表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
More Songs...  作者: alIsa


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/26

七月十八日(月)①

 七月十八日(月)

 囁き声のようなものが聞こえて目を覚ました。目は開いているが、男の眼前は真っ暗い。夜中にもかかわらず、隣人が電話か何かで会話していて、その声で目覚めてしまったのだろう、と思って二度寝をするために目を閉じようとする。しかし、次の瞬間、彼の視界に光が溢れる。視野の隅に見える窓から差すその光で、今が朝だと分かった。それに対して、深夜のような暗闇が視界の一部を占めている。男は寝ぼけた頭を必死に稼働させてこの状況についての可能性をあれこれ考えた。目が馬鹿になってしまったのだろうか、あるいは夢を見ているのだろうか。答えは自ずと明らかになった。その黒い塊は悪寒が走ったかのようにぶるりと身を震わせると、視界の外側へと消えていく。それが完全に見えなくなった後、男はその黒が滑っていった方に目と顔を動かした。そして、部屋の隅でその黒いものが揺れているのを見てようやく、自分がお馴染みの黒いモヤに起こされたのだということを理解した。ペットの犬や猫が朝に飼い主を起こしに来るなんて話を聞いたことはあるが、あんな訳のわからない存在に起こされるのは、世界広しといえど僕ぐらいなものだろうな、と彼は自嘲気味に笑って身を起こした。

「まあ、餌代がかからない点だけはペットよりも優れているかもな。」

 そう呟いて、モヤの方を見た。その自嘲を自らに対するポジティヴな笑みと捉えたのか、それは何だか嬉しげにくねくねと揺れていた。男はテーブルの上にある三個の空き缶を掴むと、流しで中身を洗ってゴミ袋に投げ込んだ。


 普段よりもゆっくり朝食をとったり、タバコを吸ったり、可燃ゴミを捨てに行ったり、シャワーを浴びたりしているうちに、時刻は八時半になった。一通りやることが終わり、男が今日の予定についてあれこれ考えている間、黒いモヤはずっと部屋の隅でくねくねと動いていた。最悪な目覚めから既に一時間近く経とうとしているが、モヤは一向に消える気配を見せない。それどころか、時間が経つにつれてその動きは次第に激しくなっている。いい加減目障りに感じ始めていた男は、怒鳴ろうとして口を開いた。しかし、もしかすると何か伝えたいことがあるのかもしれないと思うと言葉が詰まった。そして一つの可能性に至り、それを声に出した。

「もしかして、僕が講義に遅刻するんじゃないかとか考えてるのか?」

 モヤは肯定的に身を震わせる。なるほどな、と男はうんざりとした気持ちになった。

「今日は祝日だから、大学は休みなんだよ。だから今日は遅くまで寝てても問題ないし、この時間にここにいても何も変じゃないんだ。」

 モヤはピタリと動きを止めて申し訳なさそうにうなだれる。男は深くて長いため息をついた。

「…まぁ、試験勉強するために大学の図書館に行こうと思ってたから別にいいんだけどさ。」

 そう言うと、モヤは再び直立して嬉しそうに揺れ出す。それから男が立ち上がって手早く勉強道具をリュックに詰め込んでいる間、それは男について回っていた。余計に構ってしまったという後悔も、彼について回った。

 結局、それは男が外へ出るまでつきまとっていた。閉まる扉を尻目に、彼は大きくため息をついた。

「なんでこんなイカレた暑さの中、講義も無いのに大学に行かなきゃならないんだ。」

 イヤホンを耳に入れ、階段に向かって歩き出す。生き物でもない存在に気を遣うなんて、僕もいよいよどうかしてしまったみたいだな。そのうち、ペットボトルと恋愛するようになるぞ。男はそんなことを考えて、自分自身に半ば呆れつつ、自虐的に笑った。



