五月末 金曜日③
少しずつ目の前の古い光景は途切れて後退し、現在の光景と混ざり合っていく。男は下駄箱にもたれていて、目の前には高校のグラウンドが広がっているが応天門にいて、隣にはあの女が昔の姿で立っているが、男は二十歳の姿だった。男は彼女から決して目を離そうとしない。彼には未だに分からなかったのだ。なぜ彼女が自分の恋人になったのか、なぜ自分を捨てたのか、なぜ失踪したのか。その女について分からないことが男にはたくさんあった。
瞳が現在の光を確実に認識するようになっても、男はその女がいた場所を睨み続けていたが、そこには応天門の柱があるだけだった。彼女が既に記憶の底に沈んでしまったことに気づくと、彼は柱にもたれかかったまま地面にずるずると座り込んだ。そして、ポケットからタバコとライターを取り出し、最後の一本を取りだして火をつけた。タバコの煙が体内に染みこんで、臭いが鼻を通り抜けるにつれて、体は次第に現実感を取り戻していく。全くわけがわからないな、と一口吸ったきりのタバコを指に挟んだまま口内に吐き捨てた。僕はあいつに裏切られた、都合よく利用されていたんだ。
男は彼女との最後の記憶を慎重に思い返そうとする。引き出しの最下段のさらに一番奥へ手を入れ、そこにあるものを注意深く取り出した上で埃を払う。そのような丁寧だった。あの女と最後に面と向かって話したのは、先ほど見た記憶のちょうど二年後、高校三年の五月のことだ。中間試験の後だったため、正確には五月の下旬だろうか。
男は目を瞑った。
男は今回のテストもあの女のおかげで乗り切ることができたため、いつものようにお礼も兼ねてデートに誘ったのだ。
「ごめんね?どうしても今日は部活に顔を出しておきたくって。」彼女は言う。
「そっか。それなら図書館で適当に時間を潰しとくよ。今日はバイトもないしさ。」
それから男は図書館でカフカの「訴訟」を読んでいたのだが、数ページ読んではうとうとするのを繰り返していた。そのため、美術部の活動が終わる十八時までに、ヨーゼフ・Kが朝の九時に裁判所を探し回る場面までしか読むことができなかった。十八時を過ぎても彼女はやってこなかったが、おそらく集中しているのだろう、と彼は思った。それまでもこういうことは何度もあったため、彼は大して気にせずに本の続きをもう少し読んだ。
ヨーゼフ・Kが天井裏の法廷に到着した場面まで読むと、男は本を棚にしまって図書室を出た。そして、彼女が絵を描いている姿を一目見ようと美術室へ向かった。絵を描くときの彼女の表情は人の心を動かす何かがあり、とりわけ彼は心臓をナイフで突き刺されたような感覚になったものだった。結局、当時はその女に心酔していたせいで、彼女のすることなすこと、全てが素敵に感じていたのだ。
そこまで思い出すと、男はふと首を傾げた。彼女はどんな絵を描いていただろうか。抽象的には思い出すことができた。彼女はよく風景画を描いており、それを周りの人々は彼女らしい絵と評していた。男も彼女の絵を見て、なるほど彼女のきれいな瞳には世界がこう映っているのか、と感心したものだった。
しかし、そのような絵たちは記憶の中で全て混ざり合い、一つの概念となっている。ただ一枚の絵だけが男の中で鮮明に記憶されていた。彼女の自宅の部屋にあるクローゼットの奥に隠すように置いてあった絵だ。背景は黒みがかった虹色で、中央には人型のようなものが直立している絵。絵の中心で虚ろにフォーカスされている人型は、深い紫色で、至る所に暗赤色の線が刻まれていた。
男は、再び記憶の尻尾を追いかけ始めた。
図書館を出ると、右手側にある三階へ続く階段を昇り、廊下の突き当たりにある美術室へ向かった。美術室のスライドドアの前まで来た時、ドアが開いて中から二人の女子生徒が出てきたが、どちらもあの女ではなかった。
「――さんはまだ残ってる?」男は尋ねた。
「確か、――ちゃんと一緒に帰るって。三十分くらい前に。」手前にいた生徒が答えた。
それを聞くと、男は彼女らに礼も言わず、昇降口まで駆け下りていった。
男は自身のクラスの靴箱に近づいてあの女のスペースを開き、彼女のローファーがまだあることを確認した。まだ学校にいるに違いない、なぜあの部員たちに嘘をついたんだ?彼はそう疑問に思いながら、先ほどの生徒たちにより詳しく話を聞こうと美術室の前に戻った。しかし、当然ながら彼女たちはもうそこにいなかった。
