副会長の次の行動は手に取るようにわかる。
そして…
「出て来いっ、コイツらを痛め付けろ!!」
お前には悪いけど、それすらも俺のシナリオ通りなんだよ。
小屋の影から現れた20人前後の男達は、手に手に武器を持ってはいるもののどう見ても素人に毛が生えた程度だ。
この程度の男達がどんなに数に頼ろうとしても、この俺を倒すことなんてできやしない。
「あんれぇ~? チョー可愛い子がいんじゃん!」
「マジでお人形みてぇ!!」
「他の奴ら片付けたら、その可愛子ちゃんに相手してもらおうぜぇ?」
「そりゃいいな!」
ぞろぞろと出てきたかと思えば、舐めるような粘着質な眼差しで俺を見てくる男共に、パンダメンバーの殺気が急激に膨らんでいく。
余計なことを言わなければ一発で楽になったかもしれないのに、この雰囲気じゃそうもいかないようだ。
パンダを、いや、この俺を怒らせて楽に気絶させてもらえると思うなよ。
乱闘になるであろう俺達周辺から僅かに距離を取る副会長を確認して、寄り掛かっていた壁から背中を離す。
どうやら副会長は俺達がボコボコになるのを見学するつもりらしい。
それでいい。
今逃げられたら面倒なことになる。
「悪いけど、君達のような下衆な男に黄金君は渡さないよ」
「大体さぁ~、アンタ等じゃ役者不足なんだよ~ん。ボスの王子様はこの輪廻君だ~け!」
「輪廻君より真紀君の方が王子様っぽいけどね」
「………黄金、見るの…止めろ…っ」
パンダのあからさまな挑発に簡単にチンピラ共がブチ切れる。
あーあ、ユキトも完全にキレてるし、こりゃ俺の出番はないかもしれない。
折角結束バンド引き千切ったっていうのに…
「野郎ッ、ガキだからって容赦しねぇぞ!!」
一番前に出ていた真紀に向かって、チンピラが拳を叩き下ろす。
それをヒラリとかわすと、そのまま真紀は脱兎の如く逃げ出した。
「なっ! 逃げてんじゃねぇぞゴルァア゛ア!!」
それを追って何人かのチンピラが走り出すけど、これは別に作戦でもなんでもない。
真紀は偽王子様に見合って、喧嘩が全くできない。
だからこれは、マジで逃げている。
打って変わってユキトは人を殴ることができない代わりに、長身の分だけリーチの長い足で次から次へと男達を蹴り飛ばしている。
輪廻も男達が動き出す前から行動を読み、器用に避けながらわざと急所を避けて殴り飛ばしていく。
コイツ、絶対にドSだな。
「随分と余裕だな、篠宮黄金」
鬼のように暴れ回る二人をぼんやりと眺めていると、不意に背後から声がかかった。
後ろにいることは最初から気付いていたから別に驚きはしないが、振り返るとロープで縛られたままの宗太を人質にとっている副会長がいて心底呆れ返ってしまう。
コイツは本当にわかりやすい行動をとってくれるな…
「おい、あそこで暴れている二人を止めろ! でないと、この平凡がどうなっても知らないぞっ」
普段は理性的な副会長を演じている癖に、一皮剥けばこんな三流の台詞を吐く安い男に成り下がるなんてバカらしくて笑えない。
この不様な姿をあの人に曝していることにも気付かずに。
脅されているにも関わらず一向にユキトと輪廻を止めようとしない俺に焦れたのか、副会長は懐から取り出した折りたたみナイフを宗太の頬に押し当てた。
「コイツがどうなってもいい訳? それともやっぱり、お前にとってコイツは取るに足らないただの駒だったのか?」
わざとらしく安い挑発をしてくる副会長は、滑稽を通り越していっそ可哀相に見えてくる。
「……あのさぁ、あんまり俺の下僕を舐めんじゃねぇよ。はじめから宗太を平凡だ何だって馬鹿にしてたが、テメェがそいつの何を知ってるってんだ」
どんなに挑発しようが脅そうが俺には全く通用しないし、そもそも初めから助ける気なんかこれっぽっちもない。
庇うつもりも手を貸すつもりも全くない俺に、副会長の顔が醜く歪んでいく。
「俺が手を出す必要もねぇ。言っとくが、そいつは…」
副会長にナイフを突き付けられている宗太は怯える素振りすら見せず、俺に向かっていつもの穏やかな笑みを浮かべている。
ここからでも聞こえてくる。
ブチブチという縄が切れる音が。
「宗太は、単純に力だけならこの場にいる誰よりも強ぇんだよ」
ブチィッ!!
「…ぐぁっ!」
俺が言い終わるや否や、宗太が自分を拘束していたロープを自力で引き千切った。
相変わらず化け物のような怪力だ。
ロープを千切った動きを利用して、宗太の肘が副会長の腕を弾き飛ばす。
驚愕と痛みに顔を歪ませて副会長が地面に膝をつき、クルクルと宙を旋回したナイフがそのまま俺の足元に突き刺さった。
「……宗太、お前もう少し考えろ。今の動きじゃ下手したら刺さってたぞ」
「いや…だって、勢い余って偶然当たっちゃっただけだから」
利用したんじゃなくて偶然だったのか……これだから宗太はいつまで経っても喧嘩が強くならない。
自分の力くらいコントロールできなければ、怪力もただの宝の持ち腐れだ。
ま、俺は宗太に率先して喧嘩させようとは思っていないけどな。
戦力なら他の3人で十分だ。
腕を押さえてうずくまっている坊ちゃんは気付いていないだろうが、すでに3人の手でチンピラ達は地面とお友達になっている。
ちらりとそちらに目をやれば、森の中で拾ってきたのか真紀が棒状の枝を持っていた。
喧嘩はからきしだが、一度棒状の物を持てば真紀はかなり強い。
何せ自他共に認める剣術マニアだからな。
「さぁて、残るは貴方だけだよ。阿部倉副会長」
「謝るんだったら~、今だよ~?」
「………黄金に触った、殺す…」
最後のユキトの台詞は敢えて聞かなかった振りをして、俺は一向に顔をあげる気配のない副会長を見下ろした。
さぁ、知力でも力でも太刀打ちできなかった俺に、次は何で戦う?
「ふ…ざけ、るな…ッ! 私は…俺はっ、負ける訳にはいかない!! お前達の家柄は把握している! 白峰真紀はデザイナー、椿ユキトは警察庁、奥薗輪廻は華道家元、矢崎宗太は料亭。それぞれ中々の家だが俺には遠く及ばない!! 特に篠宮黄金ッ、お前の家は母親だけでしかもただのOLらしいな! そんな虫けら同然の身分でこの俺に勝てると思っているのか!?」
随分とお気楽な脳みそをしているらしい副会長は、予想通り権力を振りかざしてきた。
自分の物でもない権力に縋り付き、この絶望的な局面を一気に逆転しようとしているのだろうけど、残念ながら今回だけは自分の首を絞める結果となるだろう。
俺の前に権力など無意味だし、何より木陰で見ているあの人にとってはまさに逆効果だと言ってもいい。
「そろそろ出てきても良いぞ」
俺が声をかけると茂みが僅かに揺れ、間を空けることなく歩み出てきた人物が月明かりの下で立ち止まる。
本日のスペシャルゲストの登場だ。
月明かりの下に佇むのは、上品なスーツに身を包み栗色の髪を撫で付けた美しい青年だった。
そして、それは正しく…
「…に、……兄、さん…」
阿部倉嫡男であり副会長の実兄、阿部倉絶その人だ。
3年前にはこの学園の生徒会長も歴任した、阿部倉佳の最大のコンプレックスにして絶大な憧れの対象でもある男。
日頃副会長がつけていた理知的で穏やかな仮面は、全てこの兄の模倣にしか過ぎない。
常に優秀な兄と比べられ劣等感を抱きながらも、副会長は強い盲信的なまでの憧れを兄に抱いていた。
そう、副会長が最も恐れること。
それは、尊敬する兄に自分の本当の姿を露見され、阿部倉家の庇護を失うこと。
俺達はこの瞬間のために今回の策を練ってきたのだ。
輪廻を副会長へと送り込み情報を操作し、俺と宗太が罠に掛かった振りをしている間にユキトと真紀が手配する。
こんなにもシナリオ通りでいいのかと、俺自身がゾッとするほど計画は順調に進んだ。
「佳、お前はこんな卑劣なことをしていたのか」
「それ、は…」
「話を聞いた時には半信半疑だったが…お前には失望した」
「…ち、がう…ッ…違うんですっ、兄さん!」
怒りも困惑もなくただ静かに見下ろしてくる兄の視線が恐ろしいのか、うずくまったままの副会長の華奢な肩が小刻みに震えている。
その目にはうっすらと水の膜が張っているのを見受けられ、さっきまでの三流悪人面は影も形もない。
周囲の目、優秀な兄、プレッシャー、コンプレックス、尊敬、憧れ。
様々な因子が作用して、今の歪んだ副会長を形作っているんだろう。
だからこそ、阿部倉佳は人の上に立つ器ではない。
成人して社会に出ればその重圧は今の比ではないし、阿部倉家程の規模になればその背中には何千何万という人間の人生を背負わなければならない。
たったこれっぽっちのプレッシャーに潰されるくらいの器なら、この学園の生徒会でも不相応ってもんだろう。
頭脳でも力でも勝てず、権力さえも奪われた副会長。
今俺達の前でみっともなく震えている姿は、ただの小さな子供としか思えない。
「………バカだな、テメェは」
「何だとッ!」
俺の言葉に噛み付くように睨む副会長は、最早半泣き状態で全く怖くも何ともない。
「誰も本当の自分を見てくれない。本当の自分を見られるのが怖くて、兄貴の模倣ばっかして。それでも自分を見てほしくて、仮面を剥ぎ取ってくれた転校生に盲目なまでに執着して。テメェは矛盾ばっかなんだよ。仮面なんて端からつけなきゃ、そもそもそんなに歪むことはなかったんだ」
「…貴様に、何がわかる! 俺にとっては阿部倉家が全てなんだっ、例え当主になれなくても阿部倉家に相応しい人間でいなきゃならないんだ!! 庶民のお前にわかるはずがない!!」
慟哭のように響く副会長の声に、静かに見詰めていた兄の顔が切なさを帯びていく。
「それは聞き捨てなんねぇな、阿部倉」
何時からいたのか森の中から現れたのは、俺が置き去りにして撒いてきたはずの生徒会長様だった。
おいおい、明かりもないのにどうやってここまで辿り着いたんだよ、化け物か…?
それ以前に、このタイミングでの登場は非常にマズイ。
普段は余裕綽綽としているクセに、今の十時は口許に笑みこそ張り付けてはいるものの絶っっ対に機嫌が悪い。
今コイツを喋らせる訳には…
「黄金に重圧がわからねぇ? 庶民だぁ!? ふざけてんじゃねぇぞ、阿部倉。コイツはな、俺らなんかとは格が違う『ファルネーゼ家』の嫡男なんだよ!」
ちょっ、何言ってんだこいつぅうううううーーーっっ!!!!!?
地面に倒れている男達の間に立つ、総勢8人の面々に緊張が走る。
ひょっこり森から現れただけの十時のせいで、俺が折角隠してきた秘密があっさりと露見してしまった。
あのAAAでさえ掴むことの出来なかった俺の出生の秘密。
まるで自分のことのように誇らしげな顔をしている十時を、今は無性に殴りたい。
「……ファル、ネーゼ…」
この重苦しい沈黙の中はじめに口を開いたのは、意外にも宗太だった。
「黄金君が…あの、ファルネーゼ家の嫡男?」
流石に世界を飛び回るデザイナーの母を持つだけあって、真紀はファルネーゼ家を知っているみたいだな。
それに比べてユキトと輪廻の表情からすると、この二人は全くわかっていないようだ。
三者三様の反応を見せるパンダメンバーとは違い、阿部倉兄弟は揃って顔色を青ざめさせている。
日本を代表する名家であると共に医者の家系である阿部倉家は、どうやらファルネーゼ家をご存知のようだ。
「そ、そんな…っ…コイツの母親はただの会社員のはず…!」
「あー…黄金の母親は普通の人だからな。ファルネーゼ家当主と結婚しても、仕事を辞めずに続けてるらしいぜ」
「人の母親のこと説明してんじゃねぇっ、ぶっ殺すぞ十時」
何だってこんなに口が軽いんだ、この男は…
何のために俺がわざわざ日本名を名乗って、出生を隠し、日本の高校に通ってると思ってんだ。
「ファルネーゼ家といえば古くからある由緒正しいイタリアの元貴族で、現ローマ法王の家系でもあるはずだ…。権力も去ることながら、その影響力たるや世界情勢を動かすことも容易だと聞く。この少年が次期ファルネーゼ家当主だというのか…」
さっきまで凛としていた阿部倉兄が、まるで自問自答するかのように呆然としたままブツブツと呟いている。
盲信する兄の様子に副会長もようやく自分が犯した過ちに気付いたらしく、最早立ち上がる気力も失っているようだ。
「黄金はなぁ、ファルネーゼ家当主と日本人である瑠璃さんとの一人息子で、本名はレオーロ・ファルネーゼっつーんだ。生まれる前からずっと命を狙われてて、今も多分日本に雲隠れしてんだろ。確か飛び級して大学は卒業してるはずだしな。これでわかっただろ、阿部倉。テメェが感じてる重圧なんか、黄金が生まれながらに背負っている重圧に比べりゃ綿埃にも劣るんだよ」
何故そこまで理解しているのに、ベラベラと秘密を漏らしているんだこの男は。
「…塚越、何故そんなことをお前が知っている」
「俺と黄金は親戚なんだよ」
「「「「親戚!!!?」」」」
好き勝手喋っている十時を呆れながら見ていると、親戚の下りで何故かパンダメンバーが一様に驚いている。
そんなに驚くことだろうか?
