六月二十八日(火)
六月二十八日(火)
梅雨が明けたのか、雨の降らない日が続いている。外はうんざりするほど蒸し暑いのに対して、大学の講義室は空調がひどく効いていて寒いほどだ。汗で湿ったシャツが空調で冷やされて、男は風邪をひいてしまいそうだった。彼はいつものように二限目まで講義を受けた後、帰宅するために講義室を出た。
柱廊に出て、先日の女学生が座っていたベンチの方に目をやると、そこには彼女が同じように座って昼食をとっていた。彼女は男に気づき、箸を止めて笑顔で手を振った。男は少し逡巡したが、そのベンチへ歩き出した。柱廊の外は初夏の息に包み込まれ、彼の日焼けした首はヒリヒリと痛む。
「また会ったね。」と彼女が言った。
「ええ、奇遇ですね。」と男が言った。
「ホントに奇遇だと思う?」
「そうであることを願っていますよ。切実に。」
「ふうん。君って友達いないでしょ。」彼女はニヤニヤして男を覗き込みながら言った。
「なんですか、突然。」男は突然痛いところを突かれたことに少し動揺しつつ、「いやあ、それにしても梅雨も明けてすっかり夏ですね。大学生なんですから夏は満喫しないといけませんよ。でもその前に期末試験もありますね。どうですか?試験勉強してますか?」と適当話題をそらそうとした。
「試験勉強かぁ。試験の一週間前くらいから始めたらいいかなって思ってるかな。」彼女はベンチにもたれて上の空を眺めながら答えた。
「それは良くないですね。早めに取りかかる習慣は付けておいた方がいいですよ。」男は演技かかった調子で言った。
「うん。そうかもしれないね。」彼女は勢いよく身を起こして男の方を向き、「それで君って友達いないよね?」
「今はそんなのどうでもいいでしょう?試験勉強と友達の有無になんの関係があるんですか?」男は笑いながら言った。
「そうだね、無理に言わなくてもいいよ。君の反応を見たら何となく分かるし。」彼女は呆れた様子で言い、「友達が欲しいならサークルとかに入ったら?」と続けた。
「サークルに入れば必ずしも友達ができる訳じゃありませんよ。」男は不貞腐れたように言った。
「でも何もしないより可能性は上がるよ?君、まだ一回生だよね?時間の余裕があるうちにやってみるべきじゃない?」
「僕は三回生ですよ。それに昔はサークルに入っていました。その上でそう言ったんです。」
「え?そうなの?ウソ、いつも一人だから、てっきり周りに馴染めてない一回生の人だと思ったのに…」
彼女は必死に笑いを堪えようとして手で口を塞いだが、口の隙間から空気が漏れている。
「別にそんな変なことじゃないと思いますけどね。日本中探せば似たような大学生はごまんといますよ。」男はむっとした。
「そうなの?やだ、私、絶対にそうはなりたくない。」
彼女は我慢することを止めたのか、膝を叩きながら笑い出す。男は、幻聴に比べたら可愛いもんじゃないか、と思うことにして湧き上がってくる屈辱感を抑えた。女学生が一通り笑い終わるのを待って彼は尋ねた。
「それで、あなたは何回生なんですか?」
「私?一回生だよ。」
「通りで暇そうな訳ですね。」
「あ、ひどい!先輩ひょっとして恋人もいないんじゃないの?」
恐らく彼女は何気なく言ったのだろうが、男はその質問に、まるで心臓の横を槍が掠めたかのようにぞっとし、
「はは、そうですよ。鋭いんですね、見た目に寄らず。」と少しだけ硬い表情で答えた。
「そこは意外とすんなり答えてくれるんだね。」彼女は驚いたように言った。
「ええ、いないものはいないんですから。」
「ふうん」
「昼食をとっている途中みたいですね。すみません、僕はもう失礼します。」男は彼女の手にある使い捨て容器の弁当に視線を落としながら言った。
「いや、まだいていいよ。先輩に聞きたいことあるし。」
