七月五日(火)①
七月五日(火)
時計のアラーム音で男は目を覚ました。しかし、体にまとわりつく汗や寝間着の汗臭さやアルコールでぼんやりした頭と格闘しているうちに、その音は時計のアラームではなく、外でけたたましく鳴いている蝉の声だと分かった。時計を見ると、七時にはまだ数分早い。外はまるで世界が滅亡する一時間前のような騒がしさだ。時計のデジタル表示は室温三十八度と主張していて、さすがに目を疑った。男はテーブルの上に置いてある二個の空き缶を掴んでシンクへ向かう。そして、いつものように空き缶を洗ってゴミ袋に放り込み、シャワーを浴びてから朝食をとった後、アパートを出た。
いつも通りだった。いつも通り音楽を聴きながら自習をして時間を潰し、講義を受ける。講義が終わった後はいつも通りすぐ帰宅の準備をして講義室を出る。そして、階段を降りて柱廊に出ると、いつもの習慣でベンチの方を見やる。いつも通りだったのだ。しかし、いつもと違ってそこには例の女学生がいた。彼女は男の方を見ていたが、目が合うと、ぷいと顔を逸らした。男はそれを見て複雑な気持ちになりながら、彼女が座っているベンチへ近づいた。
「本当に暑いですね。気が触れそうなくらいだ。」男は可能な限り以前と同じ調子で言った。
「…」
彼女は沈黙を貫く。まるで男が声をかけたことに気づいていないかのようだ。実際セミの鳴き声は、そのせいで声が聞こえなくなってしまいそうなほど、騒がしい。
「はぁ…。分かりましたよ、もう嘘をついたり誤魔化したりせずに話しますから。」
男は彼女の隣に座った。彼女が詰めてベンチに座っていたため、ベンチの左半分は空いていたのだ。彼女のそのような行為を男は何だかいじらしく感じた。
「…本当に?」女学生はそっぽを向いたまま言った。
「ええ、本当ですよ。もし次に僕があなたに何か嘘をついたら、北海道の雪原で一晩過ごしたって構いません。」
男の言葉に彼女は小さく笑うと、男の方へ振り向いた。
「北海道って夏以外はすごく冷えるんだよ?」
「でしょうね。行ったことあるんですか?」
「そもそも私、北海道出身だから。」
「へぇ、そうは見えないな。」
「うん、よく言われる。それで改めて聞きたいんだけどさ。」
「ええ」
「二週間くらい前、初めて会った時、あそこの柱廊から私のこと見てたよね?」
「ええ?」男は思わず天を仰ぎ、「二週間も前のことなんて、憶えていませんよ。困りましたね。」と続けた。
「言っとくけど、先輩ははぐらかそうとするとき、目を合わせない癖があるみたいだから、私相手に嘘をつけるなんて思わないでね。」
「…はい、見ていましたよ。確かに。」
「ふうん。そっか、なんで?」彼女は悪戯っぽく笑いながら尋ねた。
「なんでって…」
かつての恋人に正反対の容姿だったからとは口が裂けても言えないよな、と男は思ったが、彼女は元々大して追求する気が無いようだった。
「まぁ別に答えなくていいよ。それでね、サークルについて、前も聞いたけどさ、続けた方がいいと思う?辞めた方がいいと思う?本音で言ってほしいな。」
「その前にいくつか前置きをさせてもらう必要があるんですけど、」男は彼女を手で制しつつ出来るだけ言葉を選び、「まず、僕は頭が良くないから一般的に見れば素っ頓狂なことを言うだろうということ。次に、今から述べるのはあくまで僕の意見だということ。最後に、僕が何と言おうと最終的に決めるのはあなただということ。」と続けて言った。
彼女はそれに対して何も言わず、ただ男を見つめて続きを待つことによって返答とした。その綺麗な二つの瞳は、一部の未成年女性に特有の、澄んでいるがそれでいて深みのないものだった。彼はその瞳を覗き込み、それが自身を飲み込んでしまうほど深いものではないことを確認すると、口を開いた。
