五月末 金曜日②
十九時。僕はいつになったらここから出られるんだろうか。男はそう思いながら、相変わらず右手をポケットに突っ込んで応天門の柱にもたれかかっていた。空の雲はより黒さを増していて、雨はしばらく止みそうにない。周囲はますます雨と濡れたアスファルトや土の匂いで満たされている。彼はもう一本タバコを吸おうとしてポケットに手を伸ばしたが、あと一本しか残っていないことを思い出して止めた。宙ぶらりんになった左手を額に当て、そのまま髪を撫で上げると、髪はすっかり乾いていた。これなら風邪をひくこともなさそうだ。彼にとってはここで立ち往生することよりも風邪をひくことの方がずっと困苦なのだった。
冷泉通りは雨を吸って更に黒く膨らむ。その膨らみは獲物を丸呑みした蛇の腹のようにぽっこりとしていて、冷泉通りを左右に行ったり来たりしている。それは通りを三往復ほどすると、男の正面で止まった。そして、男を、それに目がついているのか分からないが、じっと見つめた。彼もそれに応えるかのようにその膨らみの上部を、人間であれば目がついている場所を、見つめ返す。彼は他にすることが無かったため、飽きることなくそれを見つめ続けていた。
そのまま数分経っただろうか、男はその膨らみを見続け、正面にいるそれも時折もぞもぞと動く以外はじっとしていた。雨の音と遠くを走る車の音以外は何も聞こえない。彼は自分の目の前で起きている事象が現実的ではないことは理解していたが、その黒い膨らみの正体をおそらく知っていたため、恐怖のような感情は無かった。それよりも呆れと理由のわからない微かな怒りがあるだけだった。
ふと、周囲のあらゆる音が消失していることに気づいた。遠くを走る車の音や雨の音、自身の呼吸する音、それらが全て消失してしまったのだ。それと同時に、黒い膨らみが両手を限界まで広げた位の大きさになり、激しく震えているのが見えた。そいつが雨だけではなく周囲の音まで吸いこんでしまったのだろうが、音の無くなった世界で奇妙な存在がぶるぶると震える様子は男にとって何だか滑稽に映った。それは動きを止めたかと思うと、グググと内側から力を加えられてより一層膨らみ、はち切れんばかりになって、そして次の瞬間、バァン、という風船が割れるような音とともに、黒い膨らみは破裂した。
しかし、それは内圧によってではなく、外圧によってだった。破裂するまさにその時、優に時速七十キロを超す速度を出した車が冷泉通りを走り抜け、それを踏み潰したのである。男は音が消えた世界にいたため、その車の接近が分からなかった。おそらくあの黒い膨らみ自身も気づかなかったのではないだろうか。少し呆気にとられた後、彼は心に湧いてくる爽快感に身を任せて、黒い膨らみの中の存在を嘲るように鼻で笑った。
世界にはあらゆる音が戻っていた。とはいっても元々辺りは静かで、雨音と、遠くの車の走行音と若者の喧噪が聞こえるだけではあるが。雨宿りを始めてからもうすぐ二時間経とうとしていたにもかかわらず、男はそのことについて別段焦ることはなかった。ここにいれば電気代もかからないし、腹が減って冷蔵庫を漁る心配もないから、節約になるな、とか考えていたのである。最悪ここで眠ることになっても構わないさ。男は自分を納得させるように独りごちた。
「五月の京都は夜になると涼しくなるし、雨音のおかげでリラックスできて、いつもよりぐっすり眠れるかもな。ヒーリングってやつだ。うん、ここで一夜過ごすのも悪くない。」
勿論、心からそう思っていたわけではない。それにもかかわらず、彼がそのように考えたのは数年前から可能な限り楽観的に物事を捉えるように努めていたからだ。そして、そのような心構えが生きていく上で小さからぬ支えになることを理解していたからだ。幸せになることこそが彼の夢だったのだ。
不意に長く強い風が吹いた。南から、岡崎公園から平安神宮へと、吹いてくる風だった。まず、突風に規律を乱された雨粒たちが男の全身にぶつかり、弾けた。雨粒は顔から温度を奪うと、生温い水滴になって地面に落ちてゆく。次に、匂いがやってきた。雨の匂いや雨を吸ったアスファルトと土の匂い。それらは強風に乗りながら鼻腔をこじ開けて脳まで到達すると、脳深くの特定の記憶に釣り針のように突き刺さり、眼前までそれを釣り上げる。周囲の物体、応天門の柱や雨や砂利道や冷泉通りや岡崎公園が光を放とうとも、それは彼の瞳に空虚に吸い込まれるだけで、脳は映像を紡ごうとしない。眼前には古い記憶が、今そこで起こっていることかのように、繰り広げられていく。
男は十五歳で高校一年生だった。
昇降口で靴箱の一つにもたれかかりながら激しく降る五月の雨をひたすら眺めていると、雨に濡れたアスファルトやグラウンドの匂いが鼻を満たしていく。男が視線を左に動かして見たのは、脱いだ詰襟が無造作に置いてある傘立てだ。そして、その視線を右へ動かせば、“あの女”がいる。
