七月一日(金)②
十八時を過ぎた祇園は活気が盛んになり、歩道はほとんどすし詰めだ。前後左右の歩行者たちとは拳二個分程度の隙間しかない。男はタマキから離れて歩いていたので、あっという間に歩行者によって分断され、彼がどこを歩いているのか分からなくなったが、大して気にかけていなかった。二度信号に足止めを食らいつつ十分ほど歩いていると、不意にぐいと通りの脇へ引っ張りこまれた。体をつかんだ手の先にいるのは、タマキだ。男は、少し驚いたが決して顔には出さずに、イヤホンを外して彼の背後を見た。
「この店ですか?」
「ええ。ここは安いしうまいから、野郎と飲むにはうってつけなんすよ。」彼はうそぶくように言った。
「なんだか貧相な店ですね。」男は怪訝そうに言った。
「高くて豪華な店に連れてっても、先輩は味とか分からないでしょ。どうせ。」
タマキはそう言うと、戸を開けて店に入っていった。なるほど確かに。男は妙に納得して彼の後に続いた。
彼らはカウンター席ではなく、店の奥の座敷に通された。店内は薄暗く、あちこちが何となくベタベタしていた。開店時間になって間もないため客は少ない。タマキは来店から十五分も経たないうちに、既にビールを二杯飲んでいた。
「どうしたんすか?全然酒がすすんでないですけど。」
彼は店員を呼んで三杯目のビールを注文した。
「そんなに強くないんですよ、酒。というかあなたは僕より学年は一つ下でしたよね?それなら未成年じゃないんですか?」男はおしぼりでテーブルを拭きながら言った。
「俺は一浪なんで、歳は先輩と同じ二十歳っすよ。今年で二十一です。」彼は平然と答えた。
「浪人って…。そう言えば実家が裕福なんでしたっけ?あなたは。」
「まぁ、そうですね、よく知りませんけど。でも今時、浪人なんて珍しくもないでしょ。先輩が通ってる大学にも浪人して入学した人とか多いんじゃないんすか?」
「さあね。いちいち聞いて回った訳じゃありませんし。分かりませんよ。」
ゴトンと音がしてテーブルにジョッキが置かれた。タマキはすぐにそれを取ってうまそうに飲む。それに合わせて男も少しだけビールを飲んだ。タマキはビールで喉を潤すと、頬杖をついて口を開いた。
「先輩はなんか新しいバイト、もう始めてるんすか?」
「いいえ、何度も面接受けているんですけどね。悉く不採用ですよ。」
「マジすか?なんか意外ですね。」
「そういう体質なんですよ。だからキャバのバイトは絶対続けていきたかったんですけどね。まさかクビになった上に給料未払いで飛ばれるなんて想像だにしませんでしたよ。」
「ふうん」
「本当に店長とかのこと何か知りませんか?連絡できる方法とか居場所とか。」
「何も知りませんよ。三日前、珍しく一時前に営業が終わったんすけど、その日はなぜか、閉店作業しなくていいからもう帰れってマネージャーに言われて、そんなこと今までありませんでしたよね?それで二日前、いつも通りに出勤したらもぬけの殻にだったんすよ。」
「そうですか。あなたや他のバイトの給料はどうなっているんですかね?」
「さあ、俺は支払われてなかったので、多分他のバイトも払われてないと思いますよ。」
「…給料が未払いなのに、随分とあっさりしてますね。」と男は顔をしかめて言った。
「まぁ、俺は実家から毎月十五万くらい仕送りが来ますしね。金には困ってないんすよ。」
「そんなにどうして!」男は驚きで思わず声を荒げた。
「さあね、知りませんよ。そんなこと。」
タマキは興味なさそうにそう言うと、自身と男の分のビールをまた注文した。
「僕はもう要りませんよ。」と男は呆れたように漏らした。
「まあまあ。いいじゃないの、俺の奢りですし。飲めなくなったら俺が飲みますよ。」
