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More Songs...  作者: alIsa


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17/26

七月五日(火)②

「それで、何が聞きたいんですか?手短にお願いしますね。」とは言ったが、彼女が何を尋ねるつもりなのか、何となく分かっていた。

「うん、分かってる。…あのさ、先輩は以前、今は恋人とかいないって言ってたけど、あれって本当?」

 そう言う彼女を、男は他人事のように眺めていた。肌が焼けていたため気づかなかったが、彼女の右首筋にはボールペンで突いたような、小さなほくろがある。

「ええ、本当ですよ。前はいましたけどね。」

「前っていつ?」

「大体一年前ですかね。最後の恋人は。」

「ふうん、何人と付き合ったの?」

「二人です。まあ、一人は半年でもう一人は半月で別れましたけど。」

「大学に入る前からも含めて二人なの?」彼女は目ざとく尋ねた。

「…」男は口ごもる。

「ねえ、教えて?」

「…どのように表現すればいいのか、少し悩みますね。確かにそれ以前にも恋人がいたことはありますよ。でも恋人と呼べるものだったんでしょうかね?」

 男は目を瞑ってベンチにもたれかかり、ぐったりと空を見上げるような体勢をとった。痛いほど熱い光が顔中に等しく降り注ぎ、もはや心地よさそうにさえ見える。

「どういう意味?」

 女学生の声が聞こえると、彼は元の姿勢に戻って彼女の顔を見た。

「そのままの意味ですよ。何も難しくありません。恋人とは言うけど、初めから恋人としての付き合いなんてあったんだろうかってことです。僕は実質的カップルだと思っていたんですけどね。相手からすると僕は形骸的ですらない、表面的な恋人だったんです。」

 三限目の講義が始まって既にしばらく経ってしまったのか、辺りには誰もおらず、ただ二人の大学生にのみ夏の陽光が降り注ぐ。空調を使用しているため、教室の窓は閉め切られていて、耳を澄ましても学部棟からは何も聞こえない。二人以外は夏の空気と一つになってしまったのかもしれない。まるで皆死んでしまったみたいだな、と思いながら、男はゆっくりと周囲を見渡した。ぐるりと一八〇度首を回しきって女学生の反対側に首を向けていると、彼女の方から声が聞こえた。

「ううん、よく分かんないなぁ。浮気されてたってこと?」

 男は緩慢と声の方に顔を向け、額を伝っていた汗を手の甲で拭った。そして、彼女が自身のシャツをつまんでいることに気づいた。

「僕が“あの女“に浮気されたというよりは、僕が浮気相手だったと言う方が正しいでしょうね。」

「わけ分かんない。表面的に付き合ってたけど、浮気相手だったってどういうこと?」

 そう言うと、彼女は頭痛に耐えるかのようにこめかみを親指で押さえた。

「まあ、そうでしょうね。僕自身、理解しがたいですよ。あいつのことは。」と男は自らを嘲けるかのように言った。


 それから少なくとも二十分ほどの間、女学生は男のTシャツの裾を掴んで離そうとしなかった。男は早々に引き剥がすことを諦め、彼女が離してくれるのを待つことにした。その間、彼は死後硬直のようにピクリとも動かずに固まったまま、空を見上げていた。解放されるまでに、名前も知らない鳥が十八匹ほど頭上を通り過ぎたが、太陽はまんじりとも動こうとしなかった。雲が一つも無い快晴だ。太陽は、二人の会話の行方を見守るかのように、彼らの頭上で爛々としていた。盗み聞きをしたいなら、地平線にでも行ってこっそりとやってくれよな、と思いながら、男はそのお節介な光の球を睨みつけた。


「先輩はもう帰るの?」

 解放された男がベンチから立ち上がるのを見て、彼女はそう言った。彼女は男の返答にまだ納得していないようだ。

「ええ、太陽のやつが帰ろうとしませんからね。僕の方が帰るしかありませんよ。」

 男はそのような彼女の様子には気づかずに、ベンチに背を向けて歩き出した。

 アスファルトに反射した日光が眩しく、その上あまりにも眠かったため、男は途中から目を瞑って歩いていた。そのせいで、電柱にぶつかって一瞬だけ痛みではっとするが、一分も経たないうちにうとうととしてはまた電柱にぶつかる、というのを何度も繰り返した。アパートに着き、シャワーを浴びるついでに鏡で確認すると、額は真っ赤になっていて顔中が麻痺したかのように疼いていた。



 そのアパートの一室は、お世辞にも住み心地が良さそうには見えなかった。天井は至る所がへこみ、壁紙はタバコの脂で黄色い。部屋のあちこちに黒い染みがあるが、よく見ると、それらのほとんどは蠢いており、ハエトリグモだということが分かった。扇風機が頼りない音を鳴らしながら部屋の生温い空気をかき回し、外からは発情した猫の鳴き声が聞こえ、薄い壁を隔てた隣人のフアンの部屋からは聞いたこともない音楽が漏れ聞こえている。カーテンの僅かな隙間から差し込んだ月の光が、部屋の床を細い光の線によって区切っていた。玄関脇の小さな明かりだけが点灯していたため、その部屋は中央にあるテーブルを境に次第に薄暗くなり、部屋の窓際や四隅は暗闇だ。テーブルの上には大学ノートと電卓が他人行儀に鎮座して悪びれる様子もない。大学ノートの左半分のページには薄暗く影が落ち、男はそこに書かれた数字と睨めっこしていた。そこに書かれていることから読み取ることができた情報は以下のようなことだ。

 男の現在の貯金は二十万円だということ。

 月の生活費は五万円ほどだということ。

 学費は半期で二十七万円ほどだということ。

 就活に際して、滞在費や交通費などの諸々に約十万円かかるということ。

「インターンシップにも参加したかったけど、厳しいかもなぁ。」

 男は床に後ろ手をつきながら、天井を見上げる。何度も金勘定をしてみたが、今すぐにバイトを見つけなければ、公務員試験どころか大学さえ諦めなければならないことは明らかだった。奨学金や消費者金融が頭を過ぎるも、借金はご免だ、と頭を振った。それでもなお脳内では将来への不安が駆け巡り、隣から聞こえてくる訳の分からない音楽も相まって、気が触れてしまいそうになる。彼は目を瞑って歯を食いしばることでどうにか正気を保とうとするが、そうすればするほど、隣人の流している音楽が自分のことを馬鹿にしているように感じた。その曲は掴み所の無いテンポと抑揚の無いボーカルで、意識すまいとしても、強引に思考の隙間に割り込んでくるのだ。既に三回ほど、夜中に音楽を流すな、とフアンに注意していたが、彼は一向に止めようとはしなかった。今まで米を分け与えてやったり、風呂やトイレを貸してやったりしたのに、どうして恩を仇で返すようなことをするんだ、壁を何発か殴って僕が苛ついてるって知らしめてやる。男は怒りで半ば我を忘れながら目を開いた。立ち上がって暗い壁の方に目をやり、大股で歩いていく。拳を振り上げながら暗闇に向かっていると、眼前の暗闇が周囲のものより濃いことに気づいた。壁のすぐ前まで近づいても、そこだけは暗いままだ。光か何かの具合だろうか?そう思いながら壁に顔を近づけてその染みの正体をあれこれ考えていると、それが微かに動いているように見えた。男は怪訝そうに観察する。そして、ようやくそれがお馴染みの黒い靄だと気づいた。声にならない悲鳴をあげながら、月明かりの斜線を越えるほど飛び退く。男はひどく混乱していた。靄に近づきすぎたということも勿論あるが、それ以上に、靄に向かって拳を振り上げたことに対して咄嗟に罪悪感のようなものを抱いたことに気づいたからだ。奴が僕を驚かせて申し訳ないと思うことこそあれど、どうして僕が罪悪感を抱かなきゃならないんだ?気持ちの整理をできないでいるうちに、靄はじりじりと彼の方へ近づいてきていたが、光の線を挟んだ所で止まり、息を潜めるかのようにじっとして動かなくなってしまった。その様子に、男は何だか馬鹿らしくなって、ベッドに寝転んだ。相変わらず隣から鬱陶しい音楽が聞こえてくるが、怒る気も失せ。テーブルにある音楽プレイヤーを手に取ってイヤホンを耳に入れた。彼の視界の端で靄がいつものようにうねうねと揺れ始める。そちらの方を一瞥すると、何となく目が合ったような気がした。

「もしかして、僕に同情してたりするのか?」

 ふと感じたことをそのまま口に出してみたものの、当然ながら、靄は何も言わない。こいつに同情を求めるなんて、僕も相当参ってるみたいだな。男は自虐的に笑い、そのまぶたを自信なさげに閉じていった。


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