どう見たって十時はイタリア系の甘くワイルドな顔立ちをしているし、俺は金髪碧眼の明らかに外国人的な容姿だ。
それに知り合いだと言ってあったはずなのだが。
「俺の母の父の母の上の兄の息子の長男の一人息子が黄金だ」
わざわざご丁寧に説明しているらしいが、どう考えてもわかりづらい十時の説明に他の奴らが険しい顔をしている。
恐らく頭の中で懸命に家系図を作っているんだろう。
「俺の曾祖父の妹が、十時の曾祖母で8親等に当たる」
「あー、さぁすがボス~。塚越会長と違ってわかりやす~い!」
ようやく合点がいったようで、輪廻が嬉しそうに手を打ち合わせている。
十時は不満そうだがここは敢えて無視するとしよう。
「残念だったな、阿部倉佳。お前がどう足掻こうと、俺には一生勝てないんだよ」
俺が書いたシナリオにはないアクシデントこそあったが、概ねこれでしばらくは平穏に過ごせるだろう。
一先ずは第一幕が終わったということか。
***
3日目の夜は晩餐会だ。
ホテル・インペラトーレが誇る体育館2個分ほどの大広間は、床には一面磨き抜かれた白い大理石が嵌め込まれ、巨大なシャンデリアが5つもぶら下がる恐ろしく豪華な作りだ。
重ねて言うが、このホテルが将来十時の物になると思うとシャンデリアのひとつも叩き落としたくなる。
視線を巡らせれば人人人…
思い思いに着飾った生徒達が立食形式の料理に舌鼓を打ち、憧れの生徒会の登場を今や遅しと待っている。
中には何を血迷ったのか男のクセにドレスを着ている奴までいて、何度吐き気を堪えたことかわからない。
かく言う俺は、黒の燕尾服というシンプルで楽なスタイルだ。
蝶ネクタイもワンタッチだから、実は燕尾服はスーツよりも気楽に着れる。
そして隣にはグレーのスーツを身に纏った、風紀委員長の片桐篤彦。
圧倒的に地味な格好をしているというのに、その凛とした顔の造形と雰囲気に周囲の視線を集めまくっている。
まぁそれは、俺がいるせいかも知れないがな。
「良く似合ってるぞ、篠宮。そういうシンプルな服の方が、お前の派手な容姿には馴染む」
「派手で悪かったですね。片桐先輩こそ、地味なスーツなのに凄い存在感なんですけど」
「それは風紀委員長という肩書きのせいだろう」
もしかしてこの人は、自分の凄まじいほどの人気に自覚がないのだろうか。
そもそも、人徳と人気がなければ風紀委員長になんかなれるはずもないというのに、こんな理知的な人が意外と抜けている姿は中々に好感が持てるものだ。
実に可愛らしい。
「それにしても驚いたぞ。アドレスを書いたメモにあんなことが書かれているとは、流石の俺も想像だにしていなかった」
「感謝しています、片桐先輩」
初日に委員長に渡した紙には俺の携帯番号とメールアドレスだけではなく、一言言葉を添えていた。
『このオリエンテーション中は、どうぞゆっくりと休まれて下さい』
俺は今回必ず騒ぎになることがわかっていた。
その為、そうなった時に1番最初に動くであろう風紀委員には大人しくしていてほしかった。
あの場にもしこの男が乗り込んできたのなら、副会長だけではなく俺達も何等かの処罰を受けることになっていただろう。
委員長が頼みを聞いてくれるかは正直賭けに近かったが、俺はその賭けに見事勝った。
その裏にどんな思惑が働いているかはわからないけど、委員長を敵に回すことがなかったのは大いに安心した。
「俺は元来ボランティア精神など持ち合わせてはいない。所詮は子供の喧嘩だ、自分達で解決するのが道理だろう。しかし、この学園に於いては一方的な暴行が多いから、それに関してだけ風紀は動く。今回の騒動は俺達の出番はないと判断した、ただそれだけだ」
この片桐篤彦は俺が思っていた以上の男かも知れない。
物事の善悪、道理を正しく判断できて尚且つそれは硬い意志によりぶれることがない。
風紀としては申し分ない人格者だ、裏があると邪推した自分が恥ずかしくなる。
「俺、片桐先輩のそういうところ凄く尊敬します」
「なっ、…何を…ッ」
おっと、これは予想外だ。
委員長の白い頬が見る見るうちに赤みを増し、自覚があるのか片手で口を覆って外方を向いてしまった。
明らかに照れている様子の委員長に、遠目でこちらを伺っていた生徒達も一様に目を丸くしている。
常に己を律しているこの人でも、こんな普通の高校生のような反応するんだな。
「ふふっ、片桐先輩真っ赤っ赤」
俺がそう揶揄うと、委員長の顔は面白いほど更に赤くなっていく。
怨みがましそうな目でちらりと見られるが、顔を真っ赤にした委員長じゃ全く怖くない。
そんな穏やかな空間に癒されていると、
「黄金―――っ!!」
それをぶち壊すように、悪魔がやって来た。
そう、第一幕が終わっただけで、この馬鹿げた喜劇はまだまだ幕が下りたわけではない。
コイツをどうにかしない限り、宗太の…俺達の平穏はないのだから。
この洗練されたホールに相応しくないボッサボサの髪に相変わらずの瓶底眼鏡をかけている緋野陽が、恐らくあの阿呆理事長から買い与えられたのだろうスーツだけは質の良い物を着てこっちにやって来ようとする姿が見える。
左手をブンブンと振り回し、右手は濃緑色の落ち着いたスーツを着ている宗太の手を握っているようだ。
しかもかなりの強さで握っているらしく、宗太の顔が痛みに微かだが歪んでいる。
俺の存在に気が付くよりも、宗太の顔に気付けよクソが。
さっきまでの和やかな雰囲気から一変、俺の顔が強張ったのを見て委員長がさりげなく緋野陽との間に立ってくれた。
わざと顔に出したんだが、やっぱり委員長は空気が読める実にいい人だ。
それに比べてコイツときたら…
「もうっ、捜したんだからな! ホントは自由行動だって一緒にしたかったのに見付かんねぇし!! 今日は最後なんだから一緒に楽しもうぜ、黄金!!」
まるで周りに聞かせてるんじゃないかと思うほど馬鹿デカイ声で喚き、俺に話し掛ける度に周りからの視線がきつくなるのにすら気付かない激鈍振りだ。
愚鈍にもほどがある。
それは委員長も痛く感じているようで、俺から見えるその横顔が冷たいものになっていく。
いや、これが普段の片桐篤彦という人物なのだが、さっきまで赤く可愛らしい顔を見ていたからそのギャップに些か驚いてしまう。
「君、場を弁えないか。この場は将来社交の場に出るための教育の一貫として行われている。いや、すでに皆人脈を広げようとしているのだから、社交の場と言っても良いだ……」
「は? アンタ誰だよ」
まだ言葉途中だというのに遮った上、初対面にも関わらず敬語を使おうともしない緋野陽に周りからブワッと殺気が立ち上る。
ちらりと宗太に目を向ければ、ちゃっかり緋野陽から手を離して困ったように笑っていた。
こうやっていつも笑っているのは宗太の美点でもあり、ここまで緋野陽に好き放題させる結果となった原因のひとつでもあるだろう。
しかしまぁ、本人はこのスタンスを変えるつもりが全くないから諦めるしかないのだが。
「俺は3-S、風紀委員長を勤めている片桐篤彦だ。君のことは知って……」
「俺は緋野陽! よろしくなっ、篤彦!!」
嗚呼、馬鹿の極みだ。
また言葉を遮るわ、年上だと知っても敬語を使わないわ、下の名前を呼び捨てだわ。
もうここまでくると救いがたい。
しかも相手はこの学園唯一の良心といっても過言ではない、清く正しく美しい天下の風紀委員長様だ。
「先ほど俺が言ったこと聞いていたのか? ここは社交の場だ。年上の者には敬語を使うことが最低限のマナーだろう。それにそんな大声を出すのも許しなくファーストネームを口にするのも、言葉を遮るのも手を振り回すのもマナー違反だ。君も将来何百何千もの社員を背負っていく者として、今から自覚を持ち自分の行動には責任を持って……」
「そんなの間違ってる!!」
また遮るのか!!
しかも、表情や声は冷たいが格段に優しい言葉を選んでくれている委員長に気付きもしないで、頭ごなしに間違ってるだと!?
もし俺が委員長の立場なら、無視か殴るか蹴るか再起不能にするか廃人にしてやるところだぞ。
「学校ってのは友達を作る場所だろ!? その友達の名前を呼ぶのは普通だし、敬語なんか使ってたらいつまで経っても仲良くなんかできねぇよ!! 言いたいこと言い合うのの何が悪いんだっ、嬉しい気持ちを身体で表現するなんて当たり前のことだろ!! ルールは大切かもしんねぇけど、それに縛られるのはよくねぇよ!! 俺は有りのままのアンタと仲良くなりたい!! なっ、今日はマナーとか忘れて楽しもうぜ!!」
………。
もう何処からツッ込めばいいのか、流石の俺もお手上げだ。
「もぉ、勝手にいなくなんないでよぉ」
緋野陽のお粗末過ぎる持論に一瞬時が止まっていたが、そこにやけに間延びした声がかかりようやく時が動き出す。
ちらりと視線をそちらに向けると、結婚式と勘違いしているのではと思うほど純白のスーツに身を包んだ白髪に赤目の男が宗太の後ろからやって来るのが見えた。
長身に甘いマスクのその男は、紛れも無く片桐篤彦の幼馴染みにして右腕、風紀副委員長の和沢孝一郎だろう。
間延びした話し方が何処かの誰かを彷彿とさせるが、そういえば確か宗太と同じ班だったな。
「宗太君はオレの班だよぉ、勝手に連れてかないでよぉ」
副委員長がへらへらと笑いながら宗太の肩に手を置いた瞬間、周囲から悲鳴が上がる。
コイツ…自分の人気を知っていて、わざと肩に触りやがったな。
「はぁ? お前誰だよ!」
出た、緋野陽は初対面の奴にはこれしか言えないのか…
「オレはぁ、3-Sで風紀副委員長してる和沢孝一郎っていうんだぁ。君のことは知っ…」
「俺は緋野陽! よろしくなっ、孝一郎!!」
緋野陽のお決まりの台詞を聞いて、俺の少し前に立っている委員長が険しく眉を寄せる。
それはそうだ、委員長の忠告なんか全く聞く気がないこんな態度を見せられれば誰だって気分を害する。
言った本人ではないが、俺も、周りの野次馬達も一様に青筋が浮き上がったに違いない。
しかし、そんな頗るムカツク緋野陽の言葉に動じることなく、宗太から手を離した副委員長は笑みを絶やさずに緋野陽に手を差し出した。
「こちらこそよろしくぅ」
「おう!!」
差し出された手が余程嬉しかったのか、緋野陽は副委員長の手を握ってぶんぶんと激しく振った。
いやいや、シェイクハンドとは言うけど、いくら何でもそれはやり過ぎだろう。
鍛えていない奴だったら肩が脱臼しそうなほどの勢いだ。
しかもかなりの力で握られていたのだろう、緋野陽が手を離したところが痛々しいほどに赤くなっていた。
痛いなら痛いと言えば良いのに、副委員長の顔から笑みが剥がれる気配すらない。
前々から気にはかけていたが、もしかすると委員長である片桐よりも和沢の方が注意が必要かもしれない。
「……孝一郎。班の者を見す見す連れて行かれるなど、お前らしくないじゃないか」
「ごめんねぇ。同じ班に嫌いな子がいてぇ、それに気を取られちゃったぁ。許してねぇ、あっ君」
ふにゃりと頬を緩める副委員長の顔を見て、あの情報が真実なのだと改めて確信する。
和沢孝一郎は片桐篤彦に依存している。
AAAの言う通り、これは利用できそうだ。
委員長さえこちらに引き込んでしまえば、労さず自動的に副委員長も手駒になるというわけだからな。
「孝一郎と篤彦って知り合いなのか!? 篤彦のことあっ君とか言ってるし!」
何を聞いていたんだコイツは…
「オレ達は委員が一緒なんだぁ。それに幼馴染みだしぃ、ね、あっ君」
「あぁ、お前とは生まれた病院からの付き合いだからな」
「幼馴染みか、いいな! なぁなぁっ、俺も篤彦のことあっ君って呼びたい!! いいだろ!?」
緋野陽は三百回生まれ変わっても馬鹿のままだろうな。
視界の隅にいる宗太の隣に、パーカーの上からジャケットを羽織った奇抜なファッションの輪廻がいつの間にか立っていた。
確か輪廻も宗太と同じ班だったはずだから、副委員長の嫌いな子というのは輪廻のことだろう。
見た目は全く違う二人だが、話し方が似通っている…俗にいうキャラ被りというヤツだ。
「絶対にダァメ」
ニコニコと笑いながら言い聞かせるように緋野陽に振り返る副委員長だが、その頬が一瞬ヒクついたのを俺は見逃さなかった。
「何でだよ!! もう俺達友達じゃん!! 孝一郎が何て言ったって俺はあっ君って呼ぶからなッ、はい決定!!」
何て愚かな生物なんだろう。
緋野コンツェルンの次期社長の身でありながら、浅はかで傲慢で稚拙な緋野陽の言動には毎度驚かされるばかりだ。
仲間外れにされるのが嫌、みんなに愛されたい、自分が愛されないはずがない、話題の中心にいたい、全てを知りたい。
醜い本心が容易く透けて見える言葉の数々に、何故副会長や双子達が緋野陽に好意を持てたのか不思議でならない。
「だからダメだってばぁ。そもそも、下の名前で呼ぶのも駄目だからねぇ?」
「何でだよ!! 俺達友達だろ!?」
『友達』とはそんなに簡単なものじゃない。
『友達』を免罪符に何をしても許されるという短絡的な思考回路に自分が言われたわけでもないのに苛立っていると、突然会場内が沸き立った。
凄まじいこの歓声からすると、恐らく生徒会様のご登場だ。
ホールの一番奥に備え付けてあるステージに、正装した生徒会メンバーが現れた。
生徒会長の塚越十時。
副会長の阿部倉佳。
会計の本間林檎。
書記の本間蜜柑。
いつもに増してきらびやかなオーラを惜し気もなく放っている生徒会に、会場内の生徒達は絶叫に近い歓声を送っている。
俺には全くもって理解不能だ。
普段は飄々としている輪廻でさえ険しく眉を寄せるほどの騒音の中、にこやかな腹黒笑顔を貼付けている副会長とちらりと目が合った。
阿部倉佳。
副会長を辞めさせることも学園から追放することも、社会的に抹殺することも俺には容易かった。
しかし、俺はそうはしなかった。
奴を排除するメリットより、このまま俺の手駒とするメリットの方が大きいと判断したからだ。
