一話 僕にしか見えないヒト
侍女が言うには僕は生まれた頃から、誰もいない場所に手を伸ばしていたらしい。
自我が芽生え、諸々が分かるようになった時に僕はその存在に声を掛けた。
「お姉さんは誰?」
触れちゃいけないと思っていたけど、誰もいない内に聞いてみた。
お姉さんは長く所々赤みかかった白い髪をしていて、家のメイドの人たちよりも美人だった。
そんなお姉さんに声を掛けると、少し驚いたような表情をした後に僕に一礼した。
「私は契約の悪魔のフェトラと申します」
「悪魔!?」
悪魔。それは悪い存在だって読み聞かせて貰った。
その発言でちょっと身構えたけど、ただ僕を見つめていた相手がそんな悪い存在だと思えずに警戒を解いた。
「理解が早くて助かります。では、本題なのですが、私と契約して頂けませんか?」
「契約? ってなに?」
「私の主人になって下さい。他の悪魔と違って能力を与えたりは出来ませんが、契約書の作製ができます。こちらが契約書です。お名前は書けますか?」
「ごめん。怪しいからやめておくよ。ごめんね」
差し出された契約書を返した。
「そうですか。分かりました」
フェトラさんは少し残念そうな顔をしてから、契約書を戻した。
「それで、なんで僕に契約を持ち掛けたの?」
「あなたが特別な存在だからです。普通の三歳児はこんな流暢に会話はできませんよ」
「特別ね。そんな自覚はないんだけど、まあいいや。お姉さんが悪魔でも悪いことをしないなら良かった」
みんなに見えなくて、誰とも話せないのは可哀そうだからしばらくは話しかけてあげよう。
扉が開き、勢いよく女性が飛び込んできた。
「ベルク様。聞いて下さいよ! 副侍女長ったら、ちょっと本の並びがズレていただけでエヌを怒ったんですよ! しかも、二時間もネチネチとですよ」
「そ、それは大変だったね」
「もー共感してくれるのはベルク様しかいませんよー」
この見た目だけは淑女っぽい雰囲気が少しする金髪の子は僕の専属侍女のエヌート。本人が自分の事をエヌと呼ぶから僕も同じように呼んでいる。
「エヌ。扉の方見て」
「えっ? なんですか? あ――こ、これは侍女長さま。これはですね」
「ええ。分かっているわ。『ベルク様のご命令よね』」
「そ、そうかもですねー」
「ベルク様。申し訳ございません。この者にはしっかり指導をしておきますので」
「ほどほどにね」
「ベルクさまー! お助けを!」
嵐みたいな速度でエヌがいなくなった。
「面白い子でしょ? エヌは前からあんな感じでね。僕がしっかりしなきゃって思える子なんだ」
「そうですね。ベルクさんと十歳差で十三歳でしたか。ここの侍女の中でも若く優れた容姿。それにここでは珍しい明るい女性ですね」
「ここでは明るいね。フェトラはここの事は知っているんだね」
大陸一の勢力を誇る大国ゼドアムの中では異質な貴族。ザルゴル家。通称『化け物』公爵。
「先祖代々、優秀すぎる人材を輩出してきたとか」
「そうみたいだね。お父さんは宰相で実質的に国を支配しているし、おじいさんは武闘派でSランク冒険者になったりもしていたらしいね」
能力的に優れた家であり、王族との血縁も濃い。
世間的に見れば、ザルゴル家に生まれた僕は勝ち組なんだろう。
「その分、競争が激しいんだよね。二人も優秀な兄がいると僕は肩身が狭いよ」
「ご謙遜を。ベルクさんは既にお兄さん方を超える素質があることを自覚しているのでは?」
「流石に僕をずっとみているだけはあるね。そうだね。僕は年上の兄さんたちに負けるとは思いもしていないよ」
二人の兄は世間一般的に見れば優秀と言われているけど、ザルゴル家の中では平凡と言われている。
それに対して、僕は……
「『ザルゴルの最高傑作』なんて呼ばれて、少し委縮しちゃうよ。生まれてすぐに行動なんて大したことがないのにね」
「出産を目の当たりにしていた私の目から見ても驚きでしたよ。手足を欠損して生まれた赤子が自ら回復魔法で自己再生をして、その後、一瞥しただけで他国のスパイたちを気絶させたのですから」
そんな神話みたいな産まれ方をしたせいか、みんなが僕を期待している。
まあ、期待をされてもいい事はあまりない。
特に兄たちとの関係性が悪く、長男に当主を継がせたい父に煙たがれている。
「人の部屋に入る時はノックぐらいしたらどうですか?」
歳が一つ上の兄が入って来た。
「剣で勝負だ。お前が何もしていない間。俺は鍛え続けたんだ」
「訓練場に行きましょうか」
「ここでいい」
兄が木剣を投げて来た。
「……別にいいですよ」
「それでこそ男だ」
細工がされている木剣で、まともに打ち合えば確実に折れるものを渡してきておいてよく言う。
「ベルクさん。その剣は……」
「分かっているよ。ちんけな策だよ」
「何を言っているんだ!? そうだな。ただ勝負するだけでは面白くないな。賭けをしよう」
