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More Songs...  作者: alIsa


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八月某日

 八月某日

 大学の法学部館内は生暖かく、ひっそりと静まり返っていた。節電のためか、廊下は消灯されて薄暗い。既に夏休みになっていて構内には学生がほとんどおらず、セミの声と熱気がそこら中を満たしている。男は法学部の教務掛の前にいた。

「はい、確かに受け取りました。」と教務掛の、二メートル近い身長の男性が言った。

「どうも。ところで休学する学生は年にどれくらいいるんですか?」と男は尋ねた。

「さぁ?退学する学生よりは多いんじゃないんですか?」と大男が言った。

「ふうん、まあいいや。それで休学届に不備はありませんよね?」

「ええ、特に見当たりませんね。」

 大男はそう言うと、面倒そうに部屋の奥に引っ込んでいった。冷たい目をした愛想のない男性だった。男は鼻を鳴らして踵を返した。

「ねえ、先輩!」

 必死なセミの鳴き声で包まれた空気を、勢いがありつつもどこか弱々しい声が貫いた。彼が振り向くと、そこにはあの女学生がいた。

「えっと、この前はごめんね?あんなにショックを受けるなんて思ってなくて…」

 男がずっと黙っているのを見て、彼女はそう切り出した。

「別にいいですよ。何もかも、どうでも。」

「どうでもいいって…。それに先輩はさっき教務掛で何してたの?」男の様子を不穏に思ったのか、彼女はおずおずと尋ねた。

「休学の手続きをしていたんですよ。」

「休学?どうして?」

「大学に行く意味もお金も、もう無くなりましたから。」と男は素っ気なく返した。

「でも、私が…」

「あなたがお金を貸してくれるって?よしてください。お金が勿体ない。」

「大丈夫だよ!私の実家、まあまあ裕福なんだから。」

 彼女は明るい調子を繕い、ぎこちない様子でそう言った。

「ふうん。親が生きていておまけに金持ちときたか。羨ましいもんですね。」

 彼女の発言は男を気遣ってのものだったのだろうが、今の男には嫌みにしか聞こえなかった。

「いや、その、ごめんね?そんなつもりじゃなくて…。お金もさ、いつ返してもいいから、何年でも。返さなくてもいいよ!あ、そうだ!私の下宿に来る?ね、それで大学に通えばいいよ。新しいバイトも急いで探さなくていいしさ!」

 彼女はひどく混乱しているのか、目は泳ぎ、顔は真っ赤で、支離滅裂だった。

「はは、どうかしてるな。この際だからはっきり言ってあげますけど、あなた、依存癖があるみたいですよ。元彼もあなたのそういうところにうんざりしたんでしょうね。」男は嘲るように言い放った。

「そんな…、私は先輩のために言ってるんだよ?」彼女は泣き出しそうな声だ。

「その恩の押し売りが依存癖だって言ってるんですよ。そもそも、誰が金を貸してくれって頼みましたか?あんたは異常者ですよ。相手が自分に依存することに依存する、性格破綻者だ。」

 人のいない廊下に声が飛び回る。男は跳ね返って耳に届いた声を自分の声とは思えなかった。

「なんで…、そんなこと言うの?どうしてこうなっちゃったの?」女学生が言う。

「どうしてだって?全部あなたのせいですよ。あなたが正直に話せなんて言ったから、僕は正直に話すことにした。その結果がこのザマですよ。」

「…そっか、ごめんね。」

 彼女は懐かしい微笑みを見せた。

「その微笑みを止めてくれないか?気が狂いそうだ。」

 男は顔をしかめながらそう吐き捨て、彼女に背を向けて歩き出した。

「ごめんね。…大丈夫だから。」

 背後からそう聞こえた気がしたが、きっと幻聴だった。



 冷泉通りは雨に強く打ち付けられ、黒く膨らんでいた。男は応天門で雨宿りをしていた。

ワイシャツが汗と雨で肌に張り付いて不快で、男は心底うんざりしていたが、その表情は縫い付けられているかのように微動だにしない。彼は自分がまた悪夢の中にいることを理解していた。悪夢に飲み込まれてしまった以上、目が覚めるまで待つしかないのだ。門の柱にもたれて身構えるや否や、それは始まった。