男の恋人。身長は男の頭一つと少し分小さく、髪は肩ぐらいの長さで、黒いゴムで結ばれている。夏用のセーラー服は真っ白で皺一つ無く、降ったばかりで誰の足跡も付いていない雪みたいだ。胸のあたりに下がっているネイビー色でサテン地のスカーフは、釣られたばかりの魚を想起させるほどつやめかしい。スカーフと同色のスカートは、膝を隠す位の長さで、そこから三十センチほど足が伸びている。そこから更に視線を落とすと、ただでさえ白い彼女の肌の中でも一際白い部分が目につくのだが、それは靴下だ。踝の少し上まで覆う長さで、長すぎず短すぎない靴下。しかし、白い靴下は途中から黒いローファーに隠されて、全貌を見ることはできない。新品のつるつるとしたローファーは、飲み込まれそうなほど黒く、彼女のセーラー服や靴下や肌の色とは鮮やかなまでに対照的だ。
男は、小さなほくろのある首筋を経由して彼女の顔に視線を戻した。その顔は整っていて、一つ一つのパーツを取り出しても、それらは見事なものだ。心の隅々まで見透かされそうなほど黒い瞳、顔の均衡を崩さない程度に高く小さい鼻、小さく薄くほんのり赤い唇。これより素晴らしいものがこの世に存在しえるだろうか?しかし、それらのパーツは彼女の顔に収まることで、不思議と互いに邪魔することなく、より完成された美しさになるのだ。
彼女は先ほどまでの男と同じように雨を眺めている。彼女の視線が、何を追っているのか、探しているのか、求めているのか、男にはいつも分からなかった。…こんなにジロジロ見ちゃ悪いな。彼は気恥ずかしさを感じながらそう思い、彼女から顔を逸らした。
「どうしたの?」とその女が寝ぼけているかのような、それでいてよく通る声で尋ねた。
「別に、なんでもないよ。」男は女の声を後頭部に受けて全身が熱くなりながら答えた。
彼女が小さく笑う声が耳に入る。その声は狭い昇降口に反響しては男の体を火照らせた。きっと彼女は視線に気づいていたのだろう。
「ねぇ」と女が言った。
男は顔を背けたまま続きを待ったのだが、彼女はなかなか話さなかった。それがその女の癖なのだ。何かを話そうとするとき、必ず相手の注目を自分に集めて話そうとする。そして、彼女は相手の目をじっと見て話すことが多く、彼女と話す度に彼はどぎまぎさせられていた。彼は仕方なく顔を女の方に向けると、続きを待った。
女は一瞬だけちらりと男の方を見ると、その一瞥だけでも男はひどくどきどきしたのだが、話し始めた。
「雨、いつになったら止むんだろうね。」
「さぁ、少なくとも天気予報が外れたってことしか分からないよ。」と男はできるだけ少ない言葉で答えた。
「二人揃って折り畳み傘も持ってないなんて運がないよね。」
「そうだね。」彼は相槌を打ったが、それと同時に頭の中では別のことを考えていた。
男は彼女の通学鞄の中に傘があることが分かっていたのだ。今の彼女の雰囲気は嘘をついているときのものだと何となく察していたし、そもそも彼女のような賢い人間が梅雨の時期に折り畳み傘を携帯していないなんてありえないのだ。そうであるならば、なぜ彼女は傘が無いなんて嘘をついているのだろうか。彼はそう疑問に思ったが、自分と少しでも長く一緒にいるためという可能性に行き着くと、再び顔が熱くなるのを感じた。
「ねぇ。もし、私がここであなたと二人きりでいたいがために、嘘をついているとしたらどう思う?」女は思考を読んでいるかのように尋ねた。
彼女はじっと男を見つめながら微笑む。漆黒のような黒さにもかかわらず、どこまでも透き通っている瞳。それに見つめられると、男は心臓を優しくつかまれたかのような感覚に陥り、自分のことを全て見透かされているような気さえした。しかし、彼がどれだけ彼女のその目を見ても、彼女の考えていることはまるで分からなかった。それどころか、見れば見るほど彼女の考えていることが分からなくなるのが常なのだ。そして、彼女の微笑み。歯を見せずに口角を少し上げ、目を細めた表情でする微笑。彼女のあらゆる仕草の中でそれが男の心を最も激しく揺さぶった。その微笑みがなされた瞬間に、世界がそれを中心に崩壊したかと思うと、次の瞬間には再生成されているような感覚になってしまう類いのものであり、その微笑みを向けられると、自分の罪をすべて告白してしまいたい気持ちになってしまう類いのものである。しかしながら、困ったことに男は特に告白するような罪を思い至らなかったため、その微笑みを向けられる度に、去勢されてすぐの雄犬のように、悶々とする羽目になるのだった。
彼女からの突然の質問と微笑みに男は耐えきれず、目を逸らし、上擦った声で短く答えるのが精一杯だった。
「とてもうれしいよ。心から、本当に。」
「そっか」とだけ女は言い、ようやく男から目を逸らした。
そのまま数分経った後、彼女は口を開いた。
「私ね、あなたとこうやって一緒にいると、本当にとても幸せな気持ちになれるの。」
彼女の顔は表情が無く、瞳は空洞に見えるほど透き通り、声は奇妙な奥行きがあった。