六月二十七日(月)
六月二十七日(月)
どんよりと曇っていたが、雨は降りそうにない。そんな日だった。男はその日の講義を受け終え、大学を出た。先日の女学生を見かけることはなかった。
狭い路地をいくつか抜け、アパートの近くまで来た時、アパートの階段下、郵便受けの前に誰かが立っているのが見えた。その人物は郵便を確認しているのだろう、男に背を向けているため、顔は彼から見えない。しかし、どこか覚えのある背中だ。男が階段の方へ歩いていると、その足音に気づいたのか、郵便受けを向いていた顔が彼の方へ振り返った。隣人のフアンだ。男とあまり変わらない背丈に、人当たりのよさそうな雰囲気、同じアジア人ではあるが、どこか日本人とは異なる顔つき。確かに隣人のフアンだった。しかし、以前挨拶した時とは、少し様子が違っていた。くたびれたような表情をしていて、少し痩せたようにも見える。それに、その目には涙をためていたのだ。
「どうも、フアンさん、ですよね?」
男は確信が持てず、つい疑問形になってしまった。
「はい、こんにちは。」
フアンは笑顔で答えた。しかし、その笑顔は前に見せたものとは色の異なる、悲しそうな、つらそうな、笑顔だった。
「ええ、こんにちは。それにしても、どうされたんですか?前に会った時より、その、元気が無いみたいですけど。」
男は思いきってそう尋ねた。別にフアンの変化の理由に関心があったわけではない。彼ぐらいの若者が故郷から遠く離れた異国でうまくやっていくために、かなりの苦労を伴うということは想像に難くなく、男は彼の苦労自体には特別興味なかった。ただ、フアンが以前言っていた、「僕たちは家族みたいなもの」という言葉をふと思い出したのだ。男は彼のことを家族とは毛ほども思っていなかったが、それでも隣人のよしみで、話し相手くらいにはなれるだろうと思ったのである。最近は時間だけなら呆れるくらいあるしな。男はそう苦笑しながら、隣人の愚痴を待った。
「ああ、はい。実は、兄から手紙が来ていて、それを読んでいたら、つい泣いてしまって…」フアンは指で涙を拭った。
「手紙?」男は場違いな声を上げた。
「はい。」
そう言って、フアンは右手に持っていた封筒を男に見せた。
「あ、ああ!手紙ですか、お兄さんからの。」男は長々とした苦労話を聞かされると構えていたので、肩透かしな気持ちになりながら、「泣くほど嬉しかったんですか?」と続けた。
「はい、とても。読みましょうか?」隣人は今日初めてあの屈託ない笑顔を見せた。
男はすっかり困ってしまった。他人の、ましてや他人の家族の手紙など、勘弁願いたかったのだ。しかし、ここまで来て、やっぱりいいです、とは言い出せなかったのだろう。時間だけなら呆れるくらいあるんだから。男は自分をそう説得し、
「それじゃあ、お願いします。」と言った。
「はい、分かりました。えっと…、『拝啓』…」
フアンは非常に熱心に手紙を翻訳し、読み上げてくれた。しかしながら、彼は母国語から日本語への翻訳が苦手なのか、母国語のニュアンスを日本語に反映するのにとても苦戦していて、和文英訳でとんでもない代物を提出する高校生のようだった。そのため、男は彼の日本語をほとんど理解できなかったのだが、彼を気の毒に思って、ただひたすら深刻そうな顔をしてうなずくばかりなのだった。
フアンは改めて声に出してみて感極まったようで、読み終わる頃にはまた涙を浮かべ、声も震えていた。
「どうですか?兄からの手紙。」彼はビブラートのような声で言った。
「え?ああ、素晴らしいですね。素敵な家族ですね。」
「はい。特にここの…、『お前には家族がいることを忘れるな。いつでも帰ってこい。』というところ、僕は本当に感動して…」
自身の兄のいかに立派であるかについて、彼はまだまだ話し足りないようだった。しかし、男の方はといえば、そろそろ気が滅入っているのだった。
もちろん、彼の話を進んで聞きにいったのは男自身なので、気が滅入るというのは無責任なのかもしれないが、一昔前の機械翻訳のような日本語を、もうかれこれ二十分近く聞き続けている上に、家族の話題というのが男には耐えられなかったのだ。むしろ二十分も静聴し、相づちさえ打っていたのは上等と言えよう。
そこで、男は話題の転換も兼ねて、先ほどからずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「そういえば、なんだかお酒臭いですけど、今日はお休みだったんですか?」
その言葉に、フアンはカッと目を見開いて、驚いているような、うろたえているような、表情をした。旅行で飛行機に乗ったちょうどそのとき、家の鍵をかけていなかったことを思い出したかのような、そんな表情。男は彼の涙が奥へ引っ込んでいくところさえ見た気がした。
「あの?」男は怪訝な顔をして尋ねた。
「大丈夫!大丈夫ですから!」
フアンは背を向け、ガンガンガン、と階段をタカやハヤブサ顔負けの勢いで上り出す。彼の手に握られている紙の束は、バザバザ、と荒々しく鳴りながら空気を裂いていて、怪我をした鳥の羽ばたきみたいだ。
彼がドタバタと二〇三号室へ戻るのを見届けると、男はゆっくり階段を上っていった。




