五月末 金曜日⑤
男がふと腕時計を見ると、針は二十時半過ぎを指していた。隣にはあの女に似た少女が変わることなくそこにいる。彼女は男との会話に飽きたのか、携帯電話を取りだしてメッセージアプリで誰かとやりとりをしていた。携帯を取り出してはメッセージを送信し、再びスカートのポケットに戻すというのをかれこれ二十回以上は繰り返している。男は、最近の子って皆こんな感じなのか、と驚いたものの、大学生になるまで携帯を所有したことがなかったため、かつての自分と比較することもできなかった。
少女が携帯を取り出して電源をつけた時、おそらく二十七回目だ、ふと携帯の壁紙が男の目に映った。彼女と髪の長い少女のツーショット写真。
「その写真に写ってるのはあなたの友達ですか?」と男は尋ねたが、すぐによしておくべきだったか、と思った。
「私のスマホ覗き見したんですか?」彼女は悪戯っぽく笑いながら言った。
「偶然目に入っただけですよ。」
「意外とデリカシーのないことするんですね。」
「すみません。」
やはりよしておけばよかったんだ。男は後悔したが、意外にも少女はその質問に答えた。
「この子、私の恋人なんです。」
彼女の表情は喜びに溢れていてどこか誇らしげに見える。
「はい?誰が?」
「写真の子がですよ。」と少女は当然かのように言ったのだが、男は混乱していた。写真に写っていたのは彼女と同じ制服を着た女子生徒だったのだ。
何か聞き間違いをしたのか、あるいは恋人という言葉が何かの隠語なのか。男は思わず聞き返した。
「恋人?」
「恋人です。」
てっきり自分の聞き間違いの訂正か、暗に示している意味の説明があると踏んでいたため、彼女の返答に彼は頭を抱えそうになった。
「同性と付き合うことって別に変なことじゃないですよ。今時の子にとっては。」
男の様子を見て、彼女はそう言った。
「そうらしいですね。」
「お兄さんにとっては変?」
「どうでしょう。」
「やっぱり変だと思ってるんですね。」
彼女の声はひどく平坦だった。
「…」男は何も言わなかった。
その目でこっちを見ないでくれ不愉快だ。男は何かがジメジメと体をよじ登ってくるのを感じながら口の中で吐き捨てる。
少女は彼の返答を待たずして語をついだ。
「LGBTQでしたっけ?多様な性が認められつつあるんですよ。」
「らしいですね。」
「『らしい』って…。大学の授業でこういう話題は取り上げられないんですか?」
「…」
頭痛が襲ってきた。彼の視界は揺らぎ、少女の声が二重三重に聞こえる。
「お兄さんはそういうのを受け入れられないタイプの人なんですね。」
「…そうじゃない。たとえ君の学校の全生徒がレズビアンでもどうでもいい。ただ君が同性愛者なことだけが問題なんだ。」
「え?」
「あんたがカモフラージュのために僕と付き合っていたことが問題なんだ!僕とのデートに一時間遅刻してその間に本命とペッティングなんかに勤しんでいたことが問題なんだ!」
男は彼女に詰め寄り、一息でそう怒鳴り散らした。彼は少女を睨んでいたが、その目は焦点が合っていなかった。
「えと、あの、どうしちゃったんですか?」少女は声を震わせ、怯えた表情で後ずさりしながら言った。
気づけば辺りは失敗の空気に満たされつつある。雨に混ざったあの女の笑い声を確かに聞いた。彼はハッとして、自分が今いるのは応天門で目の前にいるのは赤の他人の少女だということを思い出した。体中がかゆくてたまらなかった。
「…すみません、違うんです。あの…、忘れてください。」
男は目を逸らした。
「いえ、その、私もなんか失礼なこと言っちゃったかもしれません。」
少女も目を逸らした。
「…」
「…」
「雨、止みませんね。」
「そうですね。」
お互いに黙ったまま二十分ほど経った。ずっと空を眺めていた少女は唐突に男の方を向いて言った。
「あの、お兄さん。雨が弱くなってきたから、私そろそろ帰りますね。」
「え?ああ。さようなら、気をつけて。」
「はい。さようなら。」
「失踪なんかしないように。」
「はい?ええと…」
「強く生きてくださいねってことです。」
「ああ、はい。ありがとうございます。」
少女はそう言うと、応天門の下から出て、男の視界を右から左へ走っていった。
男は居心地の悪さから解放されると、大きくため息をついて欠伸をし、空を見上げた。空はどす黒い、遠近感が狂いそうなほど黒い、雲で覆われて、巨大な虫の腹のようだ。そこから、醜い羽虫の卵が、歪な形のしずくがひっきりなしに産み落とされている。きっと今夜中に孵化して京都中の人間を食い殺してしまうだろう。
「全く弱まってないじゃないか。雨」
男がそう呟くと、それに応えるかのように、彼を嘲笑うかのように、雨は勢いを増した気がした。
結局、男が応天門の下から出てアパートに帰ったのは日が昇り始めた頃だった。