副会長は牙や爪を全て折られ、最大の弱点である兄さえも俺の手中にある今、絶対服従を誓う以外に生きていく術はない。
屈辱と恥辱に塗れて俺の靴を舐めるしかできないのだ。
まぁ、俺はサディストでも何でもないからそんなことはさせないけど。
それにこれは、あの人たっての希望でもある。
もちろんあの人とは副会長の兄等ではなく、俺が唯一頭の上がらない多大な恩義がある人物だ。
「……うわ、会長カッケェ…」
不意に隣から聞こえてきた呟きに視線を向けると、モッサリヘアから辛うじて見える頬を赤く染め上げた気色の悪い緋野陽がいた。
その視線の先にいるのが緋野陽を愛してやまない副会長でも、日頃から一緒に遊んでいる双子でもないのが滑稽でしようがない。
副会長と双子は己の見る目のなさを嘆けばいいとして、緋野陽は最早救い様がないだろう。
よりによって十時に懸想するとは。
『うるせぇぞ、テメェ等』
マイクを介して聞こえてきた十時の声は、いつもに増して高圧的に聞こえる。
いや、ただ単純に機嫌が悪いだけかも知れない。
あんなことを頼まれてにこにこ笑顔でいられるほどアイツも図太くはないということか。
『いきなりだが、今から任命式を行う』
十時が話しはじめたことにより一旦落ち着きを見せた会場内だったが、突然の言葉に再びざわつきだした。
それもそうだろう、こんなオリエンテーションの最中に任命式など前代未聞だ。
『2-S、緋野陽を本日をもって生徒会補佐に任命する』
途端に上がる絶叫。
遂に生徒会長まで緋野陽に傾倒してしまったのかと、生徒達が悲痛な声を上げる。
視界の端では恐らく親衛隊総隊長の生徒らしき少年が倒れるのが見えた。
まさに阿鼻叫喚といったところか。
隣に立つ緋野陽は周りからの憎悪や殺意のこもった視線など全く気付きもせずに、唯一見える口をぽっかりと開き首まで赤くしていた。
恐らく気になって気になって仕方がない十時から思いも寄らない任命を受け、驚きながらも内心嬉しくて仕方がないんだろう。
嗚呼…気持ち悪い。
『緋野陽、ステージに上がれ』
相変わらずの命令口調で十時が言えば、そわそわと浮足立っていた緋野陽が嬉しそうにステージへと向かっていく。
本当なら足でも引っ掛けてやりたいところだろうが、生徒達は憧れてやまない生徒会の見ている前でそんなこと等できるはずもない。
ただ歯を食いしばってステージへと上がっていく緋野陽を睨み付けるのみだ。
『緋野陽、お前にはこれから生徒会補佐として俺達と働いてもらうからな』
「なっ、何で俺が生徒会補佐なんてしなきゃなんねぇんだよ! 勝手に決めんな!!」
マイクを通していないというのに緋野陽の馬鹿デカイ声がここまで聞こえてくる。
「あれ、文句言ってるつもり~? 口がチョー笑ってんだけど~」
いつの間にか近寄って来ていた輪廻が、まるで汚物でも見るかのような眼差しでステージを眺めていた。
「緋野君、本当に塚越会長が好きなんだね」
さっきまで安全地帯に避難していた宗太も、俺の隣で苦笑を浮かべている。
ステージでは十時が緋野陽を抱き寄せ、耳元で何事かを囁いていた。
「さぁて、十時は上手く立ち回ってくれるかな」
幕間休憩もそこそこに、第二幕の開演だ。
今回の主役は、はてさて誰になるのだろうか。
***
side:白峰 真紀
私は両親と自分の、極ありふれた核家族だった。
ただ普通と違ったのは、両親の職業。
父はフランスで有名なモデルで、母は世界中を股にかけるデザイナー。
パリコレで出会ったらしい両親はすぐに惹かれ合い、愛される存在として私は生まれた。
父よりも母よりも優れた美貌を兼ね備えて生まれてきた私は、否応なく周囲から絶大な期待を一身に受けることになる。
しかし、父も母も私を愛してくれていた。
その愛は今も変わらない。
けれど…会えないのは、辛い。
多忙を極める父と母は家に帰ってくるなど稀で、1ヶ月に1度、悪くて半年に1度会えるか会えないかだった。
その間私の世話をしてくれた者達は、今考えても嫌悪の対象にしかなり得ない。
将来が有望でそこそこ裕福な美貌の少年とは、得てして汚れた大人達の獲物となってしまうらしい。
まだ10歳ほどだというのに、住み込みで雇われていたメイドや家庭教師の女が私をベッドに誘い込むのは当たり前。
シェフや執事は気に入られようと媚びへつらい、何処かの企業や事務所が何かしらの契約を取り付けようと引っ切り無しにやって来た。
私がまだ何も知らない子供だと侮っていたのだろう。
初めこそショックを隠しきれなかったが、すぐに慣れてしまうほど頻繁にそれらは続いた。
使用人達を解雇しても、私から全てを食い尽くそうとする人間が代わるだけだと気付き、それからは解雇することも誘いに乗ることもせずただニコニコと愛想よく振る舞うことに徹した。
以前、唯一私のことをただの友人として扱ってくれた使用人の少年が、他の使用人達からの醜い嫉妬により酷い虐めを受けて辞めさせられたことがある。
その時に私は誓った。
もう二度と彼のような被害者を出してはならないと。
そのためには、私は『特別』を作ってはいけないのだと。
父と母の評判を落とさないため、私は周囲を突き放すのではなく笑顔でほんの少しだけ受け入れてやる方法を選んだ。
全てを受け入れる気はさらさらないけれど、この美貌で微笑みかけほんの少し甘い言葉をかければ誰も文句を言う者はいなくなった。
これでいい。
これで誰も傷付けずに済む。
その時には本心からそう思っていた。
日本人である母に日本の高校進学を進められたのは、私が14歳の頃だった。
性に関しておおらか過ぎるフランスの学校に激しい抵抗を感じていた私は、一も二もなくその話に飛びついた。
両親に会えないのはフランスにいても日本にいてもそう変わらないのなら、私は自分を知らない人達の中新しい環境で暮らしてみたかった。
日本でも有名な全寮制の男子校に入学して、私は激しく失望したのを覚えている。
ここも、フランスと何も変わりはしないのだ。
ただ家柄よりも私の容姿に擦り寄ってくる者が多いことと、それがみんな男だということくらいが違いだろうか。
しかし、同時に安堵していた自分もいる。
こういう手合いのあしらい方は心得ているし、何よりも人は集団における己の位置を確保しなければ生きていけない生物だ。
ここでの私の立ち位置は、新入生の中で最も美しく皆に平等に愛を注ぐ生徒だ。
自分で言っても鳥肌が立つ。
だが私はそういう生き方しかできないのだから、これはもうどれだけ気持ち悪くても諦める他ない。
今回新入生の中で外部からきた生徒は私を含めて5人いるらしい。
私の周りにいたやけにベタベタと触ってくるクラスメイトが、気を引くためにかわざわざ入学式の際に教えてくれた。
明らかに異様な雰囲気を放っている奥薗輪廻。
一際高い身長で髪の長い椿ユキト。
何処からどう見ても平凡な矢崎宗太。
そして最後に指差された人物を見て、私の視界がくらりと真っ黒に染まった。
そこに座っていたのは、ビロードの白い肌とキラキラと光りを弾く金色の髪、僅かに伏せられた碧い瞳と近寄りがたいほどの研ぎ澄まされたオーラ。
どんな芸術家が描いた絵よりも繊細な彫刻よりも、そこには完璧を超越した美があった。
敵わない。
彼の前では私の美貌など芥子粒のようなものだろう。
怖い。
私はここにきて初めて、自分の存在価値を脅かす脅威と出会ったのだ。
まずは彼に近付くところからはじめよう。
家柄も頭脳も申し分ない私は当然Sクラスに振り分けられたのだけれど、神懸かった容姿の彼は知的な雰囲気とは違って意外にもCクラスに振り分けられていた。
SクラスとCクラスはかなり離れているから偶然出会うことは難しい。
それでなくても、彼はメインダイニングを使うことがなかったから私は姿を見ることすら出来なかった。
儚い雰囲気を持つ彼は瞬く間にファンを増やしていったけど、どういうわけか親衛隊は一向に作られる気配はない。
私はといえば特別を作る気など更々なかったけれど、全てを拒絶できるほどの強さはなかった。
親衛隊こそ認めなかったものの、愛想を振り撒いたおかげで今では全校生徒のほぼ半数が私に多大なる好意を抱いているようだ。
予想に反して私の立場は揺るがなかった。
けれど、彼の存在は日増しに私の中を占めていった。
彼と私の唯一の共通点『外部生』という立場を使おうと思い至ったのは、入学式から1週間経った頃だった。
私のファンだと名乗る生徒が親切にも教えてくれたのだ。
彼はいつも一人で過ごしているらしいと。
恐らく余りにも美し過ぎる彼に、誰もが恐れ多くて話し掛けることすら憚られてしまうのだろう。
滅多に笑うことがないのも、それに拍車をかけているに違いない。
彼の孤独に付け込むことが出来たなら、私は彼の傍にいる資格を得られる。
昼休みに入りファンの子達からの誘いをやんわりと断って、私は彼の後を追い掛けることにした。
手ぶらの彼は淀みない足取りで林の中に入って行ったかと思うと、誰も知らないようなひっそりと佇む東家のベンチに腰掛けた。
周りに人の気配はない。
木々の合間から差し込む光りと、東家に静かに存在する彼とのコントラストにしばらく見惚れてから、私は意を決して声をかけた。
「……ひとりなの?」
たったそれだけを口にするのに物凄く緊張して、少し声が掠れてしまった。
ゆっくりと振り返った彼は突然現れた私に驚くこともなく、碧い瞳をただ静かに向けてくる。
作りモノめいた綺麗な瞳に自分が映っていると思っただけで、言いようのない痺れが全身を駆け巡る。
「……ひとりなのは、お前だろ」
「な、に…」
「誰にでも愛想振り撒いて、笑顔で壁作って閉じ篭ってんのはテメェだろうが。俺に自分を投影して、勝手に踏み込んでくんじゃねぇよ」
まるで頭を殴られたような衝撃が走った。
美しい容姿とは見合わない荒い言葉を口にする彼は、今までひた隠しにしてきた私の全てを見抜いている。
煩わしそうに眉をひそめて見詰めてくる彼に、私は今まで感じたことのない激しい焦燥を抱き戸惑っていた。
「……君は、ひとりじゃないの?」
苛立ちにも似たこの感情は、一体なんなのだろうか。
「だから、テメェと一緒にしてんじゃねぇよ」
遂には視線を外してしまった彼に焦り歩み寄ろうとするけど、林の中から現れた人影に踏み出そうとしていた足が止まる。
見たことがある人物…確か同じ外部生の矢崎宗太と椿ユキトだったはず。
どうして彼等が当たり前のように東屋に入って行くんだ?
何故彼の隣に座ることを許されている?
狡い、妬ましい、羨ましい、恨めしい…
噴き出してくる醜い感情に眩暈を覚え、私はふらつく足取りで校舎へ戻ろうと踵を返した。
このままでは人から遠ざけていた私の心が、私自身の感情で黒く染まってしまいそうだから。
「おい」
不意に涼しげな声が私の足を止めた。
それは紛れも無く、あの美しい生徒のもので…
「明日はきちんと弁当を持参して来い」
嗚呼、神様。
彼に巡り会わせてくれたことを心から感謝します。
そしてこれからは彼こそが私の神。
この感情の名はまだわからないけれど、篠宮黄金、私はきっと貴方を……
***
side:椿 ユキト
外の世界は地獄だ。
人間という存在自体が、俺にとって苦痛以外の何物でもない。
俺の祖父は警視庁のお偉いさんだ。
副総監という立派な役職についているらしい。
その娘である母は、化学警察研究所の所長。
これも凄い役職なんだそうだ。
中国人の父は所謂主夫というやつで、家のことは全て父がしてくれる。
家庭のことに何の不満もない。
けれど、外は違った。
小学校低学年の頃、俺は誘拐された。
身代金目的の誘拐だったけど、警察相手に喧嘩を売ってただで済むはずはない。
犯人はすぐに捕まって刑務所に叩き込まれたそうだ。
だけど、その時から俺の中で何かが変わりはじめた。
同級生は親から何か言われているのか俺のことを遠ざけはじめ、教師達はまるで腫れ物を扱うように俺に接してきた。
打算と欲に塗れた人間。
怯え畏怖する人間。
どいつもこいつも汚く見えて仕方がなかった。
そう思いはじめたら、そんな人間が触った物さえ触れられなくなってしまった。
同じ空気を吸うことすら苦痛で、遂には学校にも行かなくなった。
そんな俺を家族は責めもせず、少し困ったように笑って受け入れてくれた。
勉強なら家でもできる。
武道も自宅にある道場で、祖父や父に習った。
中学に上がる年頃になると、流石にこのまま甘える訳にはいかないと思って保健室登校を始めた。
登下校時にはマスクをして、常に薄いゴム手袋をつけて過ごす中学時代。
保健室は何かあってもすぐに消毒できるし、校医も祖父の知り合いだという穏やかなご老人だったから何とか通学することができた。
たまに俺目当てで仮病を使う女生徒も現れたけど、そんな時は校医が追い返してくれた。
俺を温かく見守ってくれる校医と家族。
しかしその顔は、いつも困ったような笑顔だった。
わかっている。
一人息子であるこの俺がこのままではいけないことくらい、とっくに気付いていた。
高校に上がる時になって、俺は一大決心をすることになる。
全寮制の学園に入ろう。
家族を安心させてやるために、少しでもこの潔癖症が治ったように見せ掛けるために。
ゴム手袋も持って行かなかった。
その代わり常にポケットに手を入れておけば良い。
マスクも持って行かない。
わざわざ自然の多い学園を選んだのはこれが理由だ。
唯一の問題は、同室者。
何の役職にもついていない新入生が一人部屋を貰えるはずもなく、ランダムで選ばれた同学年の生徒と二人で部屋を使わなくてはならない。
誰かが触った物に触れるなんて、考えただけでも鳥肌が立つ。
自室に篭るのにも限界があるだろう。
痛くなる頭を押さえながら俺はカードキーを通し、ハンカチでこれから3年間を過ごす部屋の扉を開いた。
玄関には既に一足の靴がきちんと揃えて置かれている。
どうやら先に同室者が部屋に入っているらしいことに気付き、まさかベタベタと部屋のあちこちに触れたんじゃないかと舌打ちしたい気分になった。
