七月十八日(月)③
「先輩の分も買ってきてあげようか?」
タコスを食べ終わって口をポケットティッシュで拭くと、女学生はそう言った。
「いえ、いいですよ。そんな、お構いなく。」
「いいって、遠慮しないで。この前、相談に乗ってくれたお礼だと思って。」
「ホントに、大丈夫ですから。正直、人におごられるのって、苦手なんですよね。」
「どうして?」
「そうだなぁ。意地、ですかね?」
男は自分でそう言って、吹き出してしまった。思いのほか的を射る言葉が出てきたことに驚いたのだ。また、それこそが自分の人生を難しくしている原因の一つとして、しっくりきたのだ。彼女もつられて笑いながら、
「なにそれ、変なの。別に損するわけでもないんだから、素直に受け取ればいいのに。それで私も満足するんだし。」
「贈り物だって、される方よりする方が幸せになってるみたいな話もありますね。」
「そうそう。じゃ、行ってくるね。」
彼女は腰を上げる。男は慌てて引きとめた。
「ちょっと待って!おごられてやるなんて、一言も言ってませんよ。」
「もう、なんでそんなに意固地なの?私の気持ちぐらい受け取ってよ。受け取るだけなんだから、何かを代わりによこせって言ってるわけじゃないんだから。」彼女は浮かせた腰を下ろしながら、不満そうに言った。
「いや、僕のプライドは損なわれますよ。」
男は試しに言ってみただけだったのだ。先の意地という言葉があまりにもしっくりと来たため、次に浮かんできたプライドという言葉も言ってみただけなのだ。しかし、失敗だった。その言葉は、崖から転げ落ちる小石のように、どこにも引っかからない。クソ、調子に乗ると、気が緩むとすぐこれだ。彼がそう思いながら横を見ると、女学生も納得いかない様子で座っている。
「なにそれ。女性におごられるのは、プライドが許さないってこと?」
「どうなんでしょう?」
本音の疑問だった。言われてみれば、女性におごってもらうのを恥じらう、あるいは嫌う、矮小な自尊心が自身の中にあるような気もしたのである。
しかし、彼女はそれを遠回しな意地の悪い肯定と受け取ったのだろう、男から目をそらし、口をとがらせて、
「…貧乏なくせに。」と呟いた。
男はギョッとした。彼女に自身の懐事情について話したことは一度もないはずだが、と。また、それと同時に、プライドという言葉が心の底で引っかかるのを感じた。ふと吹き出しそうになる。なるほど、プライドか。確かに、僕はたとえ冗談でも金がないなんて彼女に言ったことがない。格好をつけていたんだ。なんて惨めな下心。その下心さえ、彼女は見抜いているのか?だとしたら、嫌だな。男は彼女が目をそらしているのをいいことに、ニヤニヤと笑いながら尋ねた。
「驚いたな。話しましたっけ?大した洞察力だ。将来は検察官ですねえ。」声は震えている。
彼女はため息をつき、目を男に向けた。そして、そのニヤつきを見て、呆れた笑いを漏らした。からかわれていると思ったのだろう。
「分かるよ、それくらい。着てる服はヨレヨレで色もあせてるし、靴は底が剥がれかけてるし。大学生ならもっと服に気を遣うべきなのに。それに、構内で見かけるときはいつもくたびれた顔してるし。」
「それだけ?その、話す内容とかしぐさとか、そういうのに変なところはありませんでしたか?」男は半笑いで恐る恐る言った。
「何それ、変なの。」
女学生は声を上げて屈託なさげに笑った。
男は赤面すると同時にホッと胸をなで下ろした。早合点のせいで彼女を諦めかけたことへの羞恥と彼女は自分の卑しい下心には気づいていないという確信から来る安堵だった。
「でも、服を買うお金もないの?」女学生は首をかしげて男を見ていた。
「そういうわけでもないんですけどね。服だの靴だのに金をつかうぐらいなら、毎日の夕飯を豪華にしたいだけですよ。」
嘘だ。男はつい嘘をついてしまった。本当は服なんかを買う金などないし、夕食だって最近は三日に一度しか食べていない。あの虚栄心が出てきて、嘘をつかせたのだった。その存在に気づいている以上、もはや共犯である。男は苦い顔をそらした。
しかし、彼女はその様子に気づくことなく、
「ふうん。どっちかを選ばなきゃいけないなんてことでもないと思うけど。」と真剣に言った。
「そうかもしれませんね。」男は罪悪感と自己嫌悪のせいで、煮え切らない返事をした。
「あ!またはぐらかそうとしてるでしょ。」
男は失笑した。違う、そこじゃないんだ。どうして肝心な嘘を見過ごすんだ。
「はは、さすがですね。実は、少し前にバイトをクビになったんです。だから、可能な限り出費を抑えたいんですよ。」
また嘘だ。男は泣きたくなってきた。僕はくだらないプライドのために、こんな巧妙な嘘までついてしまった。頼むから気づいてくれ。いや、気づかないでくれ。
「…そっか、ごめん。」彼女は素直に謝った。
「いえ、そんな」男は奥歯をかみしめる。そうしなければ、悪いのは僕の方だ、とうっかり言ってしまいそうだったのだ。「新しいバイトを見つけられない僕の方に問題があるだけですよ。」
