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More Songs...  作者: alIsa


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七月六日(水)

 七月六日(水)

 男の体は、心臓を絞られるような苦痛で、目を覚ますより早く飛び起きた。汗が蛭のように服の中で張り付き、彼の体温を奪っている。しばらくの間、男は肩が大きく動くほど激しい呼吸を繰り返していた。今あの女の部屋にいるのか、見慣れたアパートの一室にいるのか、判断がつかないでいたが、部屋にこびりついたタバコの臭いと隣の部屋から聞こえてくる妙な音楽で、そこがいつものアパートだと分かった。動悸が少し落ち着いてくると、顔を上げて周囲を見渡した。眠りに落ちる時に付けていたイヤホンが複雑に絡まった状態で居心地の悪そうに枕元に落ちている。男は一瞬だけイヤホンにうんざりとした眼差しを向けたが、すぐに視線を机の上にあるデジタル時計に移した。時刻は日付が変わって二十分ほどで、どうやら眠ってすぐにあの悪夢を見てしまったようだ。

 男はイヤホンを手に取り、慣れた手つきで結び目をほどきながら思いふけった。

 最悪な夢だった。忘れもしない、あれは五年前の八月、僕の誕生日。あの女とデートをすることになっていたのに、約束の時間になってもあいつは来なかった。だから、家まで行ったんだ。底抜けに暑い日だった。

 彼は顔を上げ、ほどいたイヤホンを机に置く。そして、思考を進めた。

 あの子、家から出てきたあの少女。あいつの本命だった子だ。あの日、暮れの校舎であいつの隣にいたのもあの子だ。それにしても特徴のない子だったな。もう顔も思い出せない。名前すら、何だったかな。まあ、いい。あの子のことは、どうでもいい。

 男は額の汗を拭い取り、鬱陶しい音楽の方を向いた。より詳細に言うと、そちらの壁際にある三段の本棚の方だ。下の段には、二十冊ほどの使い切った大学ノートが山のように積んであり、中の段には、今まで受講した講義に関連した判例集や教科書が数冊と小型の六法集と外国語の辞書が立て掛けてある。そして、上の段には、数冊の公務員試験の問題集と五、六冊のノート。あの女に贈られたCDも、紙袋に入ったまま、上段に座っている。結局あの日以来、そのCDは一度も再生されなかった。彼はそんなCDをわざわざ実家からこのアパートまで持ってきていたのだ。

 僕がここに越してくる際に、大きめの紙袋が必要で、その中にあのCDが入っていたのを忘れていただけだ。引っ越した後も貧乏性が災いして捨てることができなかっただけだ。それだけだ。その気になれば、いつでも手放せるさ。ほしい人がいたら譲ってやるし、いざ金に困ったら売っ払うつもり――

 それは、彼の視界にその紙袋が少しでも映るたびに繰り返されてきた文句である。

 部屋の暗闇も相まって、ほんの一瞬だけ、その顔から感情が読み取れなくなる。しかし、男はすぐに鼻をフンと鳴らし、あからさまに怒りの感情を露わにした。

「何が『嘘つき』だよ。嘘つきはあんたの方だろうが。」

 あの夢の内容は大体、その通り。でも、最後にあの女が言ったのは、違う言葉だったはずだ。僕をカモフラージュにしておいて、嘘つきだなんて偉そうなこと言えるはずがない。どっちが嘘つきだって話。とは言え、実際には何て言ったんだっけ?…いや、アホらし、やめた、やめた。思い出したところで何の得にもならないじゃないか。

 男は立ち上がり、冷蔵庫に開けてビールを一本取った。あの女の微笑みが脳にこびりついていて離れない。どうだっていいさ、悪いのは全部あいつなんだから。言葉を押し流すように一息でビールを飲み干した。彼は冷蔵庫からビールをもう二本取り出して流しに空き缶を放ると、そのまま玄関に向かった。一方の手でビールを二本持ちながら、もう一方の手でドアを解錠しようとする。

「嘘つき。」

 背後で声がした。恨みがましい声だった。

「裏切り者。」

 男は声に背を向けたまま答えた。その声は、冷徹で、無関心で、相手のものと同じくらい恨みがましいものに聞こえた。そして、男はそのままドアを開いた。


 そのアパートの階段は、夜明けまでたった一つの電灯で照らされているのだが、その寿命も近いのか、激しい運動後の鼓動のように激しく点滅している。男が記憶する限りでは、かれこれ一年と半年はこの状態だ。早く寿命が尽きてくれないだろうか、と三ヶ月ほど前から彼は思っているが、それと同時に、まるで中々死ななくて親族から邪魔者扱いされている病気の老人みたいだ、とも思ってしまい、この蛍光灯を見るたびに苦い同情を抱くのだった。

 男は階段の下から三段目に座ってビールを飲んでいた。階段はボロボロに錆びついていて少しでも体勢をずらすと、ギコギコと不快な音が鳴る。その音は寄る辺なく周囲に響き、二、三メートルもしないうちに夜の重い闇に押し潰されていった。

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