七月十八日(月)④
「あのさ、私ね、少し前まで彼氏がいたの。」女学生は出し抜けに話し始める。
男は少し困った表情で彼女の顔を一瞥したものの、黙って続きを待った。彼女の昔の恋人に少し興味があったのだ。彼女は続けて、
「でも、別れちゃったんだ。自然消滅ってやつ?彼は九州の方に行っちゃったから。」と言った。
「まぁ、よくある話だと思いますよ、多分。」男はできるだけ興味なさげに答えた。
「ふうん、そうなんだ。」
「ええ、遠距離で続く場合もあると思いますけど、まぁ、大体結果は似たようなもんですよ。」
彼女はバッと体ごと男を向き、
「先輩が高校の時、付き合ってた人もそうだったの?」
「はい?」男は虚を突かれ、間抜けな声がでた。
そして、彼女の意図をすぐに理解し、空を仰いだ。ははあ、してやられた。最初からそのつもりだったんだ。敵わないな。彼はクツクツと笑う。相変わらず空は雲に覆われているが、底冷えのような寒気はなくなっていた。
「僕も自然消滅ですよ。まぁ、消えたのはあの女の方ですがね。」
男は続けてそう言い、とうとう、ハッハッハ、と声を上げて笑った。おかしくもなかったが、笑い飛ばしてやりたかったのだ。お前のことなんか何とも思ってないぞ、と。
しかし、笑い声は空しく響いた。男はきまりが悪くなり、女学生を見ると、彼女はジッと男の方を見つめていた。おそらく、もうどんな嘘も見逃さないという姿勢なのだろう。頼もしい限りだ。そう思いながらベンチにもたれ直し、それから、しばらく逡巡する。どうしたものかな。あの女のことなんて、僕らの間にはいよいよ関係ないじゃないか。でも、この子が聞きたがっているんだから、話してやればいいさ。何を怖がってるんだ、僕は。どこにいるかも知れない奴のことなんて。それに、この子は僕に金がないことも両親が死んだことも、受け入れてくれたじゃないか。
男は口を開いた。
「…冗談ってわけではないんですよ。いろいろあって失踪したんです、その人。それ以来一度も会ってませんから、事実上別れたってことになりますね。」
「いろいろって?」
「いろいろですよ。」
「お願い、教えて?」
「…」
まだ僕はためらっている。誰も幸せにならない気がするんだ。僕も、この子も、あいつも。そもそも、どうしてこの子はこんなに気になってるんだ?いや、とにかく気になってるんだ。
「…確か、僕があの女にとって浮気相手だったって話は以前にしましたよね?ある日、彼女が本命の恋人と一緒にいるところを見てしまったんですよ。…そこで初めて知ったんです。あいつが同性愛者で、僕とはカモフラージュで付き合っていたってことに。」
男がそう言っても、彼女は黙ったままだった。続きを促すための沈黙ではなく、自身の思考に意識を向けるための沈黙。男は一息入れると、続きを話した。
「とてもショックでしたよ。今すぐにでも忘れてしまいたいくらいにね。その時、僕はひどく取り乱してしまって、彼女に暴言を吐いたんです。それからも彼女を無視し続けました。失踪する前日に、彼女が話しかけてきたんですけど、その時も心ないことを言いました。…あくまで一般論的な推測に基づけば、知られたくないことが僕にばれた上、いろいろひどいことを言われたのが応えて失踪したのかもしれませんね。」
言葉はすぐに地面に溶けきり、辺りは再び静寂に飲み込まれる。静寂とは、殴っても元に戻る水のように、柔らかいものだと思っていたが、今の静寂はとても硬質で冷たいものに感じられた。男はただ彼女の返答が怖かった。
「何となく、分かった気がする。」女学生がかみしめるように言った。
「何が?」
男は不安げに女学生を見る。
「初めて会った時からずっと、先輩から、何て言えばいいんだろ、その…、女の人の匂いって言うのかな?うまく表現できないけど、私以外の女の人の気配がしてたの。」
「匂い?気配?」
「うん。今は恋人なんていないって言ってたから、どうしてだろうってずっと疑問だったの。でも、やっと分かった。先輩の心の中には今でもその人がいるんだって。ひどいこと言ってしまったことを今でも後悔してるんだよね。」
彼女は包み込むような優しい眼差しを男に向けた。
男は思わず顔をしかめる。
「…驚いたな。何がどうなったらそういう解釈になるんですかね。僕があの女のことを憎みこそすれ、後悔するなんてあり得ませんよ。」
「先輩がさっきそう言ってたじゃん。自分のせいで失踪したって。」