持ってきたスリッパを履いて、取り合えずリビングに向かう。
再びハンカチを使ってドアを開けると、必要最低限の家具が置かれただけの部屋の真ん中、白いソファに腰掛けた物体が目に入った。
「―――……」
時が止まるとはこのことだろうか。
ソファに座ってうたた寝していたのは、精巧に作られた美しい人形だったのだ。
いや、うたた寝している時点で人形じゃないんだけど、その人間離れした容姿と雰囲気に俺はついその人に手を伸ばしてしまった。
滑らかな頬に指先が触れても全く嫌悪を感じない。
ゆっくりと開かれた碧い瞳も宝石みたいに綺麗で、俺は息をするのも忘れて彼に見入っていた。
それが俺と彼、篠宮黄金との出会いだった。
***
side:奥薗 輪廻
オレは道具。
オレを産み落とした女が権力を維持し続けるための道具。
奥薗家が後の世にも有り続けるための道具。
そこに心は関係ない。
オレは生まれながらにして戦うために存在していた。
奥薗家は代々続く華道の家元で、オレはそこの嫡男として産まれた。
いや、あの男の子供という観点から見れば次男ということになるだろうか。
オレの父親は、屋敷の離れに愛人を囲っていた。
オレを産んだ女の最大の不幸は、自分よりも先に愛人に男子を出産されてしまったことだろう。
例え自分が正妻であろうと、あの男の意志ひとつで次期家元はどちらにも転び得るのだ。
気性の激しい女は徹底的に子供…つまりはオレに英才教育を施した。
2歳年上の兄は努力を惜しまない人で、恐らく奥薗家はじまって以来の秀才だった。
生け花の才能も現家元を軽く上回るほど素晴らしい、まるで非の打ち所がないくらいの完璧な人。
きっと誰もがその存在を褒めたたえるだろう……オレさえいなければ。
はっきり言って、その頃からオレは何処かブッ飛んでいた。
それは持って産まれた特異体質による影響かもしれないし、明らかに普通ではない環境のせいだったのかもしれない。
常識やモラルを理解した上で冷静に狂気していたオレの生けた花は、見る者を黒い深淵に誘うような不思議な魅力があったそうだ。
頭は大して良くはなかったけど、あの男が打ち震えるほどの驚異的な才能をオレは持っていた。
女は喜んだ。
愛人は泣き、兄は冷静にそれらを受け止めていた。
この奥薗家にあって唯一純白な兄。
小学生だったオレは、兄をこの家の呪縛から解放してあげたかった。
それにはオレ自身が家元を継ぐしかないと、愚かなオレはそう思い込んでしまっていた。
オレは兄が大好きだ。
だからあの日、女の目を盗んで兄が住む離れへと忍び込んだ。
そして聞いてしまった。
机に向かったまま泣きく、兄の本当の気持ちを。
『輪廻さえいなければ、僕が家元になれるのに!! 憎い憎い憎い憎い憎い憎いっ、輪廻、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い』
オレは選択を誤った。
家元になるんじゃない、譲るのが正解だったんだ。
そうと気付いた日から、オレは家に寄り付かなくなった。
非行に走る。
反抗期。
不良。
グレる。
呼び方はいろいろあるかも知れない。
だけど、とにかくオレは小学生にして立派な不良となっていた。
女は躍起になって俺を更正させようとしていたけど、オレはそんな女にさえ拳を振り下ろした。
中学生の頃には完全に見放されていて、オレの才能を溺愛していた家元は次期家元に兄を指名したらしい。
これでいい。
これが兄に対して俺が出来る唯一のことだ。
それからは一切の不良行為をやめた。
仲間も、煙草も、酒も、女も、夜遊びも、バイクも何もかも。
だけど一度失った信頼は修復できなかった。
オレの目論見通りに。
そして高校進学と同時に、この学園に放り込まれた。
兄のためだけに生きてきたオレは、目標を失ってただ毎日を無駄に浪費していく。
全てが色あせた世界。
青い眼鏡越しに見る世界は、酷く俺を拒んでいるように感じた。
人込みは嫌いだ。
煩過ぎて頭が痛くなる。
だから俺の足は自然と林へ森へと人気がない方に向く。
そして見付けてしまった。
余りに静かな人。
無駄なことを何ひとつしない、物凄くシンプルな人間がそこにはいた。
篠宮黄金。
それがそいつの名前だった。
篠宮黄金が纏う空気は、何処までも清浄だった。
一目見たその時から、オレは篠宮黄金のことを調べに調べた。
自分の力で調べようとしたけど簡単なことしかわからなくて、どんなコネを使っても篠宮黄金の表層を撫でる程度にしか成果は得られなかった。
苦肉の策として裏の世界では有名なハッカー・AAAを頼ってもみたけど、そいつでも篠宮黄金の父親でさえ調べ上げることが出来なかったらしい。
OLの母親と二人暮しということしかわからない篠宮黄金。
実にシンプルだ。
清廉な雰囲気の彼はいつも難しそうな本を読んでいて、その余りに美しく神聖な空間に学園の誰もが話し掛けることすら出来ずにいる。
騒がしいことが嫌いな彼のために、生徒達は大々的に親衛隊を作ることなく静かに彼を見守ることにしたようだ。
それがいい。
オレも騒がしいのは大嫌いだ。
だけど、彼の声を聞いてみたい。
碧い目で見詰められ、白い指先で触れてほしい。
彼に『オレ』を認識してもらいたい。
これからの日々を諦めたように生きるしかないオレに、この学園に来て初めて望みができた。
篠宮黄金を手に入れよう。
兄の代わりにはなれないだろうけど、この胸に空いた巨大な穴を少しは塞いでくれるかもしれない。
篠宮黄金が放課後、人目を忍んで東屋に入るのを見付けてこっそりとその後をつけた。
夕日に照らされた髪が動く度に揺れて、キラキラとオレンジ色の光りを弾く光景に自然と見入ってしまう。
「………ストーカーか?」
不意に涼やかな声が響いた。
咄嗟に周囲の様子を伺うけど、今この林にいるのはオレと彼だけだ。
だけど、人一倍感覚が鋭いオレが気配を消しているんだから、彼がオレの存在に気が付くわけがない。
「最近ずっとじゃないか。校内でも穴が開くほど見てきやがって…ストーカーじゃないなら、暗殺者か?」
何者なんだ?
今だけじゃなくて前々から気付いてたってことか?
青い色付き眼鏡の効果でオレの視線は読まれにくいのに、離れた距離からも彼はオレが見ていたことに気付いていた。
信じられない…
「出て来ねぇならそれでもいいけどよ」
驚きと衝撃で気付かなかったけど、彼は言葉遣いが荒いらしい。
美し過ぎる見た目とは違って、普通の何処にでもいるような少年の喋り方に更に興味が増した。
「あらら~、バレちゃった? オレは1年の奥薗輪廻っていうんだ~」
木の影から歩み出て、オレは初めて篠宮黄金と二人きりで対峙した。
いつものようにヘラヘラとした笑みを貼付けて、色眼鏡越しに彼を見詰める。
だけど彼はチラリとオレを見ただけで、すぐに手元の本へと視線を落としてしまった。
「……下らん」
「え~、何が~?」
まるでオレの全てを下らないと言われたみたいで、ここ最近感じていなかった怒りが沸々と込み上げてくる。
一目見ただけで、オレの何がわかるっていうんだ。
「俺は誰かの代わりになる気などない。他を当たれ」
頭を殴られたような衝撃だった。
オレの視線から読み取ったのか?
たったそれだけの情報で、オレの本心をえぐり出すなんて…
「………どうした、動けねぇのか?」
またオレを見てくる碧い瞳に、ドクンと胸が高鳴った。
「…ったく、しょうがねぇな。もうすぐユキトが茶を持ってくるから、こっちに来て座れ」
ストーカーか暗殺者かと言い、他を当たれとまで言っていたのに、篠宮黄金はオレを自分のテリトリーであるはずの東屋に招こうとしている。
オレの本心を知り拒絶しながらも、オレの存在は決して否定しない彼の優しさに…
篠宮黄金は兄の代わりにはなれない。
だけど、唯一無二の存在になるかも知れない。
「じゃ~お茶、頂こっかな~」
夕日の中、オレは彼に恋をした。
***
結論から言うと、平和だ。
例えそれがかりそめでも、嵐の前の静けさだとしても…だ。
少し前とは違って緋野陽を追いかけ回す生徒会の姿はなく、それにヤキモキさせられていた親衛隊も騒ぐ対象がなければ静かにしているしかない。
腹の中は知らないが。
生徒会役員は緋野陽が補佐になってからというもの、授業免除をいいことに生徒会室に篭りっぱなしだ。
十時は珍しく真面目に仕事をしているらしいし、副会長もあの一件から緋野陽に構いながらも仕事はきちんと熟すようになったらしい。
いつもは騒がしく享楽的な双子さえも、薄ら寒いことに温和しく仕事をしているそうだ。
部屋に直接食事を運ばせているのは感心しないが、食堂で無闇に騒ぎを起こさなくなったのは評価に値する。
十時に惚れている緋野陽は、口では文句を言いながらも嬉しそうに十時の手伝いをしていると聞いた。
そして生徒会に強固なまでに守られている緋野陽に親衛隊も手出しできず、かといってその鬱憤を宗太に打つけようにも今までとは違って大々的に俺や他のパンダメンバーが行動を共にするようになった為それも難しい。
そう、学園は今事件こそ起こっていないものの、未だかつてないほどの緊張感に包まれていた。
少し触れれば破裂してしまいかねない危うさは、緋野陽以外の全員がひしひしと感じているだろう。
「………はい、今日の…」
秘密の家にある広いテーブルには、今日も今日とて豪勢な重箱が置かれている。
蓋を開けるとひとつひとつラップに包まれた炒飯のおむすびが綺麗に並んでいて、エビチリ、麻婆茄子、鱈のあんかけ、回鍋肉、春巻、焼売、肉まんと、本日のユキトお手製弁当は見事な中華三昧だった。
もちろん本人は自分用に、重箱とは別に弁当箱を用意している。
俺となら鍋も直箸で突けるが、他のメンバー相手だとまだまだ潔癖になってしまうようだ。
「もうすぐで前期の中間テストだね」
おむすびを両手で持って食べている宗太は、何度見ても小動物のようで可愛らしい。
「また黄金君と宗太は力を抜くのかい?」
ジャスミン茶を人数分入れながら、真紀が拗ねたように唇を尖らせている。
確かに成績が良ければ来年は真紀と同じクラスになるかもしれない………宗太は。
表向きは家柄の良くない俺は、例え全国模試で1位を取ろうがSクラスには行けずAクラス止まりだ。
「ま~オレには関係ないけどね~」
一芸入学者の集まりであるBクラスは基本的にクラス変えはない。
つまり成績が良かろうが悪かろうが輪廻はBクラスのままだ。
「卒業さえすればいいから、去年通りに手を抜く。俺は博士号持ってっから、内申とか関係ねぇし」
「「「「博士号…!?」」」」
学園は不穏な空気に包まれているというのに、パンダメンバーだけはいつも通りの日々を送っている。
何故なら影で糸を引いているのが、この俺自身だからに外ならない。
こんな状況に一石を投じるのは、いや、投じたくて投じたくてうずうずしているのは恐らくあの不良双子だ。
害虫を誘い出す餌はばら撒いた。
後はその餌に害虫が食らいつくのを待つだけだ。
俺は蒸したての肉まんを頬張りながら、一体どんな石が投げ込まれるのだろうかと心を躍らせる。
何もかもが思い通りのゲームほど退屈なものはない……そうだろう、本間兄弟?
和やかな昼食も終わり、俺と宗太以外の3人は午後の授業へと出掛けて行った。
何故俺達2人が秘密の家で授業をサボっているのかというと、偏に次の時間が合同体育だからだ。
しかも、よりにもよって緋野陽が在籍している2-Sと。
アイツは体育だけは得意らしく、この授業に限っては毎回出席している。
絡まれることがわかっているのに、俺達がわざわざ授業を受けるはずはない。
ソファで寛いだままチラリと宗太の様子を窺えば、パソコンデスクに座って楽しそうにゲームをしていた。
無意識なのだろう、うっすらと口許が綻んでいる横顔は俺の笑みを誘う。
いつもは何処か一線を引いたところで客観的に物事を見定めている宗太だが、ことこれに関してだけは年相応の子供のような顔になる。
腰を上げて奥にあるキッチンへと向かうと、久し振りに自分の手でケトルに水を入れて火にかけていく。
いつもは面倒臭くて全部真紀に任せているが、完璧過ぎる俺は紅茶を淹れるのも天才的に上手い。
レンジで温めたティーポットにスプーン3杯の茶葉を入れ、沸騰したお湯を注ぎ蓋をする。
レンジを使うのは邪道だが、面倒臭いから仕方がない。
砂時計も使わずに頃合いを見計らって、マグカップに赤い液体を注ぎ入れる。
何とも良い香りだ、真紀に取り寄せを頼んで本当に良かった。
盆にマグカップとクッキー缶を乗せ再びリビングへと戻ると、さっき見た時のまま首の角度すら変わっていない宗太に苦笑が漏れる。
また集中しているんだな。
テーブルに盆を置く音にすら気付いていない宗太を可愛くさえ思いながら、わざと音を立ててパソコンデスクにマグカップを置いてやる。
「ビッ、………クリしたぁ。いきなり後ろから来ないでよ。ただでさえ黄金は気配が薄いんだから」
「うるせぇ、気付かなかった宗太が全面的に悪い」
理不尽な宗太の言葉に片眉を引き上げて言い返すと、途端に気まずそうに視線を彷徨わせる様子につい吹き出してしまった。
「…ククッ、変な顔」
笑う俺に顔をしかめる宗太が更にツボに嵌まり、皺の寄った眉間を親指の腹でグイグイ伸ばしてやりながら思う存分笑う。
一瞬拗ねたように唇を尖らせるが、しばらくすると俺につられたのか宗太も笑い出した。
俺は宗太のこういう柔らかなところが気に入っている。
アイツと同じなのは気に食わないが、恐らく緋野陽も宗太の柔らかさに好意を寄せているんだろう。
「黄金、わざわざ紅茶淹れてくれて有り難う」
「俺が飲みたかっただけだ」
「フフッ、ツンデレだね」
紅茶を美味しそうに飲む宗太を見ながら、俺も立ったままマグカップに口を付ける。
何故ティーカップじゃないのかというと単純な話、冷めにくいこととソーサーが邪魔くさいのが理由だ。
