七月二十二日(金) ー 八月五日(金)
七月二十二日(金)
カーテンにより日光が遮られて薄暗い部屋の中で、男は目を覚ました。体が重かった。しかし、何かがのしかかっているとか、体に何かが詰められたとか、そのような重さではない。綿を抜かれた人形のように異様なほど体の中が空っぽに感じ、全身に妙な浮遊感がある。それ故、体が重いのだ。
シーツから汗の臭いがしてぼんやりとした頭を刺激する。脱水症状かもしれないな。男はそう思いながら立ち上がった、キッチンに向かい、蛇口から水を流しっぱなしにしたままで、何度も両手に水を貯めては何度もすすった。水が流しに跳ね返って男の顔を返り血のように濡らす。一分ほどそれを繰り返すと、男は壁にもたれかかりながらずるずると床に座った。そして、近くに落ちていたタバコの箱から一本取りだして火をつけた。その視界の端で何かがもぞもぞと動く。見ると、そこには親指の先から第一関節までの大きさのクモが張り付いていた。男は特に躊躇いもなく、手の甲でクモを叩き潰した。体毛のざわざわとした感触と仄冷たい体液の感覚が、一瞬だけ同時にやってくる。しばらくの間、その感覚は彼の手に残っていた。
タバコを半分ほど吸ってようやく体がいつもの重みを帯びてきたことを確認すると、男はタバコを流しへと弾いた。タバコは不格好なミサイルのように弧を描き、コツン、という音を立ててシンクに着弾する。そこから立ち上る煙を彼はしばらく眺めていた。ゆらゆらとあてもなく上る白い煙は、すぐに天井に吸い込まれ、そして、すでに次の煙がやってきている。それを飽きることもなく、目で追い続けていたのだった。
タバコの煙が消えたのを見届けると、男は立ち上がった。確かに体の重さはいつも通りだったが、なぜかまだ違和感があった。何かが足りないんだ。いや、そもそも初めからそんなものなかったんじゃないか?何となくあると僕が思い込んでいただけで――。気怠さに耐えきれず、彼は再びベッドに寝転んだ。うとうとと再び眠りに落ちかけていた目に四個の空き缶とテーブルの上の時計が映った。時計はその時ちょうど七時を表示し、単調なアラーム音を部屋に鳴り響かせる。しかし彼は、構うもんか、と思いながら眠りに落ちていった。
七月二十七日(水)
男はいつものアラーム音で目を覚ました。数日前から大学は試験期間になっていて、今日は男が受講していた科目の試験日だったため、大学に行かなければならなかった。
ここ一週間、完全に部屋を閉め切っていたせいで、部屋はタバコとアルコールの臭いのむせかえるような空気が充満している。せめてカーテンだけでも開けて日光を取り込もうか、と思ったが、すぐに億劫になって止めた。
朝食後にシャワーを浴びている時、男は右足に違和感を覚えた。浴槽の縁に足を乗せて足裏を見ると、ガラス片が突き刺さっていた。一週間ほど前に割ったグラスの破片を放置していたため、いつの間にか踏んでしまったのだろう、と思いながら、男はガラスを引っこ抜いた。足を軽く洗い流した後にバスルームを出て、大学に行く準備をした。
八月四日(木)
今日で試験最終日だった。男は最後の科目の試験を手早く解答すると、終了時間の三十分ほど前に講義室を出た。試験中は気がつかなかったが、外は大雨が降っていた。朝は快晴だったため傘を持参していなかったのだが、男は大して気にする様子もなく、柱廊を出て校門に向かって歩いていった。
少し前に自転車に轢かれた場所を歩いていると、男は気づいたら雨に濡れたアスファルトに手をついていた。しばらく状況が把握できないでいたが、ゆっくりと立ち上がっている時に横を自転車が通り抜けるのを見て、自分がまた自転車に轢かれたということを察した。顔が隠れるように傘をさした学生は、たまにバランスを崩して地面に足をついていたため、まだ男から数メートルの所にいる。男は自転車に近づくと、荷台を掴み、スポークの間に足を突っ込んだ。
「え?あの、何ですか。」と困惑気味に学生は言った。
「何って。人を轢いといてそれは酷いと思いますけど。」
「あ、それはすいません。」
学生はそう言ってペダルに力を込めた。逃げるつもりなのだ。
「それだけ?雨の中、自転車に乗ったまま傘をさして人を轢くなんて、大したやつだ。警察に通報してもいいんですよ?」
「え?いやそれはちょっと…」
「まあ、わざわざ通報するのも面倒ですから、見逃してあげますよ。でも病院には行くので、治療費を払ってもらえますか?」
そもそも男は警察に通報する気は毫もなかった。というのも携帯をアパートに置き忘れていたからだ。
「いいですけど、いくら?」
「さあ?知りませんよ、そんなこと。とりあえず財布にあるだけでいいですよ。」
「え!さすがにそれは…」
「警察に通報されるのとここで財布の中身を寄こすのは、どっちが安上がりでしょうね?」
「…分かりました。」
学生は籠に入れてあるトートバッグから財布を取り、そこから四万円を引っ張り出した。
「どうも。もう行っていいですよ。これからは気をつけるように。」
男が札を数えながらそう言うと、学生は憎らしげな顔で男を睨み付けた。彼は何か言いたげだったが、舌打ちだけして去っていく。男はそれを見送りながら、リュックサックの底に四枚の一万円札を押し込んだ。病院に行く気も全くなかったのである。
八月五日(金)
部屋の中央には小さめの段ボールが一つ置かれていて、その中にはそれまで本棚にあった教科書や判例集や小型六法が収まっていた。古本の買取業者がこの段ボールを引き取りに来るまであと五分ほどしかない。そのためそろそろ段ボールに封をしなければならなかったのだが、男は少し逡巡しているかのような難しい顔をしていた。その目は本棚に残った数冊の書籍に向いている。公務員試験の問題集が寂しくなった本棚に残っていた。心に僅かにへばりついていた希望や野心といったようなものが、それを手放すことを阻止していたのである。葛藤のうちのどちらに味方するか男が思いあぐねていると、チャイムの無機質な音が冷徹に部屋に響いた。
段ボールが一つ無くなっただけにもかかわらず、部屋はひどく空っぽになったように感じられた。本棚には何も、黄ばんだ紙袋の他には、何も無い。男はベッドに横になり、天井を見上げていた。僕は一体何をすればいいんだ?期末試験は終わり、バイトもクビになって、公務員になることも諦めた。他に何かすることはあったか?彼は想像以上に暇になったことに驚き、どうにかして自らに予定を与えようと苦心していた。しかし、今の彼に与えられたのは、突如として襲いかかってきた喪失感とそれによる倦怠感だけだった。
部屋はすっかり暗くなっている。男は相変わらずベッドに寝転び、何かやることがないかを考えていた。しかしながら、待てど暮らせど、やりたいこともやらなければならないことも全く思い浮かばなかった。一体、僕は何をすればいいんだ?一体、僕には何が残ったんだ?
やがて脳は空転を始め、男はもう何も分からなくなった。