「一般論的な推測だって言いましたよね?僕個人としては別に自分のせいだなんて思ってませんよ。」
彼はそこで一度区切り、女学生が何かを言う前にすぐさま続ける。
「全部あの女の自業自得です、あいつが狡猾で愚かで強欲だったから破滅したんですよ、僕なら許してくれるだろうなんて思ってたんでしょうね、都合のいい存在でも受け入れてくれるだろうって、でもご愁傷様、嘘つきの裏切り者が、ざまあ見ろ!」
息をつくことなく、早口で虚空に向かってそう吐き捨てたのだった。
腹の底からモヤモヤとした感情が湧き上がってきて、男の眼前は真っ赤になっていく。無力感が重力のように体を締め付け、彼は途方に暮れてベンチにもたれかかった。
「ねえ、先輩。」
女学生はそう言ったが、その後には何も続かなかった。男が彼女の方を見て、目が合う。すると、彼女は諭すような口調で話し始めた。
「その人に向き合わないと駄目だよ。自分の感情を受け入れてその人と向き合わないと、先輩の中にはいつまでもその人が居座り続けることになると思うの。私ね、嫌なの。この先先輩と話すたびに、先輩は私とその人のことを心の中で比較してるんだろうなって思いながら接していくのなんて。もしかして、今も私を通してその人のことを見てるんじゃないの?ねぇ、嫌だよ。私だってこんなこと考えたくない。だからさ、向き合おう?」
切実な表情だった。瞳がグラリと揺らめいて光る。なるほど、だからあいつのことをあんなに聞きたがってたのか。男は呆れたように笑って言う。
「とっくの昔に向き合いましたよ、その結果が今の僕なんです。」
「先輩は今でもその人のことが嫌い?その人が自分を騙したことを恨んでるの?」
「ええ、当然。どれだけ恨んでも恨みきれませんよ。」
「その人の本命のことは恨んでないの?」
「…まあ特徴のない人でしたからね。恨もうにも顔もしっかり思い出せません。」
「先輩は、その恋人さんはもう死んでると思う?」
「…」
彼女が何を言いたいのか、男にはまるで理解できなかった。精神検査でも受けているような感覚だった。男は口を開く。
「あいつが生きていようと死んでいようと、僕らには関係ないですよ。それよりもっと有意義なことについて話しませんか?そうだな、期末試験の話とか。あなたは一回生ですよね?なら法学入門と政治学入門か。五年分の過去問がありますから、明日にでも――」
「もしかしてだけど、先輩はその人のこと、今でも好きなんじゃないの?」
彼女は男の言うことをまるで無視してそう言った。会話は全くかみ合っていないが、彼女の顔は真剣だ。
この人は何を言ってるんだ?男はひとしきり彼女の言葉を咀嚼したが、困ったかのように眉間に皺を寄せてぎこちない笑みを浮かべ、失笑したかのように鼻から息を漏らすことしかできなかった。今にも笑い出しそうな表情で、今にも泣き出しそうな表情。
「…は?僕がまだ愛してるって?どうして?」
その問いに対して彼女はただ目を逸らして口をつぐむだけだった。男の言葉はあっという間に夏の強い日差しに焦がされて塵となる。彼らはそれからしばらく黙ったままだった。周囲の音がひどく遠くに聞こえた。
「訳が分からない。なんでそんなことを言うんだ?僕があの子のことをまだ愛している?そんな馬鹿げたこと、一体どんな脳みそをしていたら言えるんだ?」
男は彼女を睨むように見た。しかし、彼女から何の返答もないことに耐えかねたのか、視線を自分の足下へ落とす。そして、続けた。
「あの子のことを愛しているなんて…。もし仮に、万が一、億が一、そうだったとすれば、何のために僕は今まであの子のことを何年も憎んで、恨んで、罵って…。何のために普通に幸せになろうと、必死で生きようとしていたんだ?どうして僕はあの子が失踪した時、すぐに探してやらなかったんだ?あの子の気持ちをもっと深く考えようとしなかったんだ?僕だけだったのに。その可能性に思い至れたかもしれないのは、僕だけだったんだ。いや、心のどこかでは、彼女がいなくなってしまうかもしれないって、薄々感じ取っていたんだ。でも、どうすればいいのか、分からなくて、まさか本当にそんなこと、あるわけないって、僕の杞憂だろうって…、あの子がいなくなったって知った時、僕は本当に気が狂いそうで――」