来客があった時や正式な場でなければ実家でも大体はマグカップで飲んでいたし、本来紅茶とはラフに飲むものだから俺にはこのスタイルが一番合っている。
まぁ、真紀はやたらとティーカップで淹れたがるけど。
「ゲームは順調なのか? 気が向けば手伝ってやらなくもないぞ」
「へー、面倒臭がりな黄金が珍しいね。だけどそれ、誰に向かって言ってるの?」
宗太は立っている俺を見上げて、冷めたようにスゥッと目を細める。
これはきっと、パンダメンバーしか知らない宗太の本当の顔だ。
俺はこの顔も気に入っている。
しっかりと自分を持った意志の強い眼差しは、ただ流されているように見える宗太の決して流されない強さを物語っている。
「それは悪かったな。期待してるぞ、AAA」
「天才ハッカーの巧みな情報操作、高みで見物してなよ」
そう言って笑った宗太の顔は、子供のように柔らかなものだった。
宗太が本気になったのなら、俺達のゲーム開始も早まるかも知れないな。
手駒達は上手く立ち回っているのだろうか。
この学園の寮は無駄に広い。
一般の生徒は基本的に2人部屋と決まっているが2LDKは随分余裕があり、部屋は12畳、リビングダイニングは19畳、キッチンは5畳、バスルームは3畳もある。
これだけ広いと掃除も面倒だ。
俺個人としては4畳半で構わないとさえ思っている。
まぁ、実際に掃除してるのはユキトなわけなのだが。
室内はユキトの趣味なのか、家具や家電、カーテンや食器に至るまで全て白で統一されている。
嫌いな色じゃないから気にしたこともないけど、他人から言わせればここは病院のようらしい。
特に今俺の目の前にいる男は最近良くそう言っている。
「お前、何でここにいるんだ?」
この部屋の住人でもないというのに、大きな白いソファに我が物顔で座っている男を見下ろし俺は大きな溜息を吐き出した。
オリエンテーション後から頻繁にやって来るようになったその男は、珈琲が注がれたマグカップを傾けてニヤリと笑っている。
ユキト、コイツにわざわざ珈琲を淹れてやる必要はないぞ。
恐らく部屋に避難しているのだろうユキトに心の中で忠告しながら、俺は一人掛けソファに腰を下ろして腕を組んだ。
「お前の顔を見に来たに決まってんだろ」
「何で決まってるんだ。ここには来るなっつってんだろうが、宇佐見」
毎回繰り返される会話にいい加減飽きてきたが、こればっかりは譲れない。
校医である宇佐見は、あらゆる意味で目立つ。
高い身長、茶色の短髪は清潔感があるのに凶悪なヤクザ顔がそれを台なしにしている。
俺様で何故か職員室を支配している宇佐見とは、数年前から家族ぐるみの付き合いだ。
仲は決して悪くはないものの、こうやって頻繁に俺の部屋にやって来られるのは些かマズイ。
何せこの男と知り合いだということは伏せてあるのだ。
そしてそれ以上に…
「お前が帰った後、ユキトが大変なんだよ」
対人間に関しては極めて神経質で潔癖なユキトは、宇佐見が帰る度に大掃除をしているのだ。
宇佐見が触れたであろう物は全て消毒液で拭き上げ、除菌機能付きの空気清浄機をフル稼動させながらも、髪の毛の一筋さえ残さないように徹底的に掃除する。
殺人の証拠隠滅でも、恐らくここまではしないだろう。
ユキトは文句など絶対に口にしないし宇佐見に対してマイナスの感情も抱いていないのだろうが、こうも毎回毎回あれだけ掃除しなければならないのは流石に憐れだ。
「煙草吸ってねぇだけマシだろうが」
「もしこの部屋で吸ってみろ。例えユキトが許しても、俺があらゆるコネクションを駆使して煙草税を上げてやる」
「やめてくれ、愛煙家に殺される…」
サァッと顔を青ざめさせる宇佐見に、8割くらい本気だったが渋々止めておいてやることにした。
俺は別に嫌煙家なわけじゃないけど、この世には煙草の煙が苦手な人もいる。
ユキトの場合は人体から吐き出された煙っていうのが駄目なんだろうが、凄まじいほどの嫌煙家なのだ。
以前喫煙者とテーブルを共にする機会があったのだが、ユキトは顔が真っ青になってぶっ倒れるまで呼吸を止めていたらしい。
一言言えばいいものを、限界まで堪えるのはユキトらしいと言えばユキトらしい。
「……で、本題は何だ?」
顔を険しくさせた宇佐見が、マグカップをテーブルに戻して背凭れに身体を預けた。
「街で不穏な動きがある」
俺は基本的にこの学園から出ることはない。
情報はコンピューターとAAAと真紀がいればある程度集まる。
しかしそれはあくまで間接的な情報に過ぎず、肌で感じた雰囲気やリアルな人間の様子までは掴むことが出来ない。
それに比べて宇佐見は夜の街で闇医者をしている分、その手の情報は俺よりも遥かに詳しい。
「不穏……ね」
不穏な夜の街に慣れている宇佐見が不穏だと言うなら、それはかなり危険な状態になっているのだろう。
「……あの双子が頭張ってるリーデレがよ、ここ最近勢力を拡大しているんだが……裏で糸引いてる奴がいるらしい」
『リーデレ』
この学園を下りた街にある、走り屋兼喧嘩屋のような何でもありのチームだ。
あの享楽的な本間兄弟がリーダーなものだから、子供のような無邪気な残酷性と大人顔負けの頭脳と財力があるから下手なチンピラより余程質が悪い。
警察も介入することが出来ず、事実上あの街を支配していると言っても過言ではないだろう。
他にも中規模なチームはあることにはあるが、リーデレが今更勢力を拡大する必要などない。
拮抗する力を保有しているチームなどないのだから。
他の地区に喧嘩を売ろうとしているのかとも考えたが、恐らくそうではないだろう。
「リーデレの、双子の狙いは……パンダか」
俺の呟きに宇佐見の顔がぐにゃりと歪む。
眉間に刻まれた皺を伸ばすように自分でグイグイと眉間を擦りながら、宇佐見が心底呆れたような溜息を吐き出した。
「それが黄金の狙いでもあるんだろうが…」
俺の思考を読んだのか、宇佐見が不機嫌そうにソファで足を組み替えている。
この学園に於いてパンダは、良くも悪くも強烈なインパクトを与えた。
財力と権力によって常に強者が弱者を虐げることが当たり前のお坊ちゃんには、喧嘩両成敗という概念がそもそもなかったんだろう。
それが突然現れた訳のわからん奴らにボッコボコにされたんだから、忘れたくても忘れられるはずがない。
そして楽しいことを何よりも愛している本間兄弟が、パンダに興味を引かれることも無理からぬ話だ。
折角目障りな副会長を躾たんだから、この際ついでに騒がしい子犬も躾てやろう。
そう思って放っておいたのだが、どうやら宇佐見に気付かれてしまったようだな。
「心配させんなっつったろうが」
「心配されるほど弱くねぇっつったろうが」
心配されるのは好きじゃない。
自分の弱さを見せ付けられるようだから……なんて理由じゃない。
どんなことをしても無事でいなければならないという、別の鎖に縛られるからだ。
だから俺は、宇佐見を近くに置きたくない。
俺の強さを見せ付けても、決してその姿勢を崩さない男。
「厄介な男だな、お前は」
俺の溜息混じりの声にも、宇佐見はただ口の端を持ち上げて笑っているだけだった。
宇佐見が部屋から出て行くと、ずっと待っていたのかすぐにユキトが部屋から出てきた。
手にはしっかりと掃除道具が握られている。
どうやら今から恒例の大掃除が始まるようだ。
「俺は部屋に行った方がいいか?」
「ううん、黄金が……いて、くれたら…呼吸が、できる…」
それは俺がいないと呼吸ができないと言っているのか?
空気清浄機を起動させて掃除を始めると思いきや、掃除道具を床に置いたユキトが背後からソファに座っていた俺を抱き締めてきた。
ユキトは人間に対して潔癖な分、唯一触れることが出来る俺に対しては必要以上に触れてくる。
きっと人の温もりに飢えているんだろう。
元来ユキトは甘えたな性分にも関わらず、誰にも触れられなかった今までの日々はさぞ辛かっただろうから。
だからこそ、俺はあまりスキンシップが好きじゃないけど、ユキトにだけは許してしまう。
「宇佐見が俺に触れていたらどうするんだ?」
「………汚れて、ても……黄金に触れた段階で、それは浄化される……」
どうやら自分だけのルールがあるらしいユキトを背中にくっ付けたまま、俺は冷めたコーヒーを一気に飲み下した。
さぁて、本間兄弟に手を貸した、裏で糸を引く人物というのは誰だろうな。
サプライズくらいないと、舞台は楽しくない。
せいぜい俺を楽しませてくれよ、ピエロさん。
***
side:緋野陽
最近、俺はおかしい。
友達は多い方が楽しい。
それは変わってないんだけど、あの3人は他の奴と違っていた。
1人目は矢崎宗太。
周りの奴等は仲良くなると必ず俺のことが好きだとか、やたらと他の友達と喧嘩をしたりする。
だけど宗太は俺を変な目で見ない。
かといって親衛隊みたいに暴言を吐くわけでもなく、一緒にいて凄く気が休まった。
2人目は篠宮黄金。
友達が宗太と変な奴しかいないツンデレ。
本当は俺と仲良くしたいと思ってるのに正直になれない、恥ずかしがり屋でプライドが高い人形みたいな綺麗な奴。
もちろんすぐに友達になってやったのは言うまでもない。
3人目は塚越十時。
この学園で1番最初に出会った副会長の佳に紹介された、ワイルドな感じの生徒会長。
俺が友達になろうって言ったのに、全く興味がなさそうだった唯一の男。
初対面で「俺達に関わるな」って言われてついつい殴っちゃったけど、佳に誘われて生徒会室に行く度に仕事振りだとか滲み出るカリスマオーラだとかですぐに会長を見直した。
会長も宗太や黄金と一緒で俺を変な目で見ないってだけの奴だったはずなのに、どういう訳か気になって気になって仕方がない。
誰にだって気軽に話し掛けられるのはお前の特技だなって言われてたくらいなのに、会長を前にすると普通に話すどころか名前で呼ぶことすらできない。
こんなこと今までなかったのに。
そんな会長が、いつかの昼休み一緒にご飯を食べていた黄金にいきなり抱き着いた。
多分久し振りの再会みたいだったけど、普段大人びている会長のあまりの変わりようにかなりビックリしたのを覚えている。
黄金を呼んだだけで怒られるし、とにかく頭が真っ白になって何故かはわからないけど涙が出そうになった。
今でも耳について離れない。
『黄金は俺の唯一だ。全てだ。世界だ。テメェなんかが踏み込んでいい場所じゃねぇ』
会長が言ったあの言葉を思い出すだけで、胸がモヤモヤして何も手につかなくなる。
あの時黄金に対して感じた感情は、一体なんだったんだろう…
羨ましいような、悲しいような、憎らしいような。
こんなにドロドロした感情を誰かに抱くことなんてなかったから、俺はどうすればいいかわからずに戸惑ってばかりいる。
あの日から黄金に声をかける時緊張するようになった。
会長の感心を引く男。
悔しいけど黄金は美人だから顔は勝てない。
だけど普通クラスに在籍している黄金よりも俺の方が頭がいいはずだし、運動神経は負ける気がしない。
性格だってあんなにネジ曲がってないし友達も俺の方が多い。
こうやって何かにつけて自分と黄金を比べてしまう。
こんなこと無意味だってわかってるのに、黄金を見ただけで何かに追い詰められるような焦りを感じて止められない。
わからない。
どうして俺は友達の黄金を敵視しようとするのか。
どうしてあの時のキスシーンを忘れられないのか。
どうして会長のことを思うと胸が痛くなるのか。
俺は自分でもわからない感情を持て余し、今日も普段通りを装って通学する。
いつの間にか積もり積もった感情が、パンパンに膨らんで張り詰めていることにすら気付かないまま。
***
side:???
あぶく立った煮え立った
煮えたかどうか食べてみよ
むしゃむしゃむしゃ
まだ煮えない
あぶく立った煮え立った
煮えたかどうか食べてみよ
むしゃむしゃむしゃ
もう煮えた
戸棚にしまって
鍵をかけましょ
ガチャガチャガチャ
ご飯を食べましょ
むしゃむしゃむしゃ
お風呂に入って
ゴシゴシゴシ
お布団敷いて
電気を消して
寝ましょ
トントントン
なんの音?
風の音
あぁ良かった
トントントン
なんの音?
水の音
あぁ良かった
トントントン
なんの音?
トントントン
なんの音?
トントントン
トントントントントントン
トントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントン
嗚呼、君の扉を叩くよ。
君の柔らかな心に触れて、撫でて爪を立てて、突き立てて、抉って、捩り切って、口に含んで、咀嚼して、味わって、飲み込んで、
君に俺を刻み付けて、君を俺の一部にして、ひとつになるんだ。
早く逢いたい。
逢いたい。
逢いたい。
君の周りにいる煩いモノをただの肉に変えて、君の心をメチャクチャのズタズタのボロボロにして愛してあげる。
例え君が俺の愛を受け入れてくれなくても、俺が愛を教えてあげるよ。
何もなくなって、自分さえもなくなって、君の世界が跡形もなくなって。
そうして初めて手を差し伸ばしてあげる。
優しく優しく笑ってあげる。
そしたら君は、俺を見るでしょ?
どんなに見たくなくても、俺しかいないんだから俺しか見えないでしょ?
嗚呼、楽しみだな。
君の綺麗な綺麗な瞳に俺が映るんだ。
愛してる、愛してるよ。
君を愛するためなら何だってできる。
躊躇うことなくやり遂げる。
そのためなら君を傷付けることも厭わない。
いや、真っ赤な血に塗れた君もきっと綺麗だろうね。
黄金。
黄金黄金黄金黄金。
黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金。
「トントントン、なんの音? なんの音? なんの音? なんのなんのなんの?」
ねぇ、黄金。
君にも聞こえてる?
トントントン
トントントン
ほら、聞こえてる?
トントントン
トントントン
大きくなっていくこの音に、君はいつ気付いてくれる?
