七月一日(金)①
七月一日(金)
世間的には今日から夏に入ったとされたが、実際には夏は少し早く訪れていた。数日前から最高気温はすでに三十度を超え、一昨日からはセミが鳴き始めていたのだ。男はセミの声と音楽を聴きながら大学へ行き、三限目まで講義を受けた。三限目の後、館内から出る際にチラリとベンチの方を見ても、あの女学生はいなかった。
男は少しネガティヴな気持ちで帰路についたが、どうやらそれは長くは続かなかったようだ。アパートに着くと、建物中に響き渡るほど大きな音を立てて扉を閉めた。隣人のフアンが心配して訪ねてくるほど大きな音だった。彼は適当な言い訳をしてフアンに謝ると急いでアパートを出た。
男はかつて自身のバイト先だったキャバクラへ向かっていた。なぜなら四月と五月分の給料は六月末に支払われることになっていたにもかかわらず、帰宅途中に郵便局のATMで確認してみても、ほんの一円も支払われていなかったからだ。同じようなことは何度もあり、その度に面と向かって催促しなければならなかったのである。
なんでわざわざこっちから出向かないといけないんだ、と心の中で悪態をつきながら、彼は平安神宮を避けるように丸太町通りと東大路通を通って祇園へ向かい、そして、いくつか路地を進んで、キャバクラがある場所に辿り着いた。いや、キャバクラがあった場所、と言うべきか。男が二年ほど勤めた店の入り口にはテナント募集中の板が無造作に貼り付けられていた。しばらくの間、彼は呆然としてその場に立ち尽くしていた。ここに来るまでにかいた汗とは別に、冷たい汗が額や背筋を伝う。時刻は十七時で祇園が本格的に活気づくにはまだ早く、ただでさえ大通りからいくつか路地を抜けた場所にあるこの通りは、息が詰まるほど静まり返っていた。
男は我に返り、試しに従業員用扉を引いてみたが、扉は開かなかった。次に客用扉に近づいて開けようとしたが、当然ながら扉は開かなかった。もう一度、従業員用扉に近づいて扉を引き、客用扉に近づいて扉を引いたが、無駄に終わった。念のため更にもう一度、小さくボロい扉に近づいて開いているか確認し、大きくきれいな扉に近づいて開いているか確認したが、徒労に終わった。男は何度もあっちの扉からこっちの扉へと行ったり来たりをし、更にそれを数十回ほど繰り返してようやく現実を受け入れた。一縷の望みをかけ、携帯電話を取りだして店長に電話をかけたが、どこにもつながらなかった。副店長もマネージャーも同様だった。男はスマホを地面に叩きつけたくなって手を振りかぶったが、すぐにため息をついて腕を降ろした。彼はすっかり途方に暮れてしまった。
男の背後を足音が疎らに通り過ぎていったが、一人分の足音が近くで止まるのを感じた。もし常連客だった人なら何か情報が聞けるかもしれない、と彼は振り返った。そこにいたのは常連客ではなかったが、常連客なんかより事情に詳しそうな人物だった。黒のスウェットに白いTシャツという楽な格好と長めの茶髪をした若者。顔は今風だが、口もとには軽薄な笑みが消しがたく染みついている。彼はかつてこの店で一緒に働いていた男子学生で、勤め始めた頃には男があれこれ指導していたことがある。名前はなんて言っただろうか。男は眉をひそめた。
「おお、先輩、久しぶりです。俺っすよ、さすがに忘れてないですよね?」と彼はやはり軽薄さを漂わせながら言った。
「ええと、タマキさんですよね。憶えてますよ、もちろん。」と男は愛想笑いを浮かべて返した。
「絶対に今思い出したでしょ、あんた。」とタマキはクツクツと笑いながら言った。
「かわいい後輩の名前を忘れる訳ないでしょう?それで、どうしてここに居るんですか?偶然とは思えませんけどね。」
「やっぱ分かっちゃいます?でも店長とかにそうしろって言われた訳じゃないですよ。てかあの人たちと連絡取れなくなっちゃってますし。」
「それならどうしてあなたはここに来たんですか?」
「先輩にお礼をしようと思ってたんすよ、あんたがクビになって以来ずっと。先輩にはそれなりに世話になりましたし。でも先輩の連絡先知らないんすよね、俺。だから、給料日の次の日にここで待ってれば来るかなって。」
彼はそう言うと、スウェットのポケットからタバコとライターを取り出した。
「路上喫煙は駄目ですよ。」男は大して咎める調子もなく言った。
「そんなの守ったってしょうがないでしょ。どうせみんなやってるわけだし。」
「深夜はね。でも今はまだ夕方です。」
男がそう言うのを気にもかけず、タマキは煙を吐き出して言った。
「あ、そうだ。先輩、俺が前にプレゼントしたタバコ、もう全部吸っちゃいました?」
「そんな訳ないでしょう?十二箱もあったんですから、二ヶ月では吸いきれませんよ。」
「ふうん。まあでも先輩クビになったから、もうそのタバコも意味ないんすよね。」
「まあ、そうですね。それで僕にお礼っていうのは?」
「ああ、そうだった、そうだった。飲みに行きましょうよ、俺が奢るんで。」
タマキはタバコを指で弾き、靴で踏みつける。男はそれを渋い顔で見ていた。タマキはそのような様子には気づかずに、大通りに向かって歩いて行った。