「僕に?まあ答えられる限りは答えますよ。」
「そっか、ありがと。」
彼女はそう言うと、男に向き直った。
「それで、何を聞きたいんですか?」
「うん。さっき、昔サークルに入ってたって言ってたよね?」
「ええ、言いましたよ。」
「どうして抜けたの?」
「そうですねえ。…まあ、勉強に集中するためですよ。僕はおつむが残念だから、サークルと勉強の両立ができそうになくって。」と笑いながら言った。
前を横切りながら週末の予定について話している学生たちを彼の目が追いかける。
「ふうん」
「あなたは何かサークルに所属しているんですか?」
「うん、判例読んだり模擬裁判したりとかするサークル。」
「ああ、ありますね。そんなの。」
「それでね、そのサークルを抜けるか残るか悩んでるの。」
「へえ、どうして?友達ができなかったんですか?」
「うーん、そもそも女の子が少ないの。男の子ばっかりで、それに下心丸出しで。飲み会でお酒を飲まそうとしてくるし。私、未成年よ?何かと理由をつけて私の下宿に来ようとするし。もっとうんざりするのは部室とかで女子が私しかいないときなの。先輩に分かる?あの男子特有のバチバチ感。男子が三人で女子は私一人のときとかもう最悪なの。私は大して興味ないのに、やたら得意げに政治とか法律とかについて長々と話し合ってるし。」
「なるほど、それは大変だなあ。まぁ、法学部の男子学生なんて九割はそういう連中ですしね。」
「先輩もそうなの?」
「僕も気になる女の子の前で難しい話ができたらよかったんですけどね。生憎、頭が悪くてそんなことできないんです。一つ前の総理大臣が誰かも忘れましたし、刑法三十九条が何についての条文だったのかも覚えてませんよ。」
彼女は男の言葉に小さく笑うと、弁当に蓋をしながら口を開いた。
「それでどう思う?残った方がいいかな?抜けた方がいいかな?」
「ひとえにこうしろとは言えませんね。どちらにもメリットとデメリットがありますから。」
「…」
「残れば人脈やら何やらができるけど、ストレスがたまる。抜ければ自由な時間が増えるけど、人との関わりが減る。難しいですねえ。」男は腕を組みながらそれっぽく言った。
「…そうだね、もう少し自分で考えてみる。ありがとう。もう一ついい?」
「何ですか?」
「先輩って恋人とかいないの?」
彼女は真剣な目で男の目を見た。彼はその目を見つめ返すことができなかった。正反対であるはずの彼女と“あの女“が重なって見えてしまったのだ。
「さっきもそう言いませんでしたっけ?」隣にあるベンチに座って仲睦まじく昼食をとっている男女を眺めながら、男は言った。
「そっか」彼女は目を逸らして呟いた。まだ何か言いたげだった。
「…何か言いたいことがあるなら言ってくれませんかね?」
「私、三限目に授業があるからもう行くね。」
女学生はそう言って弁当を男に押しつけ、ベンチから立った。そして少し歩き、振り返って彼を見る。一呼吸置いて、彼女は言葉を紡いだ。
「私、嘘ついたり誤魔化したりしてばっかりの人なんかと話したくないから。」
彼女は小走りで学部館へと向かって行った。
案外勘が鋭いんだな。そう思いながら男は彼女が寄越した弁当の残りを食べた。どうしたもんかな、と思いながら箸を動かす。自分の身の上について話すことは、彼にとって最も苦手なことで最も忌避することだが、彼女に口を利いてもらえないことも、なかなか耐えがたいことに感じられたのだ。
「どうしたもんかなぁ」
今度は口に出してそうぼやいていると、ふと木の陰で例の黒いモヤが、萎びたひまわりのように、地面に届きそうなほどうなだれているのを見つけた。
弁当を食べ終えて空容器を館内にあるゴミ箱に捨てた後、男は帰路についた。