男は異常なまでに冷静さを欠いていた。女には事前に、図書室で時間を潰しているから一緒に帰ろうと伝えていた上に、彼女はそれまで体調不良でもない限り、どんなに小さなことでも約束を破ったことはなかったからである。彼は一つ一つ教室を確認するために、そのまま二年生の教室がある三階と三年生の教室がある四階へ向かった。
外は薄暗くなり、窓から入る光は階段の踊り場を四角く切り取っていたが、その境界線はぼんやりとしていた。階段を昇ったり降りたりするうちに、男の脳内の混乱は不安という形を取り始めていた。美術部には同じクラスの男子生徒も所属していたのだが、彼女は彼と一緒にいるのではないか、と思ったのだ。
男は自然に早足になり、階段を一段飛ばしで降りるようになっていた。そのせいか、四階から三階に降りて三階から二階に続く階段を降りている時、足がもつれて盛大に階段から転げ落ちた。受け身をとることに失敗したせいで、足首を捻って肩から床に激突し、頭をぶつけてしまった。その痛みで数分間、床をのたうち回っていたのだが、頭の中は絶えず不安と恐怖で満たされていた。
――何に対して?あの女が自分に嘘をついているのではないか、ということ?しかし、それだけでは不十分か?
階段の手すりに掴まって立ち上がると、男は足を引きずりながら二階にある一年生の教室を調べ始めた。突き当たりの一年五組の教室から確認していき、一年二組の教室を通り過ぎようとした時、教室のドアの窓から机に座っている二人の人影が見えた。一つは見覚えのあるもので、もう一つは見覚えのないもの。彼はドアに触れない程度で可能な限り近づき、気づかれないように身をかがめると、窓から様子をうかがった。
一人はあの女だった。黒板の方を向いていて顔は見えなかったが、その後ろ姿はそれまでの約二年で何度も見たことがあるものだ。もう一人も黒板の方を向いていて顔は分からなかったが、セーラー服を着ていたため、その瞬間まで男が想像していた人物ではないことは少なくとも分かった。男は安心してドアから少し離れる。
どうしてこんな時間にこんなところで二人きりでいるんだ?まあ、きっと女の子同士でしか話せない相談か何かがあるんだろう。男はそう納得し、図書室に戻るために踵を返そうとした。その瞬間、彼は静止した。
名前も知らない女子生徒と男の恋人が向き合ったと思うと、唇を重ねた。三十秒近くそれが続き、徐にその女が女子生徒のセーラー服の中に右手を入れていく。そして、その手の動きは次第に規則的になり、女は唇を離して首筋にキスをする。彼女は空いている左手で名無しの少女のスカートをたくし上げ、その中に手を入れると、太腿を撫でているのか、スカートが波打つ。そして、再び唇を重ね、舌を絡める。
怒りというより恐怖という感情を男は抱いた。彼女が得体の知れない生き物に見えたのだ。その女が、かつて彼女の部屋で見た絵画の人型と重なり、人の皮をかぶった別の存在に思えたのだ。逃げなければ、と彼は直感した。しかしそれは、今見たことを忘れて明日からも彼女の恋人を続けていくための逃走ではなく、自分のための逃走だった。恐怖からくる本能的な逃走だった。
教室からはくぐもった二人分の声が漏れていた。決して大きい声ではなかったが、放課後の静まった校舎の中、教室のすぐ外にいる男の耳に届くには十分過ぎるほどだ。男は走ろうとしたが、挫いた方の足を前に出した時にバランスを崩し、足を捻って壁にぶつかってしまった。ベシン、と間抜けな音が廊下に響く。それでも彼が脇目も振らず右足を引きずりながら必死に歩いていると、背後から声が飛んできた。
「ねえ」
あの女の声だった。廊下に滞空していた静寂は彼女の声よってその均衡をかき乱され、静寂とその声が跳弾のように廊下を跳ね回っては男を貫く。あまりにも声が響いていたため、彼女がどこから声を発したのか男には分からなかった。自分の真正面からに思えたし、真横からにも、真後ろからにも、真上からにも思えたし、あるいは、十メートル離れた教室のドアからにも思えた。
