六月十日(金)①
六月十日(金)
男は飛び起きた。デジタル時計を見ると朝の七時前、体中が汗でベタベタしていた。何か嫌な夢を見たような気がして十秒ほど思い出そうと努めたが、枕元にクモが這っているのを見て、その思考は中断された。三センチほどのなかなか大きいクモだ。彼は潰すかどうか少し考えた末、テーブルの上にあったインスタントコーヒーの空き瓶でそのクモを捕まえて窓から逃がした。
男は一息ついて、とりあえずシャワーを浴びようとユニットバスへ向かった。シャワーを浴び、ひげを剃り終えてから、穴だらけの下着だけ履いて朝食を食べた。食パンに生卵を乗せて焼いたものが彼のここ数年の朝食である。それを食べ終えると、彼はタバコを一本持って窓を開け放った。そして、タバコに火をつけ、窓枠にもたれて周囲の風景を一望した。正面には、いくつかの建物を挟んで比叡山がそびえ立っている。男が左右どちらを向いても、必ず比叡山が背景として目に滑り込んできた。比叡山は早起きで、隙のない様子をしてどっしりと構え、彼には無関心そうにどこかを睨み付けている。山の木々が六月の風に吹かれて小さくざわめくのが聞こえた。顔を上げると、すっかり明るくなった空がある。空にはちぎったような雲があちこちに浮び、斑点になって流れている。今日も空は朝からせっせと日の光を運んでいた。男は窓枠でタバコの火を消し、今日も暑い日になりそうだな、と思いながら部屋に戻った。
それから、男はよれよれになったTシャツと色の落ちたチノパンツを着ると、リュックサックを背負って再び窓に近寄った。比叡山を見て、空を見て、もう一度比叡山を見る。
「行ってきます。」
そう呟くと、彼は部屋に戻り、外へ繋がるドアを開けた。
男はポケットからイヤホンと使い古した音楽プレイヤーを取り出した。そして、アパートの前に並んだ自転車を一瞥すると、歩き出した。大通りでは歩道にも車道にも前からも後ろからも自転車が行ったり来たり、学生やサラリーマンや主婦が自転車に跨がって忙しなく各々の目的地を目指している。似たような顔をして規則的に動く彼らを見ていると、男は何となくピッキングのアルバイトを思い出した。
少し前までは男も自転車に乗って大学やバイトに行っていた。しかし、四月末頃から、どういうわけかいつの間にかパンクするようになり、終いにはタイヤが十センチほど縦に切り裂かれて使い物にならなくなったのだ。それ以来、彼は徒歩で大学やバイト先に行っていた。当初は不便に感じていたが、今となってはいい気分転換になる上に健康的だと思っていた。正確にはそう思うように努めていた。
正面から自転車に乗った青年が向かってきている。彼はすでに男の数歩前だ。痛い視線を確かに感じる。男は、今回は諦めることにした。
「馬鹿野郎。」
すれ違う時にその青年の声がした。男は少しだけびくりと肩を震わせたが、すぐにイヤホンを付けて音楽プレイヤーの電源を入れた。
男は幻聴を患っていた。きっかけは分からなかった。三年ほど前に突如として聞こえるようになったのだ。初めのうちは空耳で済ますことができる程度だったが、二年前に両親が他界して以降、幻聴は明らかに悪化していった。とはいっても音楽を聴いていれば気にならない程度のもので、先日応天門で聞こえたほどの幻聴はこれまであの一回きりだった。
男は丸太町通りを進み、路地をいくつか歩いて大学の前までやって来た。六月上旬でも湿度の高い京都は蒸し暑く、その上に三十分ほど歩き続けたため、うっすらと汗をかいている。時計台を見るにまだ八時前のようだ。一限目が始まるまでまだ時間があり、大学前の人通りは少ない。構内に足を踏み入れると、いつもまず大きな楠木が目につき、その木の下で読書や会話をしている学生もいる。男はそのまま右手に楠木を見ながら構内を歩いていった。
少し進むと、図書館と法学部館が見えてきた。学部館は凹のような形で、その周りの駐輪場にある自転車は、ほとんどが放置自転車だ。それらは一様に錆び付いていたりクモの巣が張られたりしている。駐輪場を抜けると、短い柱廊と入り口の一つが現れ、その先に二階へ続く階段と反対側の入り口が見えた。学部館は静まりかえり、開いている入り口から冷たくじっとりとした風が柱廊を撫でながら吹いてきている。男は柱廊を抜けて二階に向かうと、階段を上ってすぐの所にある大講義室に入り、音楽を流したまま講義の復習をして時間を潰した。