女学生は黙って前を向き、考え込むように地面を見つめている。男もどうしようもなくなり、情けない顔を地面に見せた。
セミの鳴き声が穏やかになっていた。学部館の向こうに見えていた雲は、腹まで身を乗り出している。汗が舐めるように首筋を伝うたびに、男は手でこするように首を拭いた。
全て、白状してしまいたい。何もかも。でも、すごく怖い。僕の嘘に、下品なプライドに、この子はどう思うだろう。もういっそ、気づいてもらうまで、待っていようか?それとなく匂わせることを言って、察してもらおう。いや、だめだ。あまりにも卑怯すぎる。僕の口から全部言ってしまった方が、まだマシだ。それで口を利いてもらえなくなっても、まだ後腐れがない。笑ってくれたら儲けものだと思おう。それから――
「実は」男は慌てて切り出した。視界の隅で彼女が顔を上げるのを捉えたのだ。「実はさ、嘘をついていたんです。すみません。約束したのに。」
「嘘って?」女学生は優しい口調だった。
男が恐る恐る見ると、彼女は特に驚いた様子もない。
「そうです、嘘。僕、ホントは服や靴を買う余裕なんて全くありませんし、豪華な夕食なんてここ一年は見たこともないんです。それに、バイトが無いから可能な限り金をつかいたくないなんてのも、嘘です。学費だの家賃だの生活費だの、そんなものもままならないくらい、可能な金なんてものは一円もないんです。あなたに見栄を張ってたんです。いい格好をしようと思って。」
男はベンチに背を預けた。言ってしまった。言うべきじゃなかったのでは?もう遅いか。折れた枝はくっつかない。ええいままよ、だ。そう思いながら目を閉じた。
沈黙が数十秒は続いた。男もさすがに不安になり、目を開いて彼女を見ると、驚きで言葉も出ない様子だ。
「はは、絶句ですね。驚きましたよね。まさかこれほど嘘をついていたとは!巧みな嘘。まさに詐欺師だ。犯罪じゃない分、詐欺師よりもっと質が悪い。」
男は笑いながらおどけた。憎まれ口を叩いて彼女に嫌われるためなのか、彼女を笑わせるための冗談なのか、それは彼自身にも分からなかった。半々といったところだろう。
しかし、彼女はその憎まれ口だか、冗談だかをまるで無視して、
「何で先輩は自分で学費を払ってるの?普通、親が払うものなんじゃないの?」とようやく言葉を絞り出して言った。
「まあ、そういう家庭の方針ということで…」
男の言葉は途中で途切れた。また嘘をつきかけていることに気づいたのだ。彼女に視線を戻すと、訝しげに男を見ている。困ったな。でも、ままよ、だ。別に大したことじゃないんだ。でも、余計な同情を買おうとしてると思われないか?彼は思考の雑音と先の言葉をかき消すようにため息をつき、再び口を開く。
「…両親は他界しました。母は二年前の夏で、父は同年の冬です。」
「…そうだったんだ。ごめんね、その、さっきから変なことばっか訊いちゃって。」
彼女からの同情に男は堪らず目を逸らしてベンチにもたれ直した。迂闊だった。やはり余計な同情をさせてしまった。どうして僕はこう両極端なんだ。はぐらかすべきことと本音で話すべきこと、まるで区別がついてない。そもそも、僕とこの子の仲に、どうして死んだ人間が関係あるんだ?
夏にもかかわらず、体の芯から震えが襲ってきた。入道雲はすっかり体を出し切って太陽の光さえ阻み、二人を覆い隠さんばかりだ。まさにお通夜のような沈黙が彼らに降りかかっている。一体誰が死んだっていうんだ?男はぼんやりと思った。
「ねぇ、あのさ」女学生がポツポツと話し始めた。「提案なんだけど、よかったら私が貸してあげようか?お金。」
男は信じられない様子で、彼女を見た。
「何言ってるんですか!そんなの――」
「いいじゃん!貸すだけなんだからさ、ヒモになるってわけでもないし。それに変なところからお金を借りるより、知ってる仲の私から借りた方がいいよ、絶対。」彼女は男を遮るように早口で言った。
「でも、そんなことしたら、今までみたいに対等な関係は――」
「別に今すぐ貸すってわけじゃないから!もし十月が終わるまでに授業料が準備できそうにないなら、そのときはってことだから!ね?これならいいでしょ?休学したり変なとこからお金借りたりするよりは、マシでしょ?」彼女はまた男を遮ってまくしたてた。
男としては、受け入れられるはずなかった。彼女から金など借りたくないのだ。だが、彼女の目が燃えたぎる熱意のような、濁流のような、底の見えないもので満たされていたせいで、気圧されて黙ってしまった。彼は心の内で決意を固めることしかできなかった。絶対自分だけでどうにかしなければ、こんな優しい人にすがっていたら、駄目になってしまう、と。
「分かった?」女学生は先ほどの妙に必死な熱が嘘かのように、穏やかに言った。
「ええ、分かりましたよ。心の隅に留めておきます。まぁ、三ヶ月もあればどうにでもなりますから、ご心配には及びませんよ。」
男は本心でそう言ったが、どこか手応えを感じられず、その言葉はあっという間に夏の熱に溶かされていった。彼女は満足そうな笑みの痕を残したまま、男を見ているのだった。