愛させて、君を、愛させて、見返りはいらない、早く、早く壊れて、早く、今すぐ。
「あーぶく立った、煮え立った。煮えたかどうか食べてみよ。むしゃむしゃむしゃ。むしゃむしゃむしゃ。むしゃむしゃむしゃ……まだ煮えない。まだ、まだかな、もういいかな? 行こうかな、行こう、行く、行くよ、行くからね。待っててね、黄金」
***
秘密の家が出来てからというもの、あまり来ることのなくなった東屋に久し振りに足を向けてみた。
初夏の心地良い風を感じたくなったからだ。
1年生の時までは俺の指定席だったベンチに腰掛ける。
風が吹く度にざわざわと木々が鳴き、爽やかな香りが鼻を擽る。
心地良い午後だ。
俺はゆったりと背凭れに身体を預け、持ってきたアルバムを開く。
そこにある写真は、あまりにも何気ないものばかりだ。
煙突や切られた有刺鉄線、粗大ごみの横に咲くタンポポ、壁の落書き、アドバルーン、商店街の賑わい、工事現場、街灯にたかる虫。
取り留めのない、感想の言いづらいそれらの写真をパラリパラリとめくっていく。
「綺麗な写真だねぇ」
不意に背後から声がかかった。
近付いて来ていることには気付いていたから驚きはしなかったけど、まさかこうも大胆に声をかけてくるとは思わなかった。
コイツは俺を遠くから観察するつもりだろうと思ったから。
「それはどうも」
「え、これ、君が撮ったのぉ?」
感心したように声を上げるその男は、白い髪に赤い目を持つ風紀副委員長の和沢孝一郎だった。
いつもは委員長の片桐にべったりだというのに、今日はどうやら一人らしい。
俺はさして気にすることもなく、また視線を手元に落として写真をめくっていく。
「ねぇねぇ、これは何色ぉ?」
男らしく、それにしてはやけに白い指が一枚の写真を差した。
そこに写っているのはポスト。
下らない遊びかと吐き出したくなる溜息を飲み込み、顔の横で揺れる髪を耳にかけた。
「見たままの色です」
それ以外に何と答えられるという。
俺は面倒臭くなってアルバムを閉じようとするが、不意に和沢の指が今度は俺の肩を掴んできた。
その容赦のない力に自然と眉が寄っていく。
「見たままぁ? ねぇ、オレの目に世界がどんな風に映ってるかぁ、君にわかるぅ?」
いつものようにへらへらと笑ってはいるが、その瞳は冷たく俺を見下ろしている。
嗚呼、全くもって面倒臭い奴だ。
「ポストが赤なのは知ってるよぉ。でも、知ってるだけぇ。俺の目にはねぇ、暗ぁいグレーに見えるのぉ」
和沢孝一郎の髪や瞳は人工ではなく、天然の色だったということか。
コイツのことは興味なかったから今まで調べてはいなかったが、まさか本物のアルビノだったとは。
メラニン色素が極端に少ないため、髪は白く、目は毛細血管が透けて赤くなる。
そのせいで光りや日光に弱く、視力の悪い者もいるらしい。
そうか、和沢孝一郎は色盲なのか。
「オレが見たままの世界なんてぇ、君にわかる訳ないよねぇ。この写真だってぇ、綺麗なのはわかるけどゼーンブ白黒にしか見えないしぃ」
和沢の世界に色はない。
全ては白と黒と無数の灰色に塗れた世界なのだろう。
それはきっと、とても、とても…
「副委員長。誤解があるようですから言っておきますけど、このポストの色は貴方が見た通り濃いグレーですよ」
「へ?」
純粋な世界なのだろう。
「何の不思議もありません。これはモノクロ写真なんですから」
アルバムに収まるのはどれもこれもモノクロの写真で、俺は昔からこれ一本だった。
白と黒と無数の灰色の世界は、昔から慣れ親しんでいる。
「な…なんで…」
「結局世界は、自分の目で見たものが一番美しいんですよ。写真はただ、思い出を振り返るための鍵に過ぎない。そこに色は必要ありません。写真に写る色と俺の思い出の中にある色とでは違いますからね。だったら初めから色なんか着けなければいい」
不意に風が吹き抜け、和沢の見事なまでの白髪がサラサラと揺れる。
しかし、当の和沢は何故か赤い目を見開いて硬直してしまったまま動く気配もない。
髪が揺れていなかったらまるでストップモーションのようだ。
素晴らしい静止振りに心の中だけで拍手を送りながらも、そろそろ戻らなければアイツらが煩いと開いていたアルバムを閉じる。
その音にようやく我に返ったのか、和沢が慌てて俺の隣へと腰を下ろしてきた。
東屋のベンチは長いから和沢が座ってもゆとりはあるのだが、それにしては距離が近いような気がする。
いや、気がするじゃなく現にメチャクチャ近い。
近いどころかアルバムにかけていた手を、物凄く色白な指に搦め捕られている。
喧嘩なんかしたことのなさそうなほっそりとした指が、まるで逃がさないとばかりに柔らかく、それでいて解けないようにしっかりと絡み付いてくる。
もちろんそうなる前に避けることも容易かったのだが、和沢の不可解な行動理由を知りたいという知的欲求が俺の身体を支配した。
さっきまでの驚いた顔から一転、キラキラと輝かんばかりの瞳で俺を見詰めてくる和沢は、何を思ったのか握り締めた俺の手を持ち上げ唇を寄せてくる。
随分と形の良い唇が手の甲に落とされるのを何の感慨もなく眺めていたら、そんな俺の無反応な態度が可笑しかったのか和沢が楽しそうに口の端を持ち上げた。
「君ってさぁ、傅かれるのに慣れてるねぇ」
「流石に温和しくキスをさせたことはありませんよ」
和沢が言うような傅かれ方はしていない…というか逆に、我が家はスパルタに近かったと思う。
蝶よ花よと育てられてきた令嬢でもあるまいし、手の甲にキスされても嬉しくも何ともない。
それどころか、反撃しなかったことを誰か褒めてくれ。
「フフッ、やっぱり君よりあっ君の方が可愛い」
俺の手を楽しそうに握りながら、コイツは一体何を考えているんだ?
片桐委員長と和沢が幼馴染みであると同時に、和沢にとって片桐とは絶対君主であり世界であり命であるということはこの学園に籍を置くものなら誰でも知っている。
まぁ、約一名例外がいるが。
そんな和沢が、片桐委員長と誰かを比べるだなんてそれだけで大事件だ。
片桐委員長は和沢の1番ではなく唯一なのだから。
2番も3番も存在しない和沢の世界に於いて、片桐委員長と俺が比べられたというのは一体何を意味するのだろうか。
「あっ君は完璧だけどぉ、ちょっとした仕種や反応が可愛かったりするんだぁ」
それはちょっとわかる気がする。
あの高潔な男は、完璧であろうとするその姿勢がすでに可愛らしい。
以前に見た赤面した姿を思い出し、ついつい顔が綻んでしまいそうになる。
「だけど君はぁ、一部の隙もなくホントーに完璧だからぁ、可愛いげがまぁーったくないよねぇ」
コテンと首を傾げて見せる和沢は、俺よりも高身長だというのにそんな子供のような仕種が似合ってしまうのだから恐ろしい。
「でもぉ、君はキレイだねぇ」
ヘラヘラと笑う和沢からは、いつもみたいに他人を嘲笑う雰囲気は感じられない。
つまりはこの男、本気で俺を綺麗だと言っているのか。
「ぶっちゃけ見た目だけのただのお人形だと思ってたんだぁ。だけど写真もキレイだしぃ、君の瞳には色よりも確かな何かが見えるんだろうねぇ」
はっきり言って、片桐委員長を落とせば自動的に和沢も手に入ると思っていた。
だがそれは、逆でも可能なのではないだろうか。
和沢を手中に収めることで、片桐委員長を間接的に動かせるかも知れない。
「俺と同じものを、和沢先輩にも見せてあげましょうか?」
「……うん、見せて?」
ゆっくりと近付いてくる和沢の唇に、俺は控えめに瞳を閉じた。
和沢の顔が近付いてくる気配にうっそりと口の端を持ち上げて、自分の間合いに入ってくるのを温和しく待っていた。
もう少しで頭突きの間合いに入る。
コイツにはそのくらい突拍子のないことをしてみせるのが効果的だ。
本来風紀委員長しかその視界に収めない和沢に強烈な印象を与えるためには、キスなんかよりも頭突きの方が有効だろう。
そんな思惑になど気付くはずもなく、和沢が俺の肩に手を置いて距離を詰めてきた。
今か。
「なっ、何やってんだよ! お前ら!!」
………
これはちょっと、予想外だな。
ちらりと目だけで横を見れば、木の傍にオタクが立っていた。
いや、コイツをオタクと呼ぶのはオタクに失礼か。
相変わらずモッサモサの鬘に厚過ぎる眼鏡をかけた歩く騒音発生機が、不躾にもこの俺を指差して唯一見える口をパクパクと開閉させている。
和沢も唐突過ぎる緋野陽の登場に興が削げたのか、ゆっくりと顔を離していつものヘラヘラ笑いを浮かべていた。
「何ってぇ、見ればわかるでしょ? いいところだったんだからぁ、邪魔しないでくれるぅ?」
「邪魔ってなんだよ!! 俺が邪魔なはずないだろっ、何言ってんだ孝一郎!!」
おいおい、その自信は何処から来るんだ。
はっきり言ってこの世の大多数はお前のことを邪魔だと思っているぞ。
肩を怒らせて東屋にズンズン歩み寄ってくる緋野陽に、俺は隠すこともなく不快げに眉を寄せた。
本当ならボロクソに言い負かしてやりたいところだが、和沢を完全に手中に収めるまでは風紀の前で本性を見せるわけにはいかない。
嗚呼、何というフラストレーション。
「いやぁ、邪魔でしょ? 何処からどう見てもぉ、邪魔以外の何者でもないでしょ。君のおかげでぇ、どれだけ風紀が忙しいかぁ、わかってないよねぇ? それとぉ、オレの名前呼ばな…」
「今は風紀とかそんな話してないだろ!!」
和沢の眉がぴくりと動いた。
それはそうだろう。
緋野陽と宗太が受ける制裁という名の虐めは、そのほとんどが親衛隊によるものだ。
組織ぐるみの制裁を抑制するのは生半可なことではない上に、このモッサモサはいとも簡単にそれらを煽る。
その尻拭いは全て風紀へと回り、緋野陽のせいで一時期麻痺していた生徒会の運営までも風紀委員会で回していたのだ。
敬愛してやまない風紀委員長に負担ばかりをかける緋野陽は、和沢にとって疫病神以外の何者でもないだろう。
「おいっ、黄金!! 今孝一郎とキ、キキ、キ、キス、しようとしてただろ!? 会長を騙してたのか!? お前最低だっ!!」
そして、俺にとっても疫病神以外の何者でもない。
「違うよ。内緒話をしてい…」
「嘘だ! 黄金は誰とでもそんなことしてるんだ!! 俺、黄金のこと信じてたのに…お前は俺と会長を騙してた酷い奴だ! 会長が可哀相じゃないか!! こんな奴なんかよりも俺の方が会長を大切にしてやれる! 俺が会長の目を覚まさせてやるんだっ!!」
いや、何と言うか、もう何処からツッコミを入れればいいのかわからない。
十時が好きだと勝手にカミングアウトして走り出した背中を見て、怒りや苛立ちを通り越して脱力してしまったのは仕方がないだろう。
隣の和沢も眉尻を下げて情けない笑顔になってしまっている。
「なんか良くわかんないけどぉ、風紀の仕事が増えるのはぁ、理解できたかもぉ?」
「生徒会長に言い寄ったとなれば、今まで静観していた生徒会長親衛隊が動きますからね」
十時が緋野陽に興味がないことを知っていたため温和しかった生徒会長親衛隊だが、緋野陽が十時にモーションをかけはじめれば動かざるを得なくなる。
全校生徒のおよそ4割にも及ぶ巨大な親衛隊が動くのだ、制裁も苛烈の一途を辿ることは間違いない。
「ご愁傷様です」
「………君ぃ、風紀委員になる気は…」
「俺には荷が重過ぎます」
「だよねぇ」
俺には俺の役目がある。
宗太を緋野陽から遠ざける役目が。
***
SIDE:緋野陽
俺は生徒会補佐ってヤツになった訳だけど、はっきり言ってそんなの面倒臭い。
佳達が俺ともっとずっと一緒にいたいってのは仕方ないとは思うけど、俺は自由にいろんなところに行ってたくさん友達を作りたいんだ!
確かに会長とは何つーか、もっと引っ付いていたいとかって思うんだけど、最近会長の奴どっか変なんだよな…
他の奴らはわからないかもしんないけど、俺はずっと会長を見てたからわかるんだ!
だから今日も元気付けてやろうと、わざわざ生徒会室まで行こうとしてたんだ…けど。
迷った。
何だって敷地内に森があるんだよ!!
とりあえず建物を目指して歩いてたはずなのに全然着かないし、周りは木ばっかりだし、俺は完全にムカついていた。
そんな時だ、あれを見てしまったのは。
何か屋根みたいなのが見えると思って近付いてみたら、そこで黄金と孝一郎がキ、キキ、キス、してたんだ!!
俺はようやく気が付いた、会長が変だった理由は黄金だったってことに。
あんなに黄金に会えて嬉しそうだった会長を、コイツは平気で裏切っていたんだ!!
友達だと思ってたのに最低だ!!
俺はこの事を早く会長に教えてやろうと、道に迷ってたのも忘れて走った。
きっとこの話をすれば会長も目が覚めるはず。
俺はそれが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
走りまくってたら、俺の感が冴えてたのか校舎に辿り着くことができた。
俺は込み上げてくる感情のまま走るスピードをグングン上げる。
伊達に夜の街でやんちゃしてた訳じゃないんだ、速さだったら誰にも負けない。
途中の廊下で何人かとぶつかったような気がしたけど、一大事なんだからそんなの一々気になんかしていられないよな!
階段を駆け上がって見慣れた生徒会室の無駄に豪華な扉を蹴り開ける。
「会長っ!!」
「「あ、陽じゃーん」」
最初に出迎えてくれたのはいつも通りソファでお菓子食ってた林檎と蜜柑だったけど、今は2人に構ってる場合じゃないんだ。
パソコンに向かったまま驚いたように目を見開いている佳にも気付かず、俺は書類から顔を上げた会長に駆け寄る。
「お前、裏切られてたんだ!!」
「………は?」
「おいっ、人と話してる時はこんなもん置けよな!」
あんまり反応を返してこない会長にイラッとして、俺は会長が持ってた書類を取り上げて机に戻した。
これで集中して話が聞けるだろ!
「だーかーらーっ! 俺、見たんだっ、黄金と孝一郎がキ…キスしてたの!!」
座ったままの会長を見下ろしながら言うと、驚いたのかいつもは鋭い目をちょっと見開いている。
やっぱりショックだったんだ。
「黄金と、和沢が……」
「でも大丈夫だ! 会長には、と、十時にはっ俺がいる!!」
今までは恥ずかしくて呼べなかったけど、会長の名前を呼んだらもっと目を見開かれた。
やっぱり会長…十時も名前で呼んでほしかったんだよな!
なのに恥ずかしいって理由で呼んでやれなくて、本当に悪いことした。
あーっ、どうしよう!
顔が熱くて心臓がバクバクしてジッと立ってなんかいらんねぇ!!
「俺っ、俺…ッ…、俺は黄金なんかと違って本気で十時のことが好きだ!! だから十時も、もう自分の気持ちを押し殺したりしなくていいんだぞ! ホントは気付いてたんだよ、十時も俺のことが好きだって! これからは俺がお前の傍にずっといてやる!!」
そう、やっと自分の気持ちがわかった。
俺は十時のこと、いつの間にか友達以上に思ってた。
俺様で不器用な十時に想いを寄せられれば、好きになってやらなきゃ可哀相だろ?
きっと十時は自分から告白とかできないだろうから、思い切り抱き着いて俺から告白してやった。
俺は黄金に勝ったんだ!
あー、早く黄金の前で俺達の仲を見せ付けてやりたい!!
***
SIDE:塚越十時
最悪だ。
何がって、全部に決まってんだろ!
