六月二十一日(火)①
六月二十一日(火)
部屋は暗闇で満たされていた。物の少ないワンルームの部屋だ。玄関から見て正面には窓があり、右側にはハンガーラック・本棚・姿見・冷蔵庫・電子レンジ、左側にはベッド、部屋の中央には長方形の短足テーブルがある。そのテーブルの上にあるのはノートパソコンと情けなくへこんだ一本の空き缶だ。扇風機の羽根の回るカタカタという音が部屋に響いている。暗闇の中で光るものが二つあった。男の両眼だ。それはテーブルの上の時計を向いた。三時五十分。ビールを飲んだせいで変な時間に目が覚めてしまったようである。
酒なんか飲むもんじゃない。男は分かっていたが、飲まずにはいられなかった。一週間ほど前から悪夢を見るようになっていたのだ。以前にも悪夢を見るようになったことが二度あったが、すぐに止んだため、今回もすぐに収まるだろうと思っていた。しかし、一週間経っても悪夢を見続け、寝不足で大学の講義や公務員試験の勉強に集中できなくなった。そのため、苦肉の策として酒に頼ることにしたのだ。結果としてこの策は上手くいき、今夜は悪夢を見ることがなかった。
部屋をさまよっていた視線は、本棚、その上段にある黄ばんだ紙袋にふと止まった。男は呼吸ともため息ともつかない音を鼻から漏らして目をそらす。視線はまたふらふらと羽の欠けたハエのようにおぼつかなく飛び回り、結局また紙袋に止まった。うんざりしたような舌打ちの音が鳴る。しばらくした後、男はむくりと起き上がると、寝間着のまま散歩に出かけた。そして、いつも通りに七時に朝食をとって七時半にアパートを出た。
男が学部館を目指して構内を歩いていると、スポーツウェアを着た三人の男子学生が談笑しながらこちらに向かってくるのが見えた。そのうちの一人が顔見知りなのか、男は苦い顔をしながら俯いて彼と目を合わせないようにしている。
「おい」という声が、彼らとすれ違う時、イヤホン越しに聞こえた。しかし、男は聞こえないふりをして歩き続けた。
「おいって!」という声と同時に肩を掴まれてぐいと引っ張られる。男は観念してイヤホンを外した。肩を掴んだのはやはり知り合いの男子学生だったようだ。
「すみません、聞こえませんでした。えっと何か用ですか?」男は他人行儀に言った。
「いやいや、ひでえな。俺の顔忘れたのか?」と彼はへらへらしながら言った。
「ああ!すみません、気づきませんでした。お久しぶりです。」
男はあたかも今気づいたかのようにそう言った。とは言うものの、彼の名前はどうしても思い出せなかった。誰も彼も似たような顔や声や服装や名前をしているからいちいち憶えていられないんだよな。彼がそう思っていると、男子学生は彼を上から下までジロジロと見ながら、
「そういえば二回生の時にお前がサークル抜けて以来だな。今何してんの?」と言った。
「特にサークルとかには入ってませんよ。専ら単位の消化と公務員試験の勉強です。」
「ふうん、つまんねえ生活してんな。俺もあのサークル抜けて、今テニスサークルにも入ってるんだけどさ、ま、いろいろユルくて楽しいぞ。」
「それはよかったですね、お連れの方がいらっしゃるようですし、僕はこの辺で。」
「それにしてもお前、相変わらずボロボロの服着てんのな。貧乏くさいからやめた方がいいぜ。」
連れの学生は声を出さずにニヤついていた。
「おっしゃるとおりですよ、本当に。それじゃあ失礼します。」
そう言って、男は背を向けて歩き出した。背後の笑い声は次第に遠ざかっていく。
男はイライラしながら乱暴にイヤホンを結び、ポケットに突っ込んだ。二階の大講義室に着くと、講義が始まる十時半まで男は自習をして時間を潰すことにした。余計なことを考えないように、余計なことを考えないように――。そのように念じながら講義の復習をしていたせいか、何度も目が滑り、十分経っても二十分経っても、ノートの同じ箇所を何度も繰り返し眺めているのだった。