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More Songs...  作者: alIsa
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五月末 金曜日④

 腕時計の針はもう二十時を指そうとしている。周囲の静寂に変化はない。雨は降りしきり、空は灰色がかった黒い雲を敷き詰められ、冷泉通りは冷ややかに濡れそぼっている。見えるもの全てに闇が降り積もって黒に染まり、夜が訪れていた。

 応天門の下にいた男が正面に目を凝らすと、砂利道とその先の冷泉通りまでは視認することができたが、それより先はいくら眉間に皺を寄せようとも暗闇だった。しかし、ほんの三十度ほど首を回して目を凝らしてみると、冷泉通りの先にある岡崎公園まで見ることができた。彼は不思議に思い、再び正面に顔を戻す。よくよく見てみると、正面の暗闇はゆらゆらと湯気のように揺れていた。そのことに気づくと同時に、それはゆらりと一度大きく動いた後、ピタリと動きを止めてゆっくり男の方に近づいてくる。それが砂利道の真ん中ほどに来てようやく、彼はそれが黒いモヤであると分かったが、特に驚いたり恐怖したりすることはなかった。なぜならそのモヤこそが、一時間ほど前に車に轢き潰されたあの黒い膨らみの中に入っていた存在だからだ。

 それは三年ほど前に男の目の前に現れて以来、およそ月に二、三度姿を見せるようになった。普段はいつの間にか近くにいて男を驚かせるのだが、注意深く周りを見ていると、今回のように湧いてくる過程をお目にかかることができる。今回のように道路から湧くこともあれば、大学にある楠木の梢付近からぬるぬると滑り落ちてくることもあれば、水道の蛇口から吐き出されることもある。当初は気味悪く感じることもあったが、危害を加えたり直接干渉してきたりすることは無かったため、少し目障りな存在という程度に認識するようになっていた。

 モヤは雨をものともせず、男に近づいてきた。雨粒は黒い体にぶつかっても、その輪郭を撫でることはなく、すり抜けてそのまま地面に落ちている。それはついに彼から二メートルの場所まで近づいた。男の背より数十センチ小さい程度の、決して大きくはないモヤはそこで止まると、再び揺れ始め、いつも通り呻き声のようなものを発し出した。周囲は静けさに包まれていたため、それは雨音に混じって嫌でも男の耳に届いた。そのモヤがやってくるといつも、男の中にはむかむかと何かが霧のように立ちこめるのだった。

 男はモヤから興味を無くしたかのように柱にもたれたまま目を閉じると、俯いて眠ったそぶりを見せた。無視するのが一番いいんだ。十分ぐらいこのままでいれば、いつものように消えちまうさ。彼はそう思うことで腹の虫を収めようと試みたのだ。目を瞑ったことで男の神経は否応なく耳に集まる。雨が地面や門の碧瓦を叩く音は耳に心地よく、疲れが溜まっていたこともあり、彼は本当に眠りそうになる。しかし、モヤは相変わらず「あー」とか「おー」とかいったような音を漏らしている。男にはそれが虫の羽音と同じくらい不快で、なかなか睡魔に身を委ねることができなかった。

 耳を澄ましてみると、呻き声は、気体が液体になって固体になるように、少しずつ言葉になりつつあるような気がした。

「わー・・・・・・・ほー・・・・」

「・・・あー・・・・しー・・・・」

 それから少しの間、男は気になって、じっと耳を澄ましていたが、その声はそれ以上凝固することはなく、彼もそろそろ焦れったさと飽きを感じるようになったため、耳の意識を雨音に向けようとした。

「私ね、あなたと一緒にいる時間はとても幸せだったの。本当に。」

 不意に右耳のすぐ側からはっきりとした声がした。二度と聞きたくない声が脳にこだまする。男ははっとし、目を開くのと同時に後ずさりしつつ右を向いた。何も無い。少しうとうとしていたし、あいつのことを思い出していたからあいつ幻聴が聞こえたんだろう。彼はそう結論づけて正面へ向き直した。目の前のモヤから聞こえる呻き声は先刻と変わることなく雨と溶け合っている。男は気持ちを落ち着けるために深呼吸をしようとして、