生徒会の仕事サボッてんのが黄金にバレて、駄犬なんざ視界に入れる価値もねぇとか言われてマジで焦った。
だから黄金の言う通りに振る舞った。
あの見るのも悍ましい汚物のような転校生を生徒会補佐にしてやったし、殴り飛ばしてやろうかと何度も思ったが歯を食いしばってできる限り優しくもしてやった。
何で俺がって思わないでもねぇけど、これで名誉を挽回できるってんなら仕方がない。
阿部倉の野郎も黄金に散々脅されたおかげで、一時期は全くしていなかった仕事を今はバリバリ熟してやがる。
理解不能だが、阿部倉はまだあの汚物のことが好きみてぇだ。
まぁ俺としては、黄金に下心さえ抱かなけりゃ別に何だっていいんだが。
双子は相変わらず仕事もしねぇで汚物と戯れてばっか。
どんどん溜まる書類の山にいい加減ぶっ倒れそうだ。
そんな中、汚物がとんでもないこと言いやがった。
黄金と風紀副委員長の和沢がキスしてたとか何とか。
あの黄金がタダでそんな真似する訳ねぇってのはわかってんだけど、ムカツクものはムカツク。
しかもその後、汚物に名前呼ばれるし最悪だ。
俺のことはいいとしても、黄金の名前を呼び捨てるなんて許せねぇマジで。
何か意味不明なことを喚きながら抱き着いてきた汚物を、反射的に殴り飛ばさなかったのは最早奇跡かもしれない。
いや、黄金への愛の力か。
「………陽…」
今にも振りかぶってしまいそうになる拳をブルブル震わせていると、不意に斜め前からか細い声が聞こえた。
視線を巡らせると副会長席の阿部倉が、青ざめた顔でこっちを見ている。
正確に言えば、俺の膝に乗り上げて子供みてぇに抱き着いてる汚物を…だが。
「会長のことが、好き……?」
「そういうことだからよ、佳も林檎も蜜柑も俺のことは諦めて応援しろよな!」
双子はムカつく顔でニヤニヤ笑ってっけど、阿部倉の奴は微かに肩が震えてんじゃねぇか。
何でこの汚物は気付かねぇんだ?
阿部倉の嘘臭い笑顔には気付いたらしいのに、何だってこんなわかりやすいリアクションはスルーなんだ。
汚物の思考回路は俺には到底理解できるはずもねぇ。
顔は上げたものの一向に膝から下りようとしない汚物をいい加減突き飛ばそうとした矢先、ポケットに入れていた携帯がブルブルと震えた。
「何だよっ、十時! 俺がいてやってんだから携帯なんか見るなよ!!」
耳元で喚き散らす汚物は放っておいて携帯を開くと、愛しいアイツからメールが一通届いていた。
『緋野陽を拒むな、好意を寄せている振りをしろ。ただし付き合うとは明言するな、勘違いさせておけ。もし俺の娯楽を奪ってみろ、ぶっ殺す』
黄金、完全に遊ぶ気だな……俺で。
俺がどれだけこの汚物からの仕打ちに堪えられるか、薄笑い浮かべて高みの見物ってか。
これで黄金の望む結果を出せば、もちろんご褒美は貰えるんだよな?
「陽、テメェは温和しく菓子でも食ってろ」
「なっ、何だよ! 別に照れる必要なんてないんだからな!!」
「後で構ってやっから、いい子で待ってろ」
ごわつく鬘をワシッと撫でてやると、途端に顔を真っ赤にする汚物は気持ち悪いことこの上ない。
止めに耳元で名前を呼んでやったら、何かブツブツと言いながらもやっと膝から下りて双子が待っているソファへと向かって行った。
俺は別に生徒会の連中と仲が良い訳じゃねぇし、馴れ合いたい訳でもねぇ。
だが、幼少期から同じ学園で育ってきたんだから多少情が移ることもある。
阿部倉が汚物を好きだってんなら、応援はしないまでも見守ってやろうとは思っていた。
けどよ、こうなったら仕方がねぇよな。
黄金の命令は絶対なんだから。
悪く思うなよ、阿部倉。
***
なんて短絡的な思考回路の持ち主なんだろう。
ある意味緋野陽に感心しながらも、俺は十時宛てにメールを送り終えた携帯を閉じる。
俺に向かって最低だと吐かしておきながらあの顔はなんだ。
「あの子ぉ、笑ってたよねぇ?」
「俺の弱みを握れて嬉しかったんですよ。彼、俺のこと嫌いみたいですし」
緋野陽は無自覚で鈍くてどうしようもない馬鹿だ。
しかもその根底にあるのは、姑息で身勝手で稚拙な浅ましい欲。
人を見かけで判断するなと言っておきながら、その実自分は見目の良い人間ばかりを傍に置きたがる。
いわゆる面食いだ。
更には自分の隣に平凡な容姿で性格も正反対の宗太を置くことで、自分を引き立たせる道具に使っている。
周囲の者達が宗太に嫉妬していたことも、緋野陽は気付いていたはずだ。
その上で緋野陽は宗太を利用し、自分をより愛されるべき存在へと祭り上げたのだ。
これら全てを無意識の内に行っているのだから、余計に質が悪い。
まぁ、言い方を変えれば愛されるための努力を惜しまないとでも言えるんだろうが、自分自身を磨くのではなく他者を陥れる方へとベクトルが向いているのは頂けない。
何故あの程度で自分が完璧な存在だと思い込めるのか、逆に不思議で仕方がない。
恐らく緋野陽は、俺のことも顔が良いだけのボンボンだと思っているんだろう。
しかし、俺の抑えても抑え切れず滲み出してしまうパーフェクトオーラを本能的に感じ、奴は自分にないものを持っているこの俺に対して分不相応にも対抗心を抱いている。
そんな俺の弱みを握って、鬼の首を取ったような気にでもなっているんだろうな。
実際には弱みでも何でもないし、緋野陽が大好きな十時もとっくの昔に俺の手駒な訳なんだが。
そう思うと、俺の掌の上で有頂天になっている今の緋野陽は、滑稽過ぎて逆に哀れに感じてくる。
ピピピッピピピッ
手に握ったままの携帯が音を立てて震えはじめ、一瞬十時からかと思えば予想に反してディスプレイには宗太と書かれてあった。
「……どうした?」
『それがさ、大変なんだよ』
声の調子で、仕事モードの宗太だということがわかる。
となれば、大変とはかなり大変なことで、更には予想外のハプニングが起こったのだろう。
丁度その時和沢の携帯も鳴りはじめたものだから、否応なく込み上げてくる嫌な予感に知らず顔が険しく歪む。
「………まさか、風紀絡みか?」
『正解。たった今、ひとり保健室に運ばれた。意識がなかったみたいだから、病院送りは間違いないと思う』
「原因は緋野陽か」
『言わずもがな。しかも走る緋野陽に突き飛ばされて階段から転落したのは、親衛隊統括の寺島吟先輩だよ』
寺島吟…確か副会長である阿部倉佳の家の従者で、今まで制裁を極限まで抑えていた有能な生徒だ。
宗太がリンチに遭わなかったのは、寺島の力によるものが大きい。
和沢も同じ内容の電話だったらしく、飄々とした笑みが消え去っている。
緋野陽、つくづく愚かな奴だ。
突き飛ばした生徒を顧みない傍若無人な性質もさることながら、その運のなさも哀れとしか言いようがない。
まさか自分で自分の首を絞めているだなんて、今得意の絶頂にいる奴は思いもしないだろう。
ただでさえ十時の親衛隊が動き出すというのに、ストッパーである寺島を自らの手で病院送りにするとは。
親衛隊は統括である寺島を慕っているから、これで立派な大義名分が出来たということになる。
最早誰も止められない。
ちなみに俺は止めるつもりはない。
さぁ、どうする?
いくら緋野陽自身が喧嘩慣れしているとは言え、相手が真っ向勝負を挑んでくるとは限らない。
むしろその過信を逆手にとり、手間がかからず簡単で安全な方法を使い緋野陽を潰しにかかるだろう。
「計画変更だ」
学園が、動き出す。
***
side:阿部倉 佳
嵌められた。
そりゃもう見事に、いっそ清々しいほどに私は篠宮黄金に嵌められてしまいました。
まさか兄さんまで連れてくるなんて…
いや、あの場に兄さんがいてもいなくても、私の敗北ははじめから決まっていた。
篠宮黄金に牙を剥いた瞬間から、私に勝利する可能性など微塵も残されてはいなかったのだ。
まさかあの、親衛隊すら存在しないただの生徒が天下のファルネーゼ家だなんて誰が気付くものか。
どんな優秀なハッカーを雇ったって、ファルネーゼ家が本気を出せばほんの毛先さえも掴ませないに決まっている。
彼にとっては塵に等しい私を、篠宮黄金はお灸を据えただけで野放しにした。
篠宮黄金の正体について口をつぐむことと生徒会としてきちんと勤めを果たすことだけを約束させて、これまでの行い全てを不問に付したのだ。
もちろん私はそんな都合のいいことなど信じてはいなかった。
きっと油断させたところで、もっとも効果的な報復をするに違いない、と。
結論から言えば、報復をされる気配すらない。
もしかしたら、あの言葉に嘘偽りはないのかも知れないと思い始めた矢先に事件が起こった。
陽と憎き塚越十時が付き合い出したこと……ではない。
確かにいきなり塚越に詰め寄り半ば強引に交際を申し込んだ陽には驚いたけど、不思議とあの焼け付くような嫉妬に苛まれることはなかった。
それは、直後にかかってきた電話のせいだったのかもしれない。
生まれた時からずっと影のように私に付き従っていた寺島吟が、階段から転落して病院に運ばれたのだ。
寺島吟。
傍にいるのが当たり前で、当たり前すぎてここ最近は空気のように感じていた男。
会長である塚越に断って病室へ行った私は、我が耳を疑った。
「走っていた緋野陽がぶつかってきて、階段から転落しました。かなりの音が立ち結構な騒ぎになったのですが、緋野陽は振り返ることもなくその場を走り去ったそうです」
陽が吟をこんな風にしたというのか?
白いベッドに横たわっている吟は、見ているだけで痛々しいほど包帯にまみれている。
聞けば右足首と左脛の骨が折れていて、骨盤と左上腕にはヒビが入っているそうだ。
他にも全身を無数の打撲痕があり、目の上を切ったらしく美しい顔にまで包帯が巻かれている。
これでは当分の間、日常生活すらまともに送ることはできない。
吟をこんな姿にしておきながら、その直後陽は呑気に塚越への愛を口にしていたのか?
これがあの太陽だと思っていた人物のすることなのか?
人一人を追い詰めてでも手に入れたいと渇望した私の愛しい人は、こんなことをする人なのか?
嗚呼、何と言うことだろう。
事ここに及んで漸く目が覚めるなんて…
「佳様、ご安心ください。私は緋野陽を訴えたりなどしません。貴方の心の支えを、私が奪うはずなど有り得ませんから」
私は何も見えてはいなかった。
こんなにも一途に私だけを思って支えてくれている存在がありながら、それに目を向けることなく己の孤独だけを嘆いていた。
陽が大きな制裁に遭わなかったのは何故か、考えればすぐにわかることだったのに。
こんなにもボロボロになって尚、私のことを優先する真っ直ぐで純粋な従者。
私は吟が仕えるに相応しい主ではなかった。
だからといって逃げることは、これまで吟が行ってきた並々ならぬ努力を無にするだけ。
ならば、前に進むしかない。
吟の誇りとなれる主に、これからなるしかない。
「吟、これから事情聴取などで忙しくなるでしょうが堪えてください。例え相手が緋野コンツェルン総帥の孫であろうと、必ずこの罪を償わせてみせます」
「佳様、しかし…」
「従者を守るのが主の務め。貴方はただあるがままを話せばいいんですよ」
さようなら、私の初恋。
***
端的に率直にありのままをそのまま言ってしまえば、今学園はすこぶる荒れている。
親衛隊総括である寺島吟が入院してたった1週間しか経っていないというのに、学園内は最早戦場のような様相を呈していた。
総括という枷から解き放たれた各親衛隊は、寺島を慕っていた隊長達の静止も虚しく暴走をはじめた。
この騒ぎに乗じて問題児達も暴れだしてしまったものだから、風紀委員の忙しさたるや寝る暇もないほどらしい。
古武術師範代の腕前を持つ本来なら取り締まり向きの片桐委員長でさえ、事務仕事に追われて風紀室から一歩も出られていないという話だ。
もちろんほとんどの嵐の矛先は緋野陽に向いているのだが、他にも見目好い生徒への強姦や暴行が多発している。
俺達パンダも見かければいつものように両成敗しているけど、それでも全てを助けることは不可能だ。
こうなってくると親衛隊員自身も身の危険を感じはじめたのか、引きこもりはじめる生徒が後を絶たなくなる。
「副会長親衛隊の隊長が強姦されたらしいよ」
「あぁ、あの美人なヤツ~?」
「…………宮内、先輩…」
「卑劣な…。私の子猫ちゃんを嬲り物にするだなんて、絶対に許せないよ!」
放課後、いつものように秘密の家に集まったパンダメンバー。
その口に上るのは、今日起こった事件の中でも1番卑劣なそれ。
特に博愛主義である真紀は、自分を慕ってくれている生徒が犠牲になる事実に胸を痛めている。
俺としてもこの展開は面白いとは言えない。
肝心の緋野陽は生徒会メンバーと共に生徒会室にこもり、実質的には何の被害も受けてはいない。
周りだけが散々傷付き疲弊していく状況は、傍観しているだけでイライラするものがある。
とは言え、緋野陽と共にこもれと十時に命じたのは、何を隠そうこの俺なんだが。
「暴行ならまだしも、強姦はいただけねぇ。人としてだけじゃなく、男としての尊厳も踏みにじる行為だからな。だが、これまで同様率先してパンダを動かす気はない」
見かければ助けるが、俺達は今大々的に動くことは出来ない。
この混乱は双子にとってチャンス以外の何物でもないだろう。
それは同時に、俺達のチャンスでもある。
ただ副会長の時とは違い、今回のパンダは敵に関する決定的な情報を持ち合わせていない。
双子の企みも2人に手を貸した助っ人の正体も、一切合切全く掴んでいないのだ。
「黄金も、今回は大博打に打って出たものだね」
宗太に笑われるのも仕方がないだろう。
「これみよがしに情報を目の前にぶら下げられると、意地でも取りたくなくなるのが人の心理だろ?」
そう。
情報が得られなかったのではなく、取ってくださいと言わんばかりに晒されていたから無視しただけだ。
AAAが得られない情報なんて、この日本にはあるはずもない。
「それは~、人の心理じゃなくて~、ボスの性格でしょ~?」
「……黄金、天邪鬼」
「煩いぞ、テメェら」
一丁前にツッコミを入れてくる輪廻とユキトに睨みを利かせ、ゆっくりと香りを楽しみながらティーカップを傾けていく。
恐らくこの秘密の家は、今の学園で最も安全な場所なのではなかろうか。
こうやって俺が優雅に紅茶を楽しみながら友と語らっている間にも、何処かで誰かが泣いているのかもしれない。
そんなこと、知ったことか。
ここは人間社会だ、弱肉強食の自然界とは訳が違う。
力が弱い者は別の手段で身を守れば良いだけの話だ。
それを怠っておきながら悲劇のヒロイン面してメソメソ泣いている男が俺は大嫌いだ。