覇気がなく、どこにも届きそうにない声。もし仮に届いていたとしても、それはもはや彼女に対する質問ではなかった。当然ながら、彼女から答えはおろか、推測あるいは希望的観測が帰ってくることはなかった。男は視線を落としたままぽつりと呟く。
「だから、僕があの子のことまだ愛しているなんて、そんなことあってはいけないし、僕にその資格はないんだ。」
それから何分ほど経っただろうか、男の隣に座っていた女学生がガサゴソと動き出した。そして、音を立てないようにゆっくり立ち上がった。男の視界に彼女の影がゆらゆらと蠢きながら現れる。
「…それじゃあ先輩、あの、私、友達と会う約束があるから、もう行くね?」
男は何も言わなかった。彼女の影は視界でしばらくためらうようなそぶりを見せたが、次第にフェードアウトしていった。
あの女学生が去ってからどれほど経っただろうか。男は体を起こして腕時計を見た。十四時近く。一時間ほど経ってしまったようだ。Tシャツはいつの間にか汗で雑巾のように濡れていた。男はよろよろと立ち上がると、帰宅するために正門へ向かっていく。
「私ね、あなたと一緒にいる時間はとても幸せだったの。本当に。」
畜生。イヤホンを耳に突っ込み、音楽プレイヤーの音量を最大まで上げる。彼は脱水症状のせいで頭がぼんやりとしていて、あの女の微笑みや瞳が脳裏にはっきりと浮かんでは浮かぶ。汗が目に入ってしまったのか、視界が何度も滲んで鬱陶しかった。
アパートの一室に着くと、男はグラスに水を注いで立て続けに三杯飲んだ。聞こえてくるのは蛇口から勢いよく流れる水がシンクを叩く音だけだ。彼は落下していく水を眺めながら、取っ散らかった頭の中を整理する。
最悪な一日だった。あの子となら上手くやっていけそうだったのに。幸せが欠片ほどでも見えた気がしたのに。僕はどこで誤った選択をしてしまったんだ?プライドと心中しようなんて考えた時か?彼女をむやみに信用してしまった時か?自らの下心に気づいてしまった時か?それとも、初めて会った時から?あの子を見た瞬間、あの女のことを少しでも連想した時から?
男は自分が失敗してしまったということを直感的に理解していた。しかし、あの女学生に嫌われてしまったかもしれないという事実よりも、彼女が最後に言ったことの方が男にショックを残していた。どれだけ目を逸らして他のことを考えても、いつの間にか思考の焦点はその言葉に合わせられているのだ。
「僕が未だにあの女のことを愛している、だって…?」
水を注ぎ続けたグラスから水が溢れるように、脳内で肥大化したその言葉は、耐えきれずに口からこぼれた。馬鹿らしいとか、あり得ないとか、どうにか否定の言葉を捻り出そうとする。
「あなただけ幸せになるなんて許さないって言ったでしょ?」
男が言葉を発そうとして、喉に餅を詰まらせた老人のようにもがいていると、不意にあの女の声が聞こえた。男の顔はより悲痛なものになり、シンクをつかむ手にも一層力が籠もる。
「結局、あなたは受け入れてもらえない。だってそうでしょ?自分に愛情を向けてくれない人を愛する人なんかいない。そして後にも先にも、あなたが愛しているのは――」
「…うるさい。」
ようやく掠れた声を絞り出した。水を飲んだばかりにもかかわらず、男の喉はカラカラになっている。
「あなたが愛しているのは私だけなの。そう約束したよね?あなたは必死に私のことを憎んで、自分の過ちから逃げて、私がいない世界で生きようとしていたみたいだけど、もう全部無駄だよ。だって、あなたは私のことを愛しているんだから。私のいない世界であなたは幸せになんかなれない、永遠に。」
「うるさいって言ってるだろ!」
男は手に持っていたグラスを声の聞こえる方へ投げつけた。グラスは窓の枠に当たって鈍い音を鳴らしたと思うと、バラバラに砕け散る。怒鳴り声とグラスの割れる音は、あっという間に静寂に埋まり、そのままアパートの壁に吸い込まれていった。
「そんなひどいことしていいの?愛する人に。」冗談みたいな、大仰な、甘ったるい声。男が一度も聞いたことない声色。「ねえ、とっておきの奥の手があるよ。包丁を心臓に突き立てるの。そうすればもう何も考えなくていい。そうすれば、もう、何も、考えなくていい。あなたの人生のことも、私のことも。きっとそれって幸せよ」
それっきり声は聞こえなくなった。男はよろよろとベッドに向かうと、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。