 視界の右側から傘をさした三人組が歩いてきた。顔はよく見えないが、三人は家族のようだ。雨が地面を叩く音に紛れて、何やらボツボツと話し声が聞こえる。快活さや活発さは無いものの、そこには家族特有の親密さが確かにあった。

 彼らが男の前を通り過ぎた時、手前側にいた人間が立ち止まったかと思うと、うずくまった。そして、傘を手放して両手で苦しそうに胸を押さえた。母親であろうその人物は口に手を当てて激しく咳をすると、次の瞬間、口から大量の血を吐き出した。黒く染まった冷泉通りには、赤黒いその液体はあまり目立たない。父親と息子と思われる残りの二人は彼女に目もくれずに歩き続けている。母親はそのまま咳と吐血を繰り返して自らの血溜まりの中へバタリと倒れ込んだ。その少し後、父親と思われる男性が立ち止まった。彼は血溜まりに沈んだその女性を呆然と見て傘を放り投げた。そして、何かを呟いたかと思うと、彼の腹部は風船のように膨らみ、それから体のあちこちが次々と膨れ上がった。十秒も経たないうちに、顔は赤褐色のポンカンのようになっている。一瞬間、彼の体は破裂してあちこちに飛び散った。子供は彼の数歩先で立ち止まっている。

「ねえ、まだ雨宿りなんかしてるの?」

 あの女の声がした。男は子供に顔を向けたままで彼女の方を見ようともしない。

「私はもう行くよ?とっくに雨は止んでるんだもの。」小さく笑いながら彼女は言った。

 君の目には、世界はどう映っているんだ?男はそう尋ねたかった。しかし、その問いも彼女の答えも今の自分には何の意味もないと分かっていた。

「あなたには死ぬまで分からないよ。私のことなんて。」

 女は小馬鹿にするようにそう言うと、応天門の下から出て冷泉通りへ走っていった。彼女の先には通りに佇む少年がいる。彼はすぐそばまで近づいた女に気づくこともなく、ただ無表情に両親の亡骸を眺めているのだった。



 男は目を覚ました。ビールを飲み過ぎたせいで頭が痛い。テーブルの上にはビールの空き缶が五個置いてあり、そのうちの一つが倒れていた。倒れた缶から飲み残したビールが流れ、床に小さな水溜まりを作っている。ひどい頭痛をもたげながらカーテンを開くと、熱のない日の光が差し込んできた。男は窓を開けて目の前にそびえる比叡山を見つめる。山は、無関心そうにぼんやり男の方を見て愛想笑いを作っていて、絵の具で塗ったかのようなのっぺりとした色の木々が、風に吹かれて男を嘲笑うように葉を鳴らしている。顔を上げると、作り物と思えるほど青く、雲一つないはりぼての空が広がっていた。空は、まるで義務だからといわんばかりに、やる気のない生温い陽光を男にも分け与えている。

 男は耳を塞ぐことさえしなかった。絶望することさえできなかった。もはや僕は逃れることなどできないのだろうか。僕を侮蔑する声、嘲笑する声、嫌悪する声に付きまとわれ続けるのだろうか。彼はもう自分に嘘をついて苦しみたくなかった。しかし、本音に向き合う勇気もなかった。生きる体力は無かったが、死ぬ気力も無かった。そうであるならば、と彼の胸にはおのずから一つの選択肢が残った。

 男はカーテンを閉めて振り返り、目の前の黒い靄に向かって微笑みかける。それが今どのような感情を抱いているのか、読み取ることができなかったが、彼にとってはもうどうでもいいことだった。


 窓の向こう側は人々の生活音や自然の音で賑やかだ。山と木々と空とその他あらゆる生命による、男がいなくなった世界に対する賛歌だろうか?世界でただこの部屋だけが、生ける屍が蠢くこの部屋だけが、現世から忘れ去られた墓場のように静かだった。


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