その戒めの意味も込めて今まで両成敗を貫いてきたというのに、パンダの想いは生徒達に通じなかったようだな。
「多分、そろそろ双子が動き出す。当初の計画では緋野陽も纏めて潰す予定だったが、こうなった落し前はあの双子にきっちりとつけてもらう」
誰の尻尾に噛み付いたのか、思い知らせてやろうじゃないか。
***
幕開けは、その次の日。
最悪な形で切って落とされた。
真紀のリンチ。
もちろん油断した真紀にも落ち度はあるが、博愛主義者である真紀が可愛らしい生徒を無下にすることなど有り得ない。
双子のチームであるリーデレの息がかかった不良共が、生徒を脅して真紀を誘き寄せ10数人で袋叩きにしたらしい。
はっきり言って真紀は喧嘩が弱い。
棒がなければそこら辺にいる一般生徒と大差ないというのに、竹刀すら持っていなかった真紀が悪い。
自業自得だと言ってもいいくらいの愚行だ。
だが、真紀以上にリーデレの…双子のやり方が気に入らない。
正々堂々と仕掛けてくるとは思わなかったし、狙うならパンダでも一番弱い真紀か弱そうに見える宗太が狙われることはわかっていた。
だが、わかっていたとしても苛つくものは苛つく。
受け身のとれる真紀でさえ全身数ヵ所の骨が折れたということは、一般人なら内臓破裂で死んでいてもおかしくないほどの暴行を受けたことになる。
情報を聞き付けたパンダが現場に到着する、たった5分の間にだ。
常軌を逸している。
それが双子による命令なのか、この学園に渦巻く狂気に当てられたせいなのかはわからないが、今回の暴行は明らかに一線を越えていた。
勿論現行犯の不良共はユキトと輪廻の二人が捩じ伏せてかなり遅れてやって来た風紀副委員長の和沢に引き渡し、その間に真紀は宗太によって病院に搬送された。
俺はといえば終始壁に凭れ掛かって携帯を弄くっていたが、別に遊んでいる訳じゃない。
真紀のリンチは始まりに過ぎない。
風紀はまだ気が付いていないようだが、こうしている間にも学園の各所で大小様々な騒ぎが起きている。
同時多発的に起きた騒ぎは、どう考えても計画的なものとしか思えない。
恐らく真紀を襲うことでパンダを分散させ、騒動によって風紀委員と学園の警備員の目を引き付けて足止めする…ってところだろう。
となれば、導き出される答えはただひとつ。
双子は助っ人をこの学園に引き入れるつもりだ。
強力な助っ人ということは、ガチで俺達とやり合うつもりなんだろう。
真紀をパンダのメンバーだと知っているのなら、俺達のことも知っていると考えていい。
輪廻、ユキト、俺、丁度3対3って訳だ。
中々考えたな。
だが、
「俺達と…いや、俺とタイマンで勝てるって思っている辺り、高が知れてるな」
高校生にもなって喧嘩だの何だのと青臭いことなんかやってられなくて、俺は殆どを他のメンバーに任せきりだった。
素人相手に手を上げる気にもならなかったしな。
ファルネーゼ家当主の嫡男としてこの世に生まれ落ちる前から命を狙われ続けてきた俺は、自慢じゃないが相当の腕前を誇る。
幼少期にからかわれたこともあり磨きに磨き上げた武術の腕前は、体格差のせいで師事していた師範には劣るものの何でもありの喧嘩なら師範たちにも負けない。
つまり、俺に勝つのは拳銃や爆薬でもない限り無理だということだ。
それを双子が知っているのかはわからないが、もし知った上で喧嘩を売っているのだとしたら愚かにも程がある。
「………双子、殺す」
「アッハ! ユキたんバーサク状態なんですけど~。俺たちヤられちゃうよ~、ボス~」
パンダメンバーである真紀がボコられたのが腹に据えかねたのか、ユキトの目はギラつき輪廻は軽口を叩いているものの目が明らかに笑っていない。
居場所のない輩が何となくつるんで出来ただけだったパンダだが、いつの間にか他の奴等にも仲間意識が芽生えていたんだな。
「取り敢えず解散だ。俺は一人で行動するが、お前らは二人で行動しろ」
まずは助っ人から潰してやる。
1番騒々しい昼休みという時間にも関わらず、中庭には人っ子一人いない。
学園のあちこちで起きている騒動から身を守るために、一般生徒は教室や寮で大人しくしているんだろう。
いつになく静かな中庭を歩き、時折遠くに聞こえる喧騒から状況を判断する。
今のところ無事な中庭は、恐らく奴等の罠か何かがあるに違いない。
警備員や風紀委員達が取り締まる騒動を嫌い、面倒臭がりな俺が中庭へと移動するだろう…なんて、あの小さな脳味噌で考えているのはわかっている。
向こうからすればまんまと誘き出したつもりなんだろうが、俺からすればわざわざ出向いてやったに他ならない。
俺にここまでさせたんだ、相応の代償を払ってもらわないとな。
中庭の更に奥、普段でも人気がない場所に差し掛かった頃、唐突に背後の茂みがガサガサとざわめきだした。
漸くゲストの登場か。
「随分と手の込んだ挨拶をしてくれたな、覚悟はできて…」
「あ―――ッ!! やっと見付けたぞっ、黄金!!」
「………」
「なっ!? どうして俺を無視するんだ!! 無視っていうのは人間が1番やっちゃいけない最低な行為なんだぞッ!!!?」
回れ右をしたくなった俺の気持ちも汲んでくれ…
謎のゲストかと思えば、茂みから現れたのは生徒会室に軟禁状態だったはずの緋野陽だなんて、俺じゃなくたって脱力するに決まってる。
ついでに言うなら人間が1番やってはいけないことは殺人だと、大体の国で定められているように思う。
とにかく、俺が何を言いたいのかというと…
「俺に構うな」
特に今、緋野陽に構っている場合じゃない。
俺の想定を悪い意味で軽々と越えてくるコイツがいる状態でゲストが来たら、何が起こるか最早未知数だ。
「何でそんなこと言うんだよ!! あっ、わかった! 俺が十時と付き合いだしたから嫉妬してるんだろ!? 十時はあげられないけど、俺が黄金を構ってやるよ!! だからそんなに拗ねるなって!!」
「いや、だから構うなって言ってるだろうが。お前は耳と脳の間に呪われたフィルターでもあるのか?」
話しが通じない上に、そんなに離れていないにも関わらず拡声器並みの大声で喚く緋野陽。
これじゃゲストがここに辿り着くのも時間の問題だ。
「訳のわからないこと言ってないで、ほらっ! 一緒に生徒会室行こうぜ!! 本当は一般生徒の立ち入りは禁止らしいけど、俺は特別だからな!! 外の空気が吸いたくて今は抜け出してきちまったけど、俺と一緒なら黄金でも生徒会室に入れるんだぞ!! 凄いだろ!?」
俺の心からの疑問は、訳がわからないで済まされてしまったようだ。
あぁ、面倒臭い。
もういっそのこと、当て身でも食らわせて猿轡を噛ませようか。
縛り上げてその辺りに転がしても、コイツの生命力ならしぶとく生き残れるだろう。
仕方がないと俺が緋野陽に歩み寄ろうとした瞬間、再び背後の茂みが音を立てた。
遅かったか。
「―――トントントン、なんの音?」
振り返り俺が見たのは、亡霊のような男だった。
黒髪で糸目でにこやかで一見すると普通の男だが、身に纏う雰囲気は異質としか言い様がない。
存在は希薄なのに、近寄ってはいけないと本能が訴えかけてくる。
「お前、誰だよ!? あ、俺は緋野陽っていうんだ!! ほらっ、そんな変な歌なんか歌ってないで名前を言えよ!!」
嫌な予感しかしないこの状況で、緋野陽の空気が読めない特殊能力は今日も絶好調なようだ。
しかし、謎のゲストは緋野陽を気にすることなくゆらりゆらりと歩き出す。
重力を感じさせないその動きは、まるで道化師のように奇妙だった。
男が一歩踏み出す度にざわりざわりと肌が粟立っていく。
まるで見えない糸で操られたマリオネットかのように、その歩みは何処かぎこちない。
ゆうらりと上体や腕を揺らしながら歩く男はどう考えたって異常なのに、どうしてこうも緋野陽というクソガキは平然と声をかけられるんだろうか。
ある意味その鈍感さが羨ましいよ。
嘘だけど。
「―――…黄金、黄金。黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金黄金、」
熱に浮かされたようにぶつぶつと呟かれている名前が自分のものだと思うと、いくら図太いと自負している俺でも流石に気持ちが悪くなる。
もうドン引きだ。
まさかコイツ薬でもキメてんじゃないだろうな?
「おいっ、お前! 俺が話しかけてやってんのに黄金なんか呼ぶなよ!!」
何故俺がお前より格下扱いなんだ…
「煩いよ、ゴミ」
「は? 何…―――ッ! ぐぅっぁあ゛あぁあっっ!!!!」
それは一瞬のことだった。
ゆっくりした動作だった男が、唐突に凄まじいスピードで拳を繰り出しウエイトの軽い緋野陽を吹き飛ばしたのだ。
下手をしたら歯が数本砕けてもおかしくないくらい、情け容赦のない一撃だった。
「お前みたいなゴミクズが、黄金の名前を口にしないでくれる?」
「…おっ、おれは、ゴミクズじゃ…ない!」
おーおー、あんだけ吹き飛んだのにまだ話せるなんて、やっぱりコイツの生命力は人並み以上だ。
ガクガクと震える腕をついて身体を起き上がらせるガッツは認めてやってもいいが、ボロボロ涙を流している醜態でプラマイ0だけどな。
むしろマイナスか。
「い、たい…ッ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃ!!」
お前の存在がか?
ま、これだけ喚けるなら歯も折れていないだろう。
「何でっどうして殴ったりするんだよ!! 暴力を振るうなんて最低だ!! いくら寂しくて素直になれないからって、俺を殴るなんて間違ってる! 大体黄金は親友が殴られたのに何で庇ってもくれないんだよ!? 俺の代わりにお前が殴られればいいんだ!! こんなに可愛い俺よりお前が殴られろよ!!!!」
いつの間にかこっちに矛先が向いてる。
自分の身に降りかかった災難は全部俺のせいってわけか。
心底嫌われてるみたいだな。
俺はもっとお前が嫌いだけど。
「……おい」
「ヒィッ!」
今度は何が琴線に触れたのか、男は緋野陽に歩み寄るとその髪を無造作に掴み上げた。
ブチブチと音が聞こえたから、恐らく鬘ごと地毛も掴まれているんだろう。
痛みと恐怖に、流石の緋野陽も歯をガチガチと鳴らして震えている。
「お前みたいなゴミクズが、黄金の親友…?」
そこが引っ掛かったのかよ。
もっと突っ込むべきところはたくさんあっただろうに。
「……いい加減にしろ。用がないなら俺はもう行くぞ」
何が楽しくてこんなところに突っ立ってなきゃならないんだ。
変な男からは名前を連呼され、馬鹿な男からは罵倒され、俺の我慢もそろそろ限界なんだよ。
100%本気で立ち去ろうと背を向ければ、背後から凄まじいスピードで気配が近付いてくる。
殺気にしては憎しみのない気配に振り返る間もなく、次の瞬間には脇腹を蹴り上げられていた。
スピードに乗った蹴りの威力は凄まじく、緋野陽と変わらないくらい軽い俺は少年漫画のように吹き飛び肩から木にぶつかった。
「…ッ!」
危ない、肩が外れかけた。
背後から躊躇なく振り抜かれた蹴りは、俺じゃなかったら骨が砕けていたかも知れない。
普通の人間なら自分の足へとかかる負担を軽減するために、無意識下で力をセーブしようとするものだ。
なのにこの男の蹴りにはそれが感じられなかった。
蹴った衝撃で足の関節が外れてもおかしくないにも関わらずだ。
コイツ、本気で薬キメてんじゃねぇだろうな。
「…く、ぅ…」
外れかけた肩を押さえながら振り返れば、表情ひとつ変えていない男が影のように立っていた。
「なんで逃げようとするの? 折角逢えたのに。黄金に逢うために、あんなクソガキ共の話に乗ってやったんだよ?」
やっぱり、コイツが双子がご招待したゲスト様ってことか。
それにしてもさっきから気になっていたが、俺に対する執着が半端じゃない。
昔から俺はこの類い稀な美貌で変な輩に目を付けられやすかった。
だが、父親の実家関係で常に暗殺の危機を感じていた俺は、変質者程度なら気にも止めないくらい図太く成長してしまった。
だから、もし過去にコイツと出会っていたとしても全く覚えていない自信がある。
チラッと視線を走らせれば、緋野陽が一目散に逃げていく背中が見えた。
おいおい、日頃から俺は強いとか言っておきながらその様かよ。
滑稽過ぎて笑いも出やしない。
ま、お荷物がいなくなって俺としては万々歳だけどな。
俺個人ならアイツがフルボッコにされようと犯されようと気にしないが、あの人からの願いだから一応は気を使ってやらないと。
「…ねぇ、あの汚い奴を逃がすために、わざと俺の気を引いたんでしょ? そんなにアイツを傷付けられたくない? そんなにアイツが大切?」
「き…っ、きっしょく悪いこと言ってんじゃねぇよ! 俺が緋野陽を大切にするわけないだろうがっ、気持ち悪過ぎて鳥肌が立つ!」
「そんな演技までして、アイツを守りたいの?」
演技じゃねぇえええっっ!!
何だ、その勘違い!!
コイツの頭の中じゃ俺の本気の否定も、『アイツのためなんかじゃないんだからね!』みたいなツンデレバージョンで変換されてんのか?
やめろっ、そのツンデレフィルターッ!!!!
痛む肩とは別の意味でゾゾゾッと走った寒気に二の腕を擦りながらも、これ以上言葉を重ねれば重ねるだけツンデレっぽく聞こえてしまうんだろうと早々に訂正は諦めた。
諦めたが、ムカツクことには変わりない。
「あんな奴のことより、俺を見てよ。どうして目の前の俺を見てくれないの? 君の目はいつもずっと先のことを見据えていて、2人きりになっても俺だけを見てくれない!」
「…は? お前、何言って…、っ!」
不意に瞳が揺れたかと思えば、瞬きひとつの間に男の拳が眼前まで迫っていた。
鼻を潰す気でいるらしい拳から僅かに身体を捻って起動を逸らすも、耳元を掠めた腕が力を殺すことなく横に振り抜かれ俺の頬に裏拳としてぶち当たる。
その一切躊躇のない力に再び吹き飛ばされた俺は、また同じ肩を木にぶつけ今度こそ関節が外れてしまった。
しかも、聞き手である右腕を…だ。
ダラリと力が抜けてしまった腕に、血の味がする口腔。
咄嗟に力を逃がしたものの、歯こそ折れてはいないが内側を切ってしまったようだ。
ぺっ、と吐いた唾は地面を赤く濡らす。
あーあ、周りがいろいろと煩くなりそうだ。
過保護なパンダメンバーなんて、俺の顔に傷が付いたことを知れば全員寝込んでしまってもおかしくない。
痛みよりもジンジンとした熱さしか感じない頬に、これでは当分学校にも行けなくなるなと苦笑が漏れた。