七月五日(火)③
男は見知らぬ住宅街にいた。まだ覚醒しきっていない脳みそには、太陽の光や青い空や近くから漂ってくるカレーの匂いやどこからか聞こえてくるピアノの音は、全て形容しがたい欠落を抱えているように感じられる。男は周囲の家々のささやかな活気に疎外感さえ抱いた。
それらの家は、コンクリート造りの二階建てで、小さな庭があり、玄関の脇には立派なワゴン車が停められている。家の中は、無駄の少ないこざっぱりとした造りで、フローリングの床はワックスでテカテカしており、白い壁紙は生まれたばかりの赤子のように染み一つない。どの家庭も父親は中・大企業で何らかの役職に就いていて、母親は専業主婦かパートタイムで働いている。子供は多くても二人で、彼らは中の上以上の中学や高校に通っている。そして、犬か猫を飼っている――。記憶にないここら一帯の家々についての情報が彼の脳に突然溢れ出した。
なぜこんなところにいるのか把握できず、しばらく目を白黒させていると、二軒ほど先にある家から一人の少女が出てきた。彼女は男がいる方へ歩いていたが、男に気がつくと、驚いた顔で反対方向へ逃げるように走り出した。今の少女は誰だっただろうか、と思いながらその足は自然と前へ進む。紋切り型の家々を通り過ぎ、先の少女が出てきた家の前で足は止まる。ポストの上にある表札を見た時、彼は自分が今どこにいるかを理解した。
「ああ、そうだった。あの子に会いに来たんだったな。」
表札の近くに備え付けてあるインターホンを押すと、一分足らずで恋人が玄関の扉を開けた。
「ごめんね。すぐに準備するから、上がって待ってて。」
彼女の息は少し乱れていて、顔は紅潮している。彼女の着ているポロシャツはボタンを一番下から掛け違えられており、一番上のボタンがいかにも所在なさげだ。
「時間になっても待ち合わせ場所に来ないから、心配したよ。」
男はそう言うと、玄関で靴を脱いで彼女の後について行った。二階へ続く階段は埃一つなく、ヒノキの匂いが漂い、体重を乗せて踏み込んでも嫌な音が全くしない、立派なものである。
「本当にごめんね。せっかくの誕生日なのに。」少女は自身の部屋の扉を開けながら言った。
「いいよ。それより体調が悪そうだけど…」
男は彼女の部屋に入ると、すぐに違和感を覚えた。彼女は部屋の香りにこだわっていて、男が初めて訪れた時も熱心にフレグランスについて語るほどだったのだ。しかし、今日はいつもの芳香剤の匂いに加え、消臭スプレーの強い柑橘の匂いもした。そして、嗅いだことのない不快な臭いが微かに混ざっていた。汗臭さと生臭さと鉄の臭いが混ざったような臭いだ。
「どうしたの?」と彼女は言った。
「うん?いや、体調が悪そうだけど、大丈夫かなって思ってさ。」
男は彼女と目を合わせることができなかった。今もし彼女の目を見たら、自分が抱いている漠然とした不安のようなものをけどられるのではないかと思ったのだ。
「まあ、少し。でも大丈夫。」
視界の端に彼女の屈託の無い笑顔が見えた。
「そうなんだ。別に無理しなくてもいいよ。誕生日だからってデートに行かなきゃいけないなんて決まりは無い訳だしね。それに、デート代が浮いて助かるよ。」
おそらく生理中だから部屋から変な臭いがしたんだろう、と彼は納得して恋人に顔を向けた。相変わらず彼女の瞳は何も語らない。彼女の家から出てきた少女のことは、とっくに記憶の灰となって吹き飛んでいた。
「…ごめんね、気を遣わせちゃって。お言葉に甘えて今日は休んでもいい?」
「気にしないでいいよ。また明後日にでも君の携帯に電話してもいいかな?」
「うん、待ってる。あ、そうだ!」
少女は手をパチンと叩いて勉強机の方へ近づき、机の上にある紙袋を取った。
「お誕生日おめでとう。これ、受け取って。」
男は紙袋を受け取ったが、驚きのあまり、少しの間、口を開けることしかできなかった。彼女が誕生日プレゼントを贈ってくれたという事実をどうにか飲み込むと、その口はやっとのことで言葉を送り出した。
「ありがとう。その、うまく言えないけど、嬉しいよ。とても。」
彼は本当に心の底から喜んでいた。しかし、誕生日プレゼントというものを貰うのは幼稚園児の時以来だったため、どのようにその感情を対処すればいいか分からず、素っ気ない返事になってしまったのだ。
「ごめんね。あなたが何を貰ったら喜んでくれるか分からなくって。迷惑だった?」
「いや、そんなことないよ。ホントに嬉しいんだ。ここで中を見てみてもいいかな?」
少女が笑顔で頷くのを見て、男は紙袋の中身を手に取った。
「うん?これは靴下?五足セット…」彼は白い靴下の束に手の中で回しながら言った。
「この前会った時、あなた、穴の空いた靴下を履いていたから。」
「よく見てるなぁ。ありがとう、助かるよ。それに母さんもきっと喜んでくれると思う。」
彼がそう言うと、彼女はより一層、嬉しそうな顔をした。
「あともう一つ、プレゼントがあるの。」
「二つもプレゼントを準備してくれたんだね。ホントにありがとう。」
更に紙袋を漁ると、指先に薄くて堅いものがぶつかる。男はそれを取り出した。
「CD?裏面にバンド名か…。その下には『モア・ソングス』…『サンキューフォー』…。すごく嬉しいけど、これは?」
男の不思議そうな様子を見て、彼女は困ったように笑って答えた。
「今あなたが着ているTシャツを見てみて。」
「僕が着てる?…あれ、驚いたな。ジャケット写真と同じものがプリントされてる。」
「驚いたのは私の方よ。てっきりそのバンドのファンだと思ってたのに。」
「このシャツは古着屋で一番安かったから買ったんだ。勘違いさせてしまってごめん。でも嬉しいよ。」
「要らないならそう言って?」少女は不安そうな表情をしている。
「要らないなんて、とんでもない。ん?なんだかこのバンドに興味が湧いてきたぞ!」
「本当に?」彼女も少し大げさに眉をひそめて、男の顔を覗く。
「勿論、毎日聴くつもりだよ。CDが擦り切れるくらいにね。」
勉強机の上で小さな瓶に生けられている花をチラリと見る。白く、可憐で、自然体なその花は彼女そのものだな、と男は思った。
「そっか。それじゃあ、そうなっちゃったらまた同じCDをプレゼントしてあげるね。」
彼女が小さく微笑む。男はそれを直視することができずに思わず目を逸らした。
「そろそろ帰るよ。お腹も空いたし。」
「うん。玄関まで見送るね。」
彼女がドアの方へ向かう。男はそれを気まずそうに見つめていた。彼はCDプレイヤーを持っていなかったため、彼女に貰ったCDを聴くことはできそうになく、プレイヤーを買う金銭的余裕も無かったのだ。仄かな罪悪感が体の中で芽生え始めていて、気を抜けば口からその罪悪感の蔓が飛び出しそうになる。男がついてこないことを変に思ったのか、彼女はゆっくり振り返る。その後頭部を見ていた男の目は、彼女の綺麗な漆黒の瞳をはっきり中心に捉えた。普段は何の感情も読み取れない、ガラス細工のような目には明確な感情が籠もっている。憎悪、軽蔑、嘲笑。それらが燃えあがり、黒く揺らめく瞳。綺麗な唇が歪んで、動く。
「嘘つき。」