「ごめんね。大丈夫だから。」

 次は左耳のすぐ側から声が聞こえた。男が左を見ても当然何も無く、周囲には誰もいない。

「私のこと一生愛しているって言ってくれたよね?」と右から声がした。

「どうして私のこと見捨てたの?」と左から声がした。

「あなたのせいで私は死ぬほど苦しんだの。」右から。

「あなたも苦しんで。」左から。

「生きている価値なんてないのよ。あなたは。」

「あなたは誰も彼も不快にしてしまうの。」

「あなたは何をやっても失敗する。」

「野垂れ死んじゃえばいいのに。」

「惨めな人。」

 そこら中から声が聞こえた。これほどひどい幻聴は初めてだった。世界が歪み始める。男は足が震えてその場にへたり込み、耳を塞ぐ。暖をとろうとしている遭難者のように、彼は可能な限り体を縮こめると、体を小刻みに震わせた。黒いモヤも同様に小刻みに揺れていた。その動きが男に対する嘲りを意味しているのか、それとも男の様子に対する動揺を意味しているのか、彼には分からない。どれだけ耳を塞いでいても、嘲笑・侮蔑・嫌悪の声は息継ぎもなく彼の脳を虐げ苛み続けるのだった。


 「あなたを思う人なんて、この世に一人もいない。」

 僕は今泣いているのだろうか。彼の視界はぼやけ、口には塩辛い液体が絶えず染みこんできた。実際には、彼は冷や汗をかき続けていたのだ。それらが目や鼻や口に、パニックホラーに出てくる寄生虫のように、流れていたのだった。

 視野の上端に黒いものがあった。巨大な蜘蛛のようなそれはいつの間にかすぐそこにいて、動こうとしない。男は顔を少し上げてその物体を視界の中央に移した。それは黒いローファーだった。そして、くるぶしを覆うくらいの長さの靴下がローファーからのびていた。人が来たのだ。彼ははっとして更に顔を上げた。

“あの女”がいた。一五〇センチほどの身長、肩までに伸ばした髪、それを結ぶ黒いヘアゴム、真っ白なブラウス、ネイビー色のネクタイ、それと同色で膝下までの長さのスカート、白い肌、整った顔立ち、透き通った漆黒の瞳、少し上がった口角、雨と雨に濡れた地面の匂い。…真っ白なブラウスとネイビー色のネクタイ?

「あの、大丈夫ですか?救急車呼びますか?」目の前の人物は困った様子で言った。

「あんた誰だ?」男は顔をしかめて言った。

「え?私ですか?」相手は面食らった調子で言った。

 目に大量に流れ込んだ冷や汗のせいで、男の視界はまだ少し霞んでいる。彼は子供のように両手の甲で目をごしごしと擦った。そして、改めて目の前の人間を見ると、当然ながら男のかつての恋人ではなかった。そもそもあいつは僕と同い年だから、今もどこかで生きているなら今は二十歳だよな、と男は自嘲した。眼前の少女は十五、六歳ぐらいの外見だ。

「すみません。少し眠っていただけです、大丈夫です。」と言いながら男は立ち上がった。

「そうですか、よかった。」と言って少女は応天門に入った。

 男は周囲を見回して黒いモヤが消えたことを確認すると、少女に視線を戻して言った。

「申し訳ないですけど、二三〇円はついさっき渡してしまったんですよ。」

「はい?ええと、二三〇円?」

「いえ、何でもありません。雨宿りですか?あなたも。」

「はい。さっきまで学校で雨宿りしてたんですけど、早く帰れって追い出されちゃって。」

「一人で?」

「はい?」

「いえ、何も。」

 男はそう言うと黙り込む。不愉快だった。しばらくの間この気まずい沈黙に耐えなければならないこともだが、あの女に似ている人間と雨宿りをしていることが男にとっては何よりも耐えがたかったのだ。少女も沈黙に耐えられなかったのか、あるいは単に暇を潰そうと思ったのか、彼に話を振ってきた。

「おじさんは何をされているんですか?」

 おじさんか、と男は思った。彼は昔から老け顔で正確に年齢を言い当てられたことはなかったし、どこへ行っても自分の年齢を言えば驚かれた。新聞勧誘の人にお父さんと呼ばれたことさえあった。そのためおじさん呼ばわり自体は別にどうだっていいのだが、あの女に似た人間にそう呼ばれることが彼には気に食わなかった。