「何を賭けるんです?」
「お前の侍女は胸はないが見た目だけはいいよな。俺にくれよ」
「分かりました。で、そちらは何を賭けるつもりで?」
「言ったな!」
兄が剣を振りかぶって襲ってきた。
自分勝手な条件付けは流石にムカつく。
「なっ! 素手は卑怯だぞ!――」
兄の剣を掴み、木剣で殴った。
細工をされていた剣はへし折れたが、兄を動けなくさせるには十分だった。ただ、ザルゴルの血の影響か無駄に頑丈でまだ睨みつける体力はあるみたいだ。
「こ、こんなことをして、タダで済むと思うなよ」
「で、僕が勝ちましたけど、何をくれるんですか? こっちは大事な侍女を賭けたんです。等価交換で言えば、そちらの侍女をくれるんですか?」
「そんな。これは無効試合だ」
まあいいや。
一個上の兄は相手にする価値はない。ここでやりすぎて面倒ごとになるのは避けたい。
それに、兄の専属侍女が陰からどうしようかと様子を伺っていて、少し気の毒に思った。
「そこに隠れている人。兄上を治療室に運んでください」
「はい!」
兄の護衛兼、専属侍女が兄を運んで行った。
「初めて剣を握った感想はどうですか?」
「歳がそんなに変わらない相手を叩きのめしても、面白くもなんともなかったよ。それよりも、約束を反故にされるのはちょっと嫌だったかな」
「嫌でしたか。そうですか。私の主人になれば、そんなことはなくなりますよ」
フェトラは少し嬉しそうに提案してきた。
「私は契約の悪魔です。事前に契約したことを強制執行することができます。どうですか? 私と契約しませんか?」
「それは魅力的だけど、そっちの利点が分からないと契約はしたくないね。後でとんでもない代償を払うことになるのは御免だから」
「私もそれが賢明だと思います。そうですね。私の利点としては……」
フェトラが口を止めた。
「いえ、すいません。今はまだ言えません。契約はまたいつかでいいですが、これからも一緒にいてもいいですか?」
「それはいいよ。友達ができたみたいで嬉しいしね」
「友達ですか……分かりました。しばらくはその関係で我慢します」
また扉が開き、エヌが入って来た。
「死地よりあなたのエヌが舞い戻りましたよ! ほら褒めて頂いてもいいのですよ?」
「お疲れ」
「侍女長はお話が短い方で助かりました。それで、先ほどは誰とお話で?」
「うーん。紹介するよ。僕の友達のフェトラ。見えないと思うけど悪魔らしいよ」
「悪魔!」
フェトラのいる方向に向かってナイフが数本飛んで行った。
しかし、フェトラに当たることはなく頭をすり抜けた。
「退治できましたか!? 一応、銀を使った装備ですが」
「友達だって言ったよね」
「いえ。はは。すいません。条件反射です。犬みたいなものです。わんわん」
エヌは僕を抱きしめてから周りを警戒し始めた。
「へえ、ベルクさんの目線から私の場所を正確に割り出し、護衛の為に自分の身を盾にするとは、流石、護衛騎士といった所ですね」
「さて、エヌの主人を誑かす悪い悪魔はどんなことを言っているんですか?」
「こう言って下さい。可愛らしいメイドさんですね。ベルクさんにお似合いです」
「それは」
「正直に教えて下さい! エヌは味方ですから」
戸惑った。まだ知らない感情を刺激されたみたいで動揺することしかできなかった。
「……エヌと僕がお似合いだって」
「本当にそう言ったんですか?」
「うん」
「……はは。それはエヌが誤解しちゃっていたみたいですね。その悪魔さんはベルク様と本当に友達なんですね」
エヌが武器を戻した。だけど、警戒はしたまま僕から離れていない。
「エヌには見えないお友達さん。しばらくは容認してあげます。でも、ちょっとでもベルク様を変な道に誘惑したらエヌがどんな手を使っても殺します」
「分かりました。契約ではありませんが、肝に銘じておきます」
何かよく分からないけど、二人は和解したみたいだった。
エヌに抱きしめられた時、僕の中にはよく分からない感情になった。
あれは一体、なんだったんだろう?
「それではエヌは一般業務に行ってきますね! 寂しいかもしれませんが、少し我慢してくださいね」
「うん。頑張ってね」
エヌがいなくなった後。
「フェトラ。君なら僕が抱えている感情が分かるよね。教えてくれないかな?」
「私が教えては意味がありません。ベルクさんが自分で理解することで初めて意味のある感情です」
「ちょっと難しい問題だね。悪い気持ちじゃないよ」
――コンコン。
今日は来客が多い。
白髪の頑強な肉体をした老人がノックの後に扉を開けた。
「ベルクや。元気にしておったか?」
「お爺さま」
「儂のことはお爺ちゃんと呼んで欲しいのう」
気さくで人の好さそうな祖父をフェトラは仇敵でも見るかのように目線を鋭くしていた。