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More Songs...  作者: alIsa
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六月十日(金)②

 一限目と二限目の授業を受けた後、男はさっさと講義室を出て階段を降りた。柱廊の外、ベンチなどがある方へ何とはなしに目をやると、白いアスファルトが日光を照り返していて、思わず目を細めた。それから柱廊の内へ目をやると、柱が太陽に照らされて日陰と日向を交互に作り出し、床は縞模様をなしていた。柱廊を抜けた先では熱と光が同時に降り注ぎ、男は堪らず右手で目の上にひさしを作った。やっぱり暑くなったな、と思いながら広い道に出ると、周囲の建物には目もくれず早足に歩き出した。       

 この構内で一際目を惹くのは巨大な楠木であろうが、それとは別に至る所に木々が生えている。楠木は一年中あまり変化が無いのに対して、これらは常に男の目を楽しませた。春には、満開になる桜とその散りゆくさまが儚さから来るときめきを、秋には、黄や赤に色づく葉が得も言われぬ親しさを、冬には、葉を散らした木々が侘しくも生へ執着する力強さを、毎年示してくれたのだ。

 今歩いている広い道も両側を木々で挟まれていて、男はそれらの木々のひとつを横目で見た。季節はもう夏になりつつあり、その木も青々と葉を繁らせている。そして、よく見てみると、それぞれの葉は決して同じ色ではなく、濃淡があり、更に一枚の葉だけを見ても、中央から端に向けて、あるいは端から中央に向けて色が濃くなっている。彼は木々のそのような夏の姿が一番好きだった。瑞々しくて生命力に溢れたその姿に、彼はこれまで幾度となく活力を分け与えてもらった。


 そのアパートはお世辞にも立派なものとは言えない。外壁はひび割れ、至る所の塗装は剥げ落ちている。階段は薄くてあちこちに穴が空き、踏めばベキベキと頼りない音が響く。何となく老婆のような印象を抱かせる建物である。男はそのアパートの二階の一番奥に住んでいた。

 男は力なく階段の一段目に足を乗せた。手すりはひんやりとして心地よいが、錆びていてザラザラとサンドペーパーのような手触りがした。ようやく階段を上りきり、自分の部屋の前でポケットから鍵を取り出そうとしている時、バタバタという音が聞こえたと思うと、隣の二〇三号室の扉が勢いよく開いた。そこには彼と同じぐらいの背格好でアジア系の顔をした外国人が立っていたが、男は二〇三号室が空き部屋だとずっと思っていたため、思わず身構えた。そんな男とは対照的に、彼はこのアパートの住人には相応しくない人当たりのよい笑みを浮かべると、口を開いた。

「はじめまして。昨日引っ越してきました。よろしくお願いします。」男は外国語が飛んでくると思い込んでいたため、綺麗な日本語が聞こえてきたことに面食らい、彼の言っていることが分からなかった。「あの、隣に住んでいる人ですよね?」外国人は続けた。

「ええ、はい、すみません。暑さでぼーっとしていて…」男は愛想笑いをしながら言った。

「そうですね。とても蒸し暑い。国よりは少し暑くないですけど。」

「ああ、やっぱり外国からいらしたんですね。留学生の方ですか?」

「多分それで合ってると思います。日本の企業で働くためにいろいろ教えてもらってます。」

「ご出身は?」

「フィリピンで生まれました。」

「フィリピンからですか。すごいな、遠い異国で過ごすなんて僕は耐えられませんよ。」

「そうですね。寂しいし家族に会いたいです。でも家族のためにお金をたくさん稼げるようになりたいです。」彼は笑いながら言った。

「大変そうですね。」

「はい。兄は国で働いているのですが、家族を養うのが大変で。それで僕が日本で勉強してお金をたくさん稼いで兄に休んで欲しいです。」

「家族思いなんですねえ。僕も見習わないといけませんよ。」男は自虐的に言った。

「フィリピン人はみんな家族を大切にしているのです。」

 異邦人は屈託無く笑う。

「それは素敵だなあ。それであなたのことを何と呼べばよろしいですか?」男は投げやりに言った。

「フアンという名前です。」

「フアンさんですね。これからよろしくお願いします。」

 男は部屋の鍵を開けた。

「僕たちは家族みたいなものですから、何かあったら助け合いましょうね。」

 ドアを開けると、フアンがそう言ったため、男は軽く愛想笑いをしながら会釈をして部屋に入った。少しして隣の部屋のドアが閉まる音がした。

「家族ねぇ。」

 ドアの鍵を閉めると、男はおかしそうにそう呟いた。彼はリュックを放り投げてゴミ箱に向かっていき、蹴飛ばそうとする――が、足は振り下ろされない。彼は大きくため息をついた。

「家族ねぇ…。」

 男は本棚に近づき、上段にある黄ばんだ紙袋に苦い一瞥をくれた後、本棚から公務員試験の問題集と大学ノートを取り出して我を忘れたかのように試験勉強に取り組んだ。



 気づけば部屋は既に薄暗くなっている。

 男はひどく腹が減っていた。冷蔵庫を開いてパンの耳を五本取り出し、無心でかじる。それだけでは足らず、余っていたちくわと豆腐を食べてようやく一息つく。冷蔵庫を閉めて下を見ると、パン耳のクズが床に散らばり、夜空に光る星のように暗い部屋の床に白く浮かびあがっていた。

 男は何もする気が起きず、タバコを一本持って窓に近寄った。窓を開けると、キーッ、という甲高い音が耳を突く。そろそろまた窓に油を差さないといけないな、と思いながらタバコに火をつけた。彼は顔を上げて比叡山を眺め、空を仰ぎ、再び比叡山を見る。朱に染まってはいるものの、山も空もいつもと変わることなくそこにいた。

 男は半分も吸わないうちにタバコの火を消し、窓を開けたまま壁際にあるベッドに寝転がった。そして、小一時間ほどぼんやりと部屋を眺め続けていた。

 狭いワンルームほどの空間は少しずつ本格的な夕闇に浸食されていった。


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