ビールは一分も経たずに運ばれてきた。タマキはゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲むが、その顔はもうかなり赤い。店は少し混んできたようで、カウンター席は全て埋まり、店内もかなり騒々しい。
「十五万ねえ…。そんなに仕送りしてもらっているなら、どうしてバイトなんかしていたんですか?」男が尋ねた。
「え?そりゃあキャバでバイトする目的なんてキャバ嬢以外ないでしょ?」タマキは当たり前とでも言いたげにきょとんとしている。
「あのねぇ、嬢と恋愛関係になるのは御法度だって働き始めてすぐ言われませんでした?」
「はい、言われましたよ。」
「それならどうして…」
「先輩はあの決まり守ってたんすか?」
「当たり前でしょう?そんなこと。」
「…嘘だろ、マジかよ。」
タマキはそう言うと、店中に響き渡るほど大きな声で笑った。その間、男は苦い顔でひたすらビールを飲んでいた。
「何も可笑しいことは言ってませんよ。皆守っていることですからね。当然。」
男の言葉にタマキは更に大笑いした。
「いや、あんたぐらいだよ。あんな決まりを律儀に守ってんのは。店長も副店長もマネージャーも、みんなやってるからバレないようにすればいいって他の先輩バイトに教えられましたし。新人を除けば先輩ぐらいじゃないすか?何もしてないのは。」
男は耳を疑った。
「は?店長やマネージャーも何だって?」
「店長もマネージャーも手を出してるって言ったんですよ。特にマネージャーなんかは、ほとんどの嬢と関係があったらしいし。大したもんだよ、知らんけど。」タマキは愉快そうに言った。
「…きつい冗談だな。」
男は額を手に乗せて俯いた。タマキは男の様子がよほど面白いのか再び笑い始めた。
「まさか気づいてなかったんすか?てっきり黙認してるのかと思ってましたよ。」
「…」
「先輩はホントにクソ真面目ですねぇ。」
「…」
「窮屈じゃないんすか?もっと手を抜いて生きればいいのに。」
「…」
「ま、俺には関係のないことだけど。」
それから男はただひたすらビールを飲んでいた。タマキはずっと喋っていて、男は彼が反応を求めたときだけ短く返答し、それ以外はずっと黙っていた。
結局彼らは一時までその居酒屋にいた。タマキは宣言通り代金を全て支払った。
「それじゃあ先輩、俺はタクシーに乗って帰るんで。」とタマキは言った。
「ええ、さようなら。」男は素っ気なく返した。
男は彼には目もくれず、歩き出した。タクシーの走り去る音が祇園に響く。通りにはほとんど人がいなかったが、周囲のキャバクラや居酒屋の中から笑い声が薄く聞こえる。彼はタマキに勧められるままビールを四杯飲んでしまったため、足下がおぼつかなくなっていた。視界がぐるぐると回るのに合わせて脳みそまで回っているような感覚に陥り、胃がビクビクと震えるのに呼応して食道も縮みあがっている気がする。たまらず近くの壁にもたれかかった。壁の表面は猫の舌のようにざらざらするが、ひんやりとして心地よい。しばらくの間、男はそのままだったが、胃の内容物が次第にこみ上げてくるのを感じた。急いで後ろを向き、壁に手をついて俯くと、すでに胃液は喉元までせり上がってきている。しかし、男はそれを飲み込んで再び胃まで押し返してしまった。
「先輩はホントにクソ真面目ですねぇ。」
声が聞こえた。なりたくてそうなったわけじゃないさ。男は自嘲しながら顔を上げた。顔は青白く、額には汗で髪の毛が張りついている。
「もっと手を抜いて生きればいいのに。」
幻聴だった。きっとあんたらみたいな生き方が正しいんだろうな、でもね、皆がそんな風に器用に生きられるわけじゃないんだ。男はそう呟くと、壁に手をついたまま歩き始めた。
祇園を抜けた先には、街灯は疎らにしかなかった。深夜に染まった東大路通を、男は不確かな足取りで歩いていった。