「おじさんって、ひどいですね。僕はまだ二十歳ですよ。」男は笑いながら言った。

「え、そうなんですか?すみません、その、スーツを着てたので、てっきり…」

 少女は男が無造作に置いていたスーツの上着を指さしてそう言った。彼女はばたばたと忙しなく手を動かしながら弁明していて、男はその様子をぼんやりと眺めていた。落ち着きのない子だな、と思っていたが、少女の着ている制服を見てふと思い出した。

「あなたってあの私立高校の生徒ですかね?向こうの方にある。中高一貫の。」男はその女子校がある方を指さして言った。

「え?ああ、はい。そうなんですよ。」と少女は、助け船を出されたと思ったのか、申し訳なさそうな様子で言った。

「へぇ。それじゃあ、お嬢様って訳ですね。」と男は冗談めかしながら無表情で言った。

「あはは、そんなことないですよ。家のことはよく分からないですけど。少なくともフィクションみたいにリムジンで送迎してもらうなんてことはありませんよ。」少女は照れ笑いしながら言った。

「…確か小学校と女子大が系列にありましたよね。それならしばらくのんびり青春できる訳だ。」

「どうでしょうね。私はまだ高校一年生だから進学先についてそこまで考えてないですけど、必ずしもみんな系列の大学に行くって訳じゃないと思いますよ。」

「そうですか。」

「それにしてもお兄さん詳しいですね。」

「以前、所属していたサークルでその女子大の学生と合同で活動したことがあるんですよ。」

「へぇ、そうなんですね。ってことは、お兄さんは大学生?」

「ええまあそうですね。一応。」

「いいなぁ。私も早く大学生になりたいなぁ。どこの大学なんですか?」

「どこだっていいでしょう、別に。とにかく大学生なんですよ。」男は可能な限り丁寧な語気で言ったが、内心うんざりしながら、「どんな大学に通おうと、将来金が稼げなかったら意味ないんだ。」と続けて呟いた。

「はい?」

 少女は不思議そうに男を覗き込んだ。

「すみません、独り言です。あなたはどこの大学に通いたいと思っているんですか?」

 面倒な話題を避けるために、男の方からそう質問をした。

「そうですねえ、うーん。まだ深くは考えてないんですけど、そうだなぁ…」少女はまだ見ぬ未来でも見ているのか、遠くを見て微笑んでいる。男は、そういえばあの女とも今みたいに進路について話したことがあったな、と思い出して顔をしかめた。「やっぱり一人暮らしをしてみたいんですよね。私、京都から出たことなくて、だから東京の大学がいいかなぁ。お兄さんは一人暮らしですよね?」

「ええ」

「そっかぁ、いいなぁ。私は家に帰っても家族がいるんですよ。特にお母さんはあれしろこれしろうるさくって。一人暮らしだと好きなときに好きなことができるんですよね?」

「まぁそうですね。」と男は言った。

 いろいろ思うところはあったが、自分の高校生時代も似たようなものだったかもしれないと思い、手短な返答にとどめた。横目で少女を見ると、暗く重たい闇を笑顔でいつまでも眺めていた。


 「大学のサークルってどんなことしてるんですか?」

 数分間の沈黙の後、少女が尋ねた。男は唐突な質問に思考が止まったが、少し考えて口を開いた。

「一口にサークルって言ってもいろいろありますからね。僕が所属していたサークルは、地方の課題についてあれこれ調べて解決策を議論する、みたいなことをしてましたよ。」

「何だか難しそうなことをやってるんですね。」と少女は物珍しそうに男を見て言った。

「あなたは何か部活とかやっているんですか?」男が言った。

「はい、バトントワリング部に入ってます。」

「なんですって?バトン?」

「バトントワリング部です。」

「何ですか。それ。」

「両端にゴムのおもりがついた棒を回しながら踊るんです。集団で。」

「聞いたことないな。随分とハイカラなことやっているんですね。」

「そんなことないですよ。一九六〇年には日本に伝わってたらしいですし。」

「へぇ」

「今日も練習してて、それで帰るのが遅くなっちゃったんです。」

「いつもこんな遅くまで練習しているんですか?」

「いえ、テスト明けなので張り切っちゃって。居残りで練習したんです。」と少女は恥ずかしそうに言った。

「…大変ですねえ。」

 男はできるだけ感情を込めてそう言うと、柱にもたれてそっぽを向いた。


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