七月十八日(月)②
「寝ちゃったの?」
あの女の声がした。
「いいや、目を閉じてただけだよ。」
男はそう言うと、目を開いて彼女を見た。彼らはチェーン店のドーナツ屋にいた。日曜日だったので、ほとんどの席がカップルや家族連れで埋まり、各々が楽しそうに日常を送っている。
「本当?」
彼女は不安そうに男へ視線を向けた。確かに彼女の言う通り、男は疲れで少しうとうとしていた。来年の受験勉強やその後の大学生活を見越して、彼は今のうちにバイトの時間を増やしていたのだ。彼女とデートに行く機会も月に二回程度まで減ってしまっていた。
「…私と一緒にいるのって、退屈?」女は弱々しく言った。
「そんな訳ないじゃないか!君と過ごす時間ほど幸せなものはないよ。」
彼女の言ったことに驚き、男は前のめりになった。
「私とのデートが退屈だったから、うとうとしてたんじゃないの?」
女は伏し目がちで髪の毛を弄る。最近の彼女はこのような言動をよくとるので、男は申し訳ない気持ちで一杯だった。それと同時に、その姿が一々愛おしく、彼女を抱きしめたり、頭を撫でたり、キスをしたりしたくなって堪らなくなった。しかし、男が触れようとするといつも、彼女は目には見えない抵抗の色を示したため実際に行動に移すことはなかった。それどころか、彼女の手すら握ったことがないのだ。
「分かったよ。うとうとしてたことは認める。でもいつも言ってるけど、バイトのシフトを増やしたから、少し疲れてるだけだよ。」
「ホント?実は隠れて他の女の子に会ってるんじゃないの?」
女は、指で髪の毛先をくるくると回しながら、男をその透き通った瞳で覗き込んだ。男は思わず目をつむって押し黙った。彼女のいじらしい姿に、あまりにも心が強く揺さぶられ、耐えきれなくなったのである。
「そんなこと、ありえないよ。君のことを愛しているのに。それに、僕が不器用な人間だってことは知ってるだろ?」
男は目を開き、そう言った。彼女はドーナツをちぎって口に入れると、紙ナプキンで指を拭いた。
「…私のこと、ずっと愛してくれる?」女が言った。
「もちろん。」男が言った。
「一生?」
「当然。」
男がほとんど間を置かずにそう答えたことに、彼女は少しだけ面食らったのか、綺麗な瞳が少しだけ震える。しかし次の瞬間には、すでにその揺れは静められている。
「約束してくれる?」
「いいよ。それじゃあ、このドーナツたちが立会人だ。」と再び間髪入れずに男は返した。
「もし約束を破ったら?」
「ドーナツを千個、口に詰めてくれたっていいさ。」
男は小指を立てた右手を彼女の方に差し出した。しかし、彼女はその小指を無視し、口を開く。
「それだけじゃ、全然足りない。針千本飲ませても、全然足りない。死ぬほど苦しんで、世界から見捨てられて、野良犬みたいに惨めに野垂れ死んでも、全然足りない。私を見捨てたんだから」
ああ、そうか、僕はまたろくでもない夢を見ているんだな。男は目の前にいる鬼のような形相の女を見て、嘲笑を口の端に作る。全く、僕もあんたも「愛する」なんて言葉、軽々しく口にするもんじゃない。アバズレみたいだもの。グッと女の腕が伸びて彼の右肩を掴む。彼がどれほど身をよじらせても、女の指は肩にギリギリと食い込んで離れようとしない。
「そうやってまた私から逃げるんだね。全部私のせいにして、あなただけ幸せになろうとするなんて、絶対に許さないから。」
男は飛び起き、そのままの勢いで地面に手をついた。近くで誰かが驚いた声をあげた。
「先輩、大丈夫?」
そこにいたのは、女学生だ。
「大丈夫です。ホントに。」と言って、男はベンチに座り直した。
「本当?すごい汗かいてるし、息も荒いけど。」彼女もベンチに座りながら言った。
「ええ。大丈夫ですよ、大丈夫。」
彼は息を整えながら、シャツで汗を拭いた。特に右肩のあたりを念入りにこする。まだあの痛みが残っているような気がしたのだ。
「寝てたの?」彼女が何気ない様子で尋ねた。
「…ええ、まあ。」男は怖々と返した。
「もしかして、私と話すのって眠くなるほど退屈だった?」
「いえ!そんなことはないですよ。もうこの話は止しませんか?」男は嫌な予感がして強い語気で会話を遮った。
女学生もその剣幕に驚いたのか、それ以上追求してくることはなかった。
しばらくの間、男は俯いて深呼吸を繰り返していた。アスファルトの焦げる匂いや夏の雑草の匂い、蝉の死骸のにおいが肺の中を何度も行き来する。数十秒して、ようやく顔を上げた。
「あ、先輩、落ち着いた?」
声のした方を向くと、女学生が包み紙を両手に持ったまま座っていた。彼女は呑気そうに優しい表情で男を見つめていて、男が青白くて険しい顔をしているのとは対照的だ。構内の静けさや降り注ぐ陽光や食べカスを求めて地面を跳ね回っているスズメも相まって、病院の中庭のような光景である。
「ええ、いくらかは。それで、何を買って来たんですか?」男は彼女の手の中にある白い包み紙を見ながら言った。
「タコス。」と言って、彼女は包みの中身に齧り付いた。
「タコス?そんなもの、ここら辺で売ってましたっけ?」
「うん。広場の近くに停めてあるキッチンカーで売ってるよ。たまにだけど。」
「へえ、知りませんでした。いくらしたんですか?」
「四百円くらい。先輩も買ってきたら?」
「遠慮しておきます。お腹空いてませんし、今は持ち合わせがありませんしね。」
「ふうん。」
女学生は一瞬だけ訝しげな視線を向けたが、すぐにタコスに向き直った。空を見上げた男の目には、学部館の後ろから顔を覗かせる灰色の入道雲が映っている。きっと今日のうちに雨が降るぞ、と思いながら彼は欠伸をした。口の中はカラカラに乾いて塩辛く、肩はまだズキズキと痛む。日に焼けた顔や腕に強い日差しが当たってヒリヒリと疼き、汗が背中を流れていく感覚がこそばゆい。彼女の咀嚼音とスズメの鳴き声が耳に届き、焼けた牛肉と濃いサルサの匂いが鼻をくすぐる。それらの感覚は異常なまでの生々しさを伴いながら男の体内に重くのしかかった。