 十二時を告げる鐘の音がして男は顔を上げた。鐘を鳴らす時計塔の近くにある大学の付属図書館で、彼は期末試験の勉強をしていたのだ。

 休日の図書館は平日より人が少なく、人目を気にせずに集中することができるため、彼はこの大学の施設の中で、唯一ここだけは気に入っている。もちろん、休日は人の出入りが穏やかで安心できるからということもあるが、本がたくさんあるからというのも理由だ。子供の頃から本を真剣に読んだこともなかったが、本自体は好きだった。自己主張をせず、ただ望んだ者にのみ、滔々と、ひっそりと、自分のことについて語る。そのような慎ましさが好きだった。

 男は頬杖をついて窓の外を眺めた。そこからの景色は、平日にはあちこちに学生が溢れて鬱陶しいほど活気づくのだが、今日のような休日には通りにも広場にも人通りがほとんど無い。人類が滅んで百年経ってしまったのかと錯覚するほどだ。学部館や時計塔のような建物や楠木のような植物は、気持ちよさそうに陽光を浴びて、とどめきれない生命力を全身から惜しげなく垂れ流し、それに誘われた名前も知らない鳥たちが、構内のあちこちにとまって羽を休める。男はそんな風景をぼんやりと眺めながらこの後どうするかを考えていた。今、ちょうど商法とドイツ法の試験勉強が終わって時間も正午になり、帰宅するにはキリの良いタイミングだったが、別に腹も減っていなかったため、今すぐに帰る必要もなかった。どうせ帰っても勉強するわけだし、折腹が減るまで本でも読もうかな。男がそう思って立ち上がる直前、不意に肩を叩かれた。

「久しぶり、先輩。二週間ぶりかな?」

 振り返ると、そこには例の女学生がいた。特別めかし込んでいるわけではないにもかかわらず、男には今日の彼女が以前よりも綺麗に映った。そこには若さ故の瑞々しい活力と危うさが確かに見て取れる。

「お久しぶりです。あなたも試験勉強に来ていたんですか?」

「うん。良かったら外で話さない?お昼ご飯のついでに。」

「ええ、構いませんよ。」

 男がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って一階に続く階段へ向かっていく。彼はリュックを背負ってその後をついて行った。

 

 突き刺すような熱い光と鼓膜が破れそうなほどうるさい蝉の鳴き声が、外に出た二人を迎えたが、図書館の冷房によって冷やされた男の体にはそれらの自然な感覚は心地よく染み込んでいく。彼らは少し歩いていつものベンチに向かった。女学生はベンチをじっと見つめ、自身が座るところを軽く手で払い、ゆっくり腰を下ろし、髪を軽く撫でて耳にかけると、男に早く座るよう促す。彼女のそのような動作の一つ一つを、男は微笑ましく思いながら見ていた。

「辞めたよ、サークル。」と彼女が切り出した。

「サークルって、前に言っていたあのサークルのことですか?」

「うん、私は別に裁判官とか弁護士とかになりたい訳じゃないし。それにまだ一回生だからいろんなことを試してみたいしね。」

「そうですか。あなたが自分で決めたことなら、とやかく言う気はありませんよ。」

 そう言って彼女の顔を見ると、彼女は静かに微笑んでいた。


 しばらくの間、彼らは他愛もない話をした。大学のあの講義が退屈だったという話、あのゼミは空気が悪いという話。お互いのバイトでの失敗談や京都の蒸し暑さの話や北海道の夏についての話などなど、飽きもせずに話し続けていた。

 会話が一段落ついて二人の間に親しげな沈黙が漂う。

「ねぇ、お昼ご飯買ってくるけど、先輩はどうする?」彼女は沈黙を破るように突然立ち上がり、少しぎこちない調子で言った。

「どうぞお構いなく。待ってますから。」

 男がそう答えても、彼女は何か言いたそうにしていたが、結局無言のまま小走りで去っていった。

 男は小さくなっていく女学生の背中を見送りながらベンチにもたれかかった。空には重層的で威圧的な雲があちこちに浮かんでいる。なんだか懐かしい感じだな。こんなに会話が楽しかったのは、久しぶりだ。男は相好を崩す。今朝あのモヤに起こされてしまったせいで眠り足りなかったのか、その瞼は自然と重くなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