六月二十一日(火)②
十時には人が増え始め、十五分を過ぎた頃には講義室はおよそ半分ほど埋まった。こうなるといつも会話をし始める学生が次第に現れる。それが男の幻聴を刺激してしまうのか、彼らのひそひそ声は男を卑下するものに、笑い声は男を嘲笑するものに聞こえることがしばしばあるため、あらかじめ耳を塞いでおこうと、男は音楽プレイヤーとイヤホンを取り出した。しかし、先ほど乱暴にそれらをしまったせいで、イヤホンは、宿命的な因縁の如く、複雑に絡まっていた。
男は顔をしかめはしたものの、その表情とは裏腹に冷静であった。まずイヤホンをプレイヤーから外し、そしてイヤホンをじっと観察してどの線同士が絡まっているのか把握する。あとは焦らず、丁寧に、確実にそれを解けばいい。彼は目を瞑り、深呼吸をするために大きく息を吸った。
「…だろ?」と誰か。
「…なのよ。」と別の誰か。
男性の声と女性の声が、ラジオの周波数を合わせた時のように、はっきりと聞こえてきた。男は息を吸ったまま、体を硬直させる。誰かが自分に対して何か言っているような気がしたのだ。
「そんなにマジにならなくてもイヤホンぐらい解けるだろ?」と男性の声。
「致命的に頭が悪いの。手遅れなのよ。」と女性の声。
声は彼の背中に突き刺さり、おそらく何らかの神経をだめにしてしまったのだろう、彼の体が小刻みに震えている。
「マジで?そりゃどうしようもないな。なんで大学にいるんだよ。」
「ホントよ。大学はあの人みたいな馬鹿求めてないと思うけど。高校を出てすぐ働くべきだったね。」
いつの間にか男は呼吸を止めることをやめて、過呼吸にさえなっていた。
「はは、そんなんじゃモテないぞ。ってもう手遅れか。」と笑い声。
「自分のことばかり考えてないで、少しは家族も大切にしなよ。ってもう遅いね。」と笑い声。
男の視界は明滅していた。停電と復電を繰り返しているのではないかと思うほど、視界が暗くなっては明るくなり、また暗くなる。脳はぐらぐらと、目が回り出した。
男は分かっていた。これは幻聴で、イヤホンをして音楽を流せば聞こえなくなるということを。急がなければ、と次第に大きく下品になっていく笑い声を背に思いながら、恐怖の中にいくらか混ざっている怒りに身を委ね、イヤホンを力任せに引っ張った。ブツンという音とともに視界はたちまち明るくなり、男を笑う声も消えた。残響さえなかった。しかし、男はそれらがどこへ逃げたのか、確信していた。ズキズキと脈打つような痛みに苛まれている頭に手をやる。奴らは僕の脳に逃げたんだ。畜生、馬鹿にしやがって、今すぐ引っ捕らえてやるぞ!事実、その頭痛は人の笑い声のような強弱のリズムで脳内を波打っていた。
…そんな馬鹿な、ありえない。頭を振ってその異常な考えを振り払おうとしていると、男は不意に無数の視線を感じた。彼は恐ろしい怪物と出会ってしまったかのようにゆっくりと顔を上げていった。大半は無関心の視線だ。男がそちらを見ると、質の悪い病人と会ってしまったときのように視線を逸らした。しかし、いくつかの視線はいかにも迷惑そうな様子で男を見ていて、目が合うと道端の汚物でも見るかのように顔をしかめて数秒睨んだ後、ようやく視線を外してくれた。それらは全て現実の視線だった。男は死人のような青い顔色しており、シャツは絞れるほどぐっしょりと汗で濡れ、机には汗がまばらに散っていたのだから、これでは注目を集めるのも無理ないだろう。
普段ならば卒倒しそうなほど注目を集めてしまったが、今はそんな余裕も無く、これからどうするべきかで頭が一杯だった。とりあえず講義が始まるまで人気の無い所で休むべきか、それとももう帰ってしまうか。いずれにせよ、どこかで休んでから考えることにしよう。男はそう考え、机に手を置いて力を込めた。その時、何かが男の肩に触れた。冷たい。シャツ越しでも冷たさが伝わってくるほどで、体が肩から凍り漬けにされていっているのではないかと男は錯覚してしまう。二、三秒間、男にとっては数十分に感じられたが、その間、彼は冷静になれと念仏のように心で繰り返していた。
何が肩に触れているんだ?冷静になれ、誰か学生が肩を叩いたんだろう、冷静になれ、こんなに冷たい手をしている人間がいるのか?冷静になれ、さながら死人の手じゃないか、冷静になれ、例のモヤだろうか?冷静になれ、奴が僕に触ってきたことなんて今まであったか?冷静に――
ふと、男は背後の存在の視線を感じ取った。覚えのある視線だった。記憶の特定の部分を刺激する視線。受けているだけで次第にイライラとして、胃の中が反吐で満たされたような気持ちになるのだ。ちょうどあのモヤが近くにいるときと同じように。やはり奴なのだろうか。男の考えは固まった。肩から伝わる冷気は既に脳まで凍らせ、もはやそれ以上考えることもできそうにない。彼は再び息を乱しながら、次に起こる出来事を待つことしかできなかった。背後の何かが息を吸う音が聞こえる。無意識のうちに耳に意識を集中させられていた。まるで後ろの何かがこれから起こる決定的な出来事の預言をしようとしていて、それを聞き届けなければならないかのように。背後の何かが声を発する直前、彼は出し抜けに冷静になり、今の構図が何かしらの宗教画のように感じた。それは遂に口を開く。
「ねえ」
次の瞬間、男は即座にリュックサックを取り、出口へ向かって走った。走ったというが、実際には、青白い顔とフラフラとした足取りはゾンビのようで、壁や机に何度も衝突しては汗をまき散らしながら、出口へ向かったのだった。
男が学部館を出て、周りには目もくれずに何度もつまずきながら歩いていると、巨大な楠木に差掛かった辺りで前方から七人ほどの男女の群れが向かってきていた。彼らとすれ違う時、男側にいた男女二人がチラリと自分の方を見た気がして、それについて考えを巡らせようとした直後、先ほどすれ違った団体から小さい笑い声が起こった。男の記憶はそこで途切れてしまった。
気がつくと、男は見慣れたアパートの一室にいた。しばらく目を白黒させ、泥酔した日の翌朝のように自身の行動を思い返そうとしたが、思い返すことはできなかった。服が汚れていることと体のあちこちに擦り傷ができていることから、自分が何度も転んだことが推測できただけだ。講義室に置き忘れてしまったイヤホンと音楽プレイヤーのことがふと思い出される。僕のイヤホンは千切れてしまった。接着剤を使えば、イヤホンの体裁は保てるかもしれない。しかし、もう二度とイヤホンとしての本来の機能を取り戻すことはできないだろう。死んでしまったんだ。でも僕は?僕はどうだろうか。僕はまだ生きている。ボロボロになってしまったが、生きているんだ。男は手や腕や足や顔にできた擦り傷をさすりながら、ぼんやりそんなことを考えた。