男は無意識に振り向いた。彼女が何かを言えば自分はそちらを見る、そうすることがもはや彼の体には染みついていたのだ。振り向くと、十メートル先にあの女と見知らぬ女子生徒がいた。その時、男はいくつかのことに気づいた。まず、その女子生徒を何度か見たことがあるということ。次に、どういう訳か自分が泣いているということ。最後に、いつの間にか辺りが失敗のにおいで、一秒ごとに体が少しずつ毟られていくようなあの感覚で、満たされていたということ。
「どうしてここにいるの?」と女は言った。
その目には、男が今まで見たことがないほどの感情が揺れ動いている。
「どうして?」と男は言ったが、それは彼女の言葉の繰り返したのではなく、自身の抱いた疑問が脳内でまとまらず、文という形をとることなしに断片的に口から漏れたのだ。
「図書館にいるって言ってたよね?」と女。
「どうして?」と男。
「ねえ、お願い。私の話を聞いて?」と女。
「その人は?なんであんなこと…」
頭の中の疑問が形をとり、ようやくまとまった質問が男の口から発せられた。それに対して彼女は小さくため息をつくと、失望したような様子で男を見た。そして、僅かな沈黙の後、彼女は彼の混乱の波が少し収まったのを見計らって口を開いた。
「この子は小学生の時からの幼馴染よ。知ってるでしょ?そして、私の恋人なの。あなたと付き合うずっと前から、五年くらい前からね。みんなには内緒にしてくれる?」
平常を取り戻して状況を理解しようとしていた男の脳に、彼女のその言葉は深く突き刺さった。女は早口だったにもかかわらず、彼はその一言一句全てを聞き取り、含意を理解することさえできた。
男は五感がぼやけていく感覚を抱きながら前を向き、ふらふらとした足取りで階段へ歩いていった。そして、ふと階段の手前で立ち止まると、何かを言った。あの女も何か言ったようだが、彼はそれを言葉ではなくて単なる空気の振動と感じるだけだった。
外は既に真っ暗だった。顔を上げると、月が浮かんでいるような気がしたが、涙で霞んだ彼の視界には街灯の光も滲んで見えて、どれが本物の月なのか分からなかった。
それから数週間、その女が男に話しかけてくるはなかったし、男は一度たりとも彼女の方を見ることさえしなかった。
しかし、ある日の放課後、彼女は男の席にやって来ると、間を少し置いて、いつものように注目を集めるということはせず、唐突に話し始めた。
「私ね、あなたと一緒にいる時間はとても幸せだったの。本当に。」
続けて女が何か言おうとするのを遮るように男は言った。
「うるさいな、声も聞きたくないんだよ。あんまりしつこいと他人に知られたくないこと、言いふらすぞ。教師やあんたの親にもな。」
彼は女がいる方の反対側を見ながらそう言ったため、傍からは見えない誰かと会話しているようだった。その独り言に対して彼女は何も返さなかったため男がそちらを見やると、彼女は目を逸らした。彼女の目にはあの日のような動揺や失望は浮かんでおらず、顔には例の微笑みを浮かべているだけだった。その様子を見ていると、男には今更ながら不安と悲哀が湧いてきた。何か言おうとしたが、女が視線を戻したため彼はもう一度目を逸らした。
「ごめんね、気持ち悪いよね、怒ってるよね、がっかりしてるよね。…大丈夫だから。」
女はそれきり黙ってしまった。男はそんな彼女の様子に居心地が悪くなり、通学バッグを持ってさっさと教室から出ると、バイトへ向かった。
その次の日、彼女は失踪した。
「熱っ」
不意に左手の指に強い熱を感じ、空想の手に持っていた記憶を反射的に放り投げる。それと同時に、現実の手に持っていたものも放り投げた。フィルターぎりぎりまで燃えたタバコが応天門の下へ転がる。男は一口吸ったきりその存在をすっかり忘れてしまっていていたようだ。門の外に左手を出して雨で指を冷やし、地面に落ちた吸い殻をポケットにしまって立ち上がった。脳裏には、最後に見たあの女の表情がこびりついている。何も読み取ることができないあの表情。虚無というほか形容のしようがない表情だった。
「何が大丈夫なんだよ。」
男は更に黒さを増す空を見上げ、ため息をついて舌打ちした。あの女のことを思い出すと、いつも腹が立つのだ。理由は分からない。ただ、よく分からない感情がもやもやと体の底から立ち上り、それが脳に到達する頃には怒りとして認識されるのであった。