「もし僕があなたの立場だったとしたら、今すぐにでも抜けますね、そんなサークル。僕がサークルに入ったり、大学に通ったりするのは、くだらない冷めた人脈を作るためでも、ましてや浮かれたカレッジボーイ達のくだらない群像劇の舞台装置になるためでもありませんから。そんな時間があるなら、自分に合う道を模索したり、没頭できる趣味を探したりする方が遙かに有意義ですよ。まぁ、世間一般的な意見、あるいはその辺を歩いている大学生の意見を代弁すれば、間違っているのはきっと僕の意見なんだと思います。そして、きっと彼らはこう言うでしょう。『お前は人脈を作ることができるほど器用でも利口でもないし、愛想も悪いし、友人を作って大学生活を謳歌する余裕がなかったから、当て口を言っているんだ。』と。きっと彼らの言うことが正しいんでしょう。僕は彼らに嫉妬してる。」
男はそこまで一息で言うと、目を瞑って薄く息を吐いた。軽くなった肺に空気が割り込んでくる。口当たりの良くない、夏の重厚な空気だ。彼は目を開き、女学生の瞳を見つめ返してから、再び言葉を紡ぐ。
「でもね、構内を歩いているとよく思うんです。連中がそのうち社会に解き放たれることがおぞましいなって。連中はお得意の人脈やお友達から得た情報の中だけから自分の専攻やサークルの活動と結びつけられそうな仕事を選んで、就職面接の際にはあたかも自分はその仕事をするために大学生活を送ってきたんだって自己暗示をかけて、貴社以外に就職は考えておりません、なんて大真面目に嘘ついて。そして働き始めたら、高給を餌に日々使い潰されて、休日は一日中自宅で過ごすようになるんでしょう、大半は。そんな彼らが薄気味悪くてしょうがないんです、僕には。彼らはそれでも死ぬときは幸せだったなんて思うんでしょうか。大学時代どころか高校時代やそれ以前から、あらゆる可能性を潰して、労働する…屍みたいになることを自ら宿命づけているっていうのに。でも、くどいようですけど、誤っているのは僕の意見の方なんですよ。」
彼女はずっと黙ったまま、男を見つめていた。彼女の瞳はとても澄んでいて、男の姿が鏡のようにはっきり映る。その姿は沈黙と慣れないことをした気恥ずかしさで居心地悪そうにしていたが、ようやく口を開いた。
「どうですか?満足いただけましたか?」
暑さと汗が流れる不快感と彼女の視線で、男は本当に気が狂いそうになる。
「…うん、初めて先輩の本音が聞けた気がする。」と彼女は言って、それと分かる程度に微笑んだ。
「僕はいつも本音を言っているつもりですよ。限りなく嘘に近いか、まわりくどいだけです。それじゃあ、そろそろ僕は失礼しますね。暑いし、お腹減ったし。」
これ以上ここにいると余計なことを喋らされるぞ、と思い、彼女が顎に手を当てて何やら考え込んでいるのを横目に、そこから立ち去ろうとした。
「え?ちょっと待って待って、まだ聞いてないことがあるんだけど!」彼女ははっとして慌てながら男を制止した。
「それはまた次の機会ということにして、今日はもうお開きにしませんか?そろそろ三限目も始まる時間でしょう?それに僕もいい加減帰りたいですし。」
「帰りたいなら帰ってもいいよ。私もついて歩きながら質問するから。」
「どうしてそうなるんですかね。火曜の三限目には講義があるって、あなた先週言っていましたよね?」
「うん。でも履修登録した科目じゃなくて、サークルの人に勧められて聴講してただけだから、別に無理に出席しなくてもいいし。」
「僕と話をするより、教授の有難い講義を聴く方がずっと有意義だと思いますよ、真剣に。」
「それを決めるのは私だから。」
男はあまりの暑さで頭がぼんやりして、まともに思考が回らない感覚がした。もうどうにでもなれ、と思いつつ彼女のもとに戻っていく。ベンチに手をつくと、夏の砂浜のように